Crazy English

今日はアジア映画祭でクロージング・フィルムとして上映された『Crazy English』を見てきました.すごく見たかったドキュメンタリーです.
主人公は中国のサNセスフルなビジネスマン.彼は自身の英語マスター法を中国全土に広める為,あっちこっちで膨大な量の講演活動を行っている人で,もちろん出版とかの分野でも大活躍の人.監督さん自身もこの映画を撮りはじめるまで本当には知らなかったらしいのですが,彼のカリスマ性は本当に強大で,講演はいつも大入り満員.彼の一挙一動が聴衆を動かしていくんです.私の中ではなんとなく小林よしのりとイメージ的に重なる部分が多かったんだけど...(笑)
彼の話す内容って,ある意味成功したビジネスマンによくあるタイプのことで...世界の力のある実業家のセリフを取り入れたり,劣等生だった過去から這い上がって成功を掴むまでの苦労話をしてみたり...「あ〜あ,成り金ビジネスマンがよくいいそうなことだよ」って感じなのですが,それをそうやって簡単に流せない力と危なさがこの映画の中には漂っているんですね.映画みながら,思わず私も彼に影響されそうになったもん...(笑).いや,笑い事じゃなくて本当に.だってかっこいいし...力に満ちあふれていて...ああ...ついていきます...って感じ.
彼のいう事って,現代的ナショナリズムの典型的なパターン(過去の全体主義的ナショナリズムが,自国の民族性とか文化を守る為にそれ以外のものを徹底的に排除しようとしたのに対して,自国の経済的・政治的弱さを認識し,英語という外国語を利用しながら中国人としての誇りと愛国心を高め,中華民族一体となって世界進出を目指そう!っていう意味で...)だと思うんだけど,それがあまりにもそのまんま分かりやすい形で映像となってバーンと見せられて,しかもそれに熱狂する人々の姿とかも同時にガーンって見せられちゃうと,これはもうなんていうか...
そうとう異常です.本当に本当に不思議な感覚に陥りました.いや,これで中国やばいとかね,そういうことじゃ全然なくて.これって実際いろんな所でいろんなレベルで起こっていることであって,でもその渦中にいると,そういう不思議な状況が当たり前でしかなくなるというか...全然変なものとして見えてこないんだ,っていう危うさがね.そんなことを強烈に感じました. 

ヴェンダース ナイト

おとといの夜,ヴィム・ヴェンダースを3本見ました.『パリ,テキサス』『都会のアリス』『アメリカの友人』です.
3本続けてみてみて,彼が撮ろうとするもの,というか彼に映画を撮らせる衝動みたいなものはずっと一貫しているんだなあ...ってことをしみじみと感じました.
やっぱり根底にあるのは自己の存在の不確かさみたいな問題で,彼の映画に出てくる人たちってみんなある意味他者との関係を取り結べない人たちばかりなんだと思う.
『パリ,テキサス』でトラヴィスにしろジェーンにしろ...自分のことを語る時には絶対に相手のことを見ないっていうのは,その事をすごく端的に表現している気がします.彼等にとって語りかける対象は,彼等の目の前にある絶対的な他者としての誰かではなく,常に自分の中に,自分のイメージの中に回収された誰かでしかないわけです.『都会のアリス』で映画に出てくる人たちの会話が全然かみ合っていないのも,みんながみんなちゃんと会話の対象としての他者と向き合っていないからで...
そうなってしまうのは,絶対的な自己があるからではなてむしろ反対で,つまり自己の存在があまりに曖昧で,そうであるがゆえに自己を映し出してくれる他者や自分をつなぎ止めてくれるルーツみたいなものが必要になるんだけど,そんなもの実際には存在しないし,「これがそうなのか?」と思った瞬間に自己を徹底的に破壊されちゃったりもするわけで...そんなこんなで『アメリカの友人』になると,アメリカからやってきた不可解な人物によって自分のあり方みたいなものが思いもかけない方向へとどんどん変えられていっちゃうようになるわけです.
主体のあり方とか,自己を確立する自由とか...そういうものの危うさみたいなものをかいま見せてくれる映像たちでした. 

ファザーレス

ファザーレス/1998/日本/78min./VTRカラー/茂野良弥

今日は大学で『ファザーレス』を見た.これで2回目です.1度目と比べるとちょっと違った見方の可能性とかが個人的に見えてきて,ちょっとした発見でした.
まあ,ラストについてなんですけどね.やっぱりあのラストはちょっとひっかかります.
「僕のファザーレスは終わった...」っておい!終わっていいのか!それで!!って感じで...
あのラストは自己のあり方を不完全なものとする不在としての父親像を,義理の父との関係回復を通じて再び獲得する...というふうにしか見えないっていうのも確かにあるんだけど...でもやっぱりそれだとおもしろくなくて...っていうかもっと違う見方の可能性もあるかな,と思うわけで...
やっぱり個人的には,映画の最後で宣言される「ファザーレスの終焉」は,単に自分に欠けていたものを何かによって埋め合わすことができた...という意味での終焉ではなく,もはや「ファザー」や「家族」...なんでもいいんだけど,とにかくそういうものが,自己を形成する要素,それを獲得することによって自己のアイデンティティとか社会性とか...そういったものが保証される要素ではなくなったのだ,と.そういう意味での「ファザーレスの終焉」であると考えたい気持ちです.映画のラストに示されるのは,家族との和解ではなくむしろ決別であって,そういったものとの絶対的な断絶を抱えたまま生きていく決意なのだと... 
う〜ん...モダンだ...

The Devil's Island

昨日はアジア映画祭に行こうとしたら休みの日で...なんとなく家でフレドリック・トール・フレドリクソンの『The Devil's Island』を見た.これまた救いようのない映画だった...
この人はアイスランド出身の人で,自分の生まれ育った場所をテーマにずっと撮り続けてきている人で,私はなぜか結構すきなんです.ストーリー自体はそんなにいいと思えないものもあるんだけど,やっぱり撮る対象(景色とか人々とか)がすごくいいし,あとやっぱりアイスランドについて撮る事についての切実な思いを感じるから.
彼の場合に問題なのは,やっぱり近代化とかの波に揉まれて失われていく故郷の存在なんですね.若者はみんなイギリスとかアメリカに行っちゃって,自分の生まれた場所はもうすでにはるか遠く瓦礫の中で,誰一人住んでいないような島になってしまう.発展とか進歩とか,そしてそれに憧れて取り込まれていく人々...でもそういう一連の大きな流れによって壊されていくものたち...
それは『missing angel(封題:春にして君を想う)』においては故里の島であり,『The Devil's Island(封題:精霊の島)』においてはバラック地区やそこに住む人々の心であったりするわけです.彼が撮る場所は,近代社会の廃棄物が集積された波止場とか,誰もいなくなった島,都市の中の貧困住宅地,ただどこまでも続くアイスランドの大地etc...とにかく近代的創造の裏側とかそこで失われていく何かばかりなんですね.そういうものを撮らざるを得ない状況みたいなものが,すごくすごく響いてくる所があって...
特に『春にして君を想う』のラストは何度見ても泣いてしまう...切ない映画です. 

 
July 2000
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