「癒し」と「再生」について

「癒し」と「再生」について.
「癒し」という言葉は,普段「傷付いた部分を治療する」という意味で使われる.
例えばレジャーが労働の再生産を目的に作り出された活動であるように,いわゆる巷に溢れる「癒しグッズ」は,労働過程で傷付いた精神を治癒することを目的とする.しかしそれは結局の所,労働力の再生を目的とする一連の動きに組み込まれた戦略にすぎず,人々は絶えまない労働サイクルの過程で傷付いた精神を,お金を払って購入した「癒しグッズ」によって「再生」し,そしてまた絶えまない労働サイクルの内へと戻っていく.そこでは「癒し」前と「癒し」後の間に,切れ目も転換も存在しない.

それにしてもなぜ私達は時に,このありふれた日常が,明日もまた同じように,変わらず続いていくなんてことを信じることができるのだろう.

今日もまたバスに乗り学校に行く.3つ目のバス停で降り,坂を登って学校の門をくぐる.そして数時間のたいしておもしろくもない授業を受け,またバスに乗る.バスはそのまま家の近くへ自分を運んでくれる.
こういうのでもいい.
今日も私はバスの運転手として運転席に座っている.決まったルートを一日に数周し,そしてバスを駐車場に入れる.仲間とたわいもない冗談を交わし,家へ戻って妻の作った晩御飯を食べながら麦茶を飲む.

そういう普通であたり前の日常に,突然亀裂が入ることがある.
その瞬間,あたり前と思われていたような世界が,自分がこれからもずっとそこに乗っていくはずだった一つの道が,完全に崩壊する.
それはある人にとっては,大切な人との別れであり,ある人にとっては試験の失敗であり,ある人にとっては交通事故であり,病気の宣告であり,またある人にとっては死の経験みたいなもの...であるかもしれない.

その瞬間.人は,それまで自分がその内部でぐるぐるまわっていたような,一つの大きな流れから強引に引き剥がされる.
そして巨大な空虚...ともいえるような所に立たされる.
この空虚.ある断絶.ある喪失.そして傷...
それをいやおうなく抱えこんだ人々.

「癒し」というのは多分.そんな状況においてこそ必要とされる,力をもつものなのだろう.それは単に傷を治すということではない.「癒し」とは,大きな断絶を抱えた人々が,自分が喪失したものを前に,崩壊した後の世界を前に,その失われた破片をつなぎ合わせ,そうやって自らを再び生き直す可能性である.
「癒し」の行為を通じて,人々は「再生」への道を歩き始める.
しかしそれはもちろん,単純に自分がそれまで属していた世界,あるいは社会へ戻ると言うことではない.それは不可能なのだ.
壊れた破片をつなぎ合わせても,壊れる前の,そのままの状態は絶対に再現できない.そこには無数のひび割れと,欠落が含まれる.
しかしその過程を通じて,その傷を抉るような痛みを伴う行為を通じて,
人は初めて傷を持った「自己の生」を生き直す可能性を見い出しうるのであろう.

映画「EURIKA」において,すべてはバスのハイジャック事件をきっかけに始まる.事件はバス運転手沢井が,乗客としてそこにいた兄妹がそれまで属していた世界を完全に破壊する.
拠り所となる場を失った彼/女らは,浮遊するように,あてもない旅にでる.もうここにはいられない.かといって辿り着く先を見ることはできない.行くあても,帰る場所もない旅.
二人兄妹の兄,直樹は眠れぬままに閉ざされきった田舎道をさまよい,女を殺し続ける.
妹の梢は,言葉を発することはなく(それは直樹も同じなのだが),ただ,庭に作られたお墓や,海岸で拾い集めた貝殻といった物質的な部分にのみ,
時折強烈な執着を見せる.
もう何も永遠になんて続かない.
どこにも確固たる世界なんてものは存在しない.
いつかみんなこの崩壊を目の当たりにするんだ.

殺人を犯した直樹のことを秋彦はこういう.
「やっぱり一線を越えちゃった奴は,隔離されなきゃ行けないのかな.
でも,あいつにとってもその方が幸せなのかもしれないね.」
沢井はその言葉に激怒して叫ぶ.
「なんが幸せか.そげんこっが幸せでたまっか.」
直樹はいつか,いつか戻ってきて,そして...
「失ったもんば取り戻すと.」
「失ったもんば取り戻すと.」

崩壊した世界を,失われた世界を,生き直す可能性.
そんな世界をしぶとく生き続ける可能性.
それがこの映像の内において「発見」されるべきものなのかもしれない.

 
April 2001
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