隙間から生まれるものたち

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友人が送ってくれた江國香織の『流しのしたの骨』に流れる空気がなんだかとても好みで、あぁ、この空気、これはなんなんだろうと考えているうちに「主婦的思考の宿る場所」という単語に行き着いた。カテゴライズしたりされたりするのは苦手なくせに、自分が何かについて語ろうとする時にはまずキャッチフレーズになるようなタームから入るという、この適当さ。でも、一年前に割といろいろ思うところあった「中年独り者文学」につぎ、最近はこの「主婦的思考の羅列文学」みたいなものが気になっていたり。

『流しのしたの骨』は淡々とした家族の日常を描いた小説......になるのかな。個別に見ればなんだか妙ちくりんな人同士が、これまた外から見るとよく分からない不思議なルールにのっとって家族という、奇妙でありつつも絶妙なバランスを作り上げている、そのバランスそのものをふんわりと描き出したような感じの小説で、そういう小説のありかたそのものを支えるものとして「主婦的」な時間の流れというか思考というか、とにかくそういうものがあるんじゃないのかな、と思ったのだった。
ここで大切なのは「主婦的」という部分で、これはあくまでも「専業主婦」でなくてはならない。できれば社会経験などほとんどないような、あるいは社会的なものから一歩距離を取っている、あるいはとれるタイプの、そういう「専業主婦」であってほしい。というのは、まぁ、ひどく勝手な専業主婦像のねつ造じゃん、と思われるかもしれないけれど、でも、悪意を持って言っているわけではないので許してほしい。言葉をかえれば、小さい頃からおおらかで割と何不自由なく育てられて、大きな挫折も感じず、与えられた幸せの域を越えるような無茶もせず、そんな人生をそれなりに愛していて、そんな人生にそこそこ満足している、といった、そういう安定感というか心のゆとりを持った人がかもしだす一種のバランス感覚という風にも言えるかもしれない。もちろんそれなりに危機と思われるような出来事も経験し、いろいろな悩みを抱えつつも、どこか崩しようのない安定感を保ってある、そういう存在。

『流しのしたの骨』を支えているのはまさにそういうぼんやりしてはいるけれど、なんだかとっても安定した、そういう存在の何かなのだと思う。そしてこの小説に限っていえば、そういう安定感を生み出している存在は「お母さん」なのである。お父さんの前では常にすっぴんで、毎日の食卓を小枝とか葉っぱとか石とか、そういうもので飾ることをはじめ、生活の細部に関するちょっとしたこだわりをいろいろと持っていて、社会に出ることもなく4人の子供を育て、子供たちが手がかからなくなってからもとにかく何かを世話せずにはいられないような所がある、お母さん。いつでも家にいて、なんでも、まぁ、そんなもんよね、みたいな感じでおおらかに受け止めつつ、そのくせ時にこちらにとっては理不尽とも思えるようなとんでもない要求を投げかけてきたりする、そういうお母さん。
小説の主人公はことちゃんという19歳の暇な女の子なのだけれど、でも、小説全体をまとめあげているのは、このお母さんなんじゃないかと思う。この、ことちゃんにしても、このお母さんなしでことちゃんはない、と思えるような、そういうおおらかさと年齢に不釣り合いにも思える安定感を持っていて、停滞しているようで実はすべての可能性を内包しているような、そういうよく分からないパワーに満ちている。

ちなみに『流しのしたの骨』を、主婦的な空気によってまとめあげられた小説だとすると、主婦的な空気が産まれる場所、あるいは主婦的な思考の流れそのものを戦略的に描きだそうとしているのが保坂和志かもしれない。
保坂和志は『この人の閾』において、主婦のいる場所を「家庭の”構成員”のそれぞれのタイム・スケジュールの隙間のようなところ」(その後「それでは”中心”はどこにあるかといえばたぶんそんなものはない」と続く)なんだろうと言い、彼の小説というのはつまりのところ、『この人の閾』に限らず、そういう「隙間」からしみ出てくるような言葉だとか記憶だとかの羅列のようなものだと思うのだけれど、彼の場合は「隙間」からしみ出るものをつらつらと書き連ねることによって「隙間」そのものを描こうとするような所がある。江國香織の『流しのしたの骨』やその他どちらかといえば女性的かつ主婦的な視点で書かれたものが描き出すのは「隙間」を(必要な条件として)あらかじめそこに含んだ全体の風景であって、それにしたって全体の風景を支える、あるいは生み出す隙間の認識なくしてはできないことだけれど、でも小説の構造において隙間が持つ意味という点で保坂和志のやり方とは区別されるような気がする。

ところで意外に思われるかもしれないけれど、私にとっての主婦作家の代表というのが川上弘美で、私はこの人の、特に短編を読むたびに、どうしようもなく主婦的な何かをそこに見いだしてしまう。一見脈絡のない出来事の羅列というか展開。身近なものが、そうは見えないけれど、でも実はそうであったりするかもしれない何かへと変身していく過程。洗濯物を干していたり、買い物にでかけたり、という所から始まる、あるいは公団住宅の一室で広がっていく物語。他愛もないものが突然思いもかけない仕方でその存在を露にしたり、一般的な価値基準があっけらかんと逆転されてしまったり、そういうことが往々にしておこる状況。んー、普通の主婦はあんなに奇想天外なことは考えないものなのかもしれないけれど、あの思考のきっかけとか展開の仕方が、私にとっては主婦的に思えてしょうがなかったりする。奇想天外なのに妙な安定感があったりするせいかもしれない。この妄想と紙一重の安定によって家庭という微妙なバランスは保たれているのかもしれないと思ったりするのだ。

なんだか互いに脈絡のない作家の羅列になりつつあるけれど、保坂和志の、例えば『この人の閾』とか『カンバセイション・ピース』と江國香織の『流しのしたの骨』が主婦(夫?)的であり得たのは、主人公ならびに主要登場人物の暇さ加減に負うところが大きいかもしれない。とりあえず今は何もしていないといった状態だったり、仕事はしているけれど、のらりくらりと重要なポストを避けていたり、野球ばっかり見にいっていたり。特にめりはりがあるわけではないけれどたんたんとした時間の流れや社会から一歩退いた、でもそこに対する意識は常に持っている感じや、その他もろもろの条件が揃って初めて、こう、どこからともなく浮かび上がってくるような思考の数々。それらが生み出される場所。あるいはそこから生み出されるものによって支えられている世界。
その魅力が何なのか、私はまだ掴みきれていないのだけれど、でも、主婦的な世界が持つ一種の深みみたいなものがなんだかとても気になっている。

posted by f at 2004/07/10 10:42
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comments

わー、りょさんは、えーと、"あの"りょさんだよね。
メッセージありがとう。東京は暑い? こっちはなんとなく夏らしさに欠ける涼しい日が続いています。
りょさんもブログにしようよ。そして一緒にトラックバックとかし合ってブロガーを気取ったりしよう。

posted by fumi at July 10, 2004 08:50 PM

わー、ブログになってるー!しかも初コメントでしょうか。うふふ。いつも楽しみにしてます。

posted by りょ at July 10, 2004 12:15 PM
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