Manali, India

康診断に行く.
顔色がよほど悪かったのか血を抜かれる時一本ごとに「大丈夫ですか?気分悪くないですか?吐き気
とかありませんか??」としつこく聞かれる.血圧も低いらしく何度も測られる.それって何度もやれば良くなるものなの?って気もするのですが
多少上がりました.そんなこんなで2時間半ぐらい拘束されてみました.
帰りのバスの中で,どこかにマフラーを忘れてきたことに気付き超ブルーになったりもしました.

久しぶりにインドを旅行していた時のガイドブックを見てみる.
デリーについた後,北に行こうと思ったのはこのガイドブックでインド北部の村々に残る土着的宗教建築の文章を読んだからだった.
その時丁度怪し気なインド人から「マナリ(北の街)では新年に大きなフェスティバルがあるよ」と言われ,その頃にはもう何があってもどうでもいいや,騙されてもなんでもまあいいや,って感じでかなりインドでの生活に慣れてきて(笑)いたので,勢いでバスに乗ってみることにした.
バスは目的地には一応ついたけどフェスティバルが行われているような気配はなくシーンと静まりかえっていた.
後で知った所によると,お祭りはあるにはあるけど年末らしい.まあいいんだけどね.
マナリは知る人ぞ知る良質のマリファナ生産地なんですよ.
なんとなく街全体がいい臭いに包まれて...いるような気がするのは多分私の気のせいでしょうが...

バスを降りたのが町外れであまりにも周りに何もなかったので,とりあえず最初に目に止まった(というか声をかけられた)インド人のおじちゃんにつれられてエライ豪勢なホテルに泊まる.
インドにいた1ヶ月間で一番豪勢なホテルでした.ホテルはからっぽで,そこのハネムーンルームっていうのをおじちゃんが一個ずつ説明してくれる.
真っ赤な部屋とか金キラな部屋とかね.悪趣味だわ.
まあそんなこんなで部屋を決めて,今夜は豪勢だなあ...なんて思いながら窓をあけると目の前は山の斜面で,しかもありとあらゆるゴミが散乱している.生理用ナプキン捨てんなよ!
気を取り直して久しぶりにちゃんと一定温度以上のお湯がでそうなシャワーをひねるが反応はなし.
消毒済みのラベルがはってあるトイレをあけるとウンコが浮いている...
おかげでコップも何も使う気がしなくなる.
でもまあそんなもんさってことで,下に降りていって門番のおじちゃんがイモを焼いている炉端でしばらくおしゃべりをしたりして...そうやって私の1997年1月1日はすぎていったのでした. 

karlovac, croatia

クロアチアのカルコヴァックという街に行った時のことをふと思い出した.もう2年ぐらい前の秋だ.
ミュンヘンからバスに乗ってザグレブへ行き,そこから電車でカルコヴァックに向かった.
なぜそこに行ったかというと,カルコヴァックは内戦時ボスニア側に占領されていた地域に属する最北の街で,当時(今でも)私はユーゴ圏の文化とか政治とかに興味を持っていたからだ.
念のため言っておきますと,街はすっかり平和で,砲弾とかは別に飛んできません.じいちゃんたちがのんびり茶色い川辺でおしゃべりしていたり,子供達が怒濤のように学校から流れてきたりしているごくごく普通の小さな街.すくなくともみかけ上は平和そのもの.

だけど一見平和であるがゆえに戦争の傷跡はよけいに生生しく目に映る.
街の中心部は完全に破壊され,役場は外壁だけしか残っておらず,
屋根にはぽっかりと穴が空いている.
かつて床であった部分からは緑色の植物がにょきにょき生えてきている.
住宅地にはところどころ完全に崩落した家々や,2階部分の床が完全に落ちている家,窓ガラスが全部ない家,無理矢理壁の穴にドアをはめ込んで家としての見かけをかろうじて保っている家等等があたり前のように点在している.
そしてそこでごくあたり前のように人々の日常が営まれている.
いったいこの家に住んでいた人はどこにいってしまったのだろう...とか,死んでしまったのだろうか...
なんて思いがいろいろ頭に浮かんでくるんだけど,それを誰かにたずねでもしたら,そのとたん一見あたり前に見える日常が目の前で崩壊していってしまいそうで,そんなこと聞けなくなる.
カルロヴァックには日常とその崩壊が同時に存在している.
人々や町の記憶みたいなものが,確かにあるんだけれどもそれに触れることはできず,ただむき出しの状態でそこここに散乱しているという感じだ.
それをどう表現することができるのか未だによく分からない.
ただ衝撃...としかいいようのない何かがあの街にはある. 

『揺らぐジェンダー/セクシュアリティ』

図書館でやっていた『揺らぐジェンダー/セクシュアリティ』という企画を見に行って,最後の日の一番最後のビデオ作品だけなんとか見ることが出来ました.テレクラもので,個人的にはすごく興味があったんです.映像,音響共にコレデモカ!ってぐらいのロー質で,あまりの見にくさ聞き取りにくさに退いちゃった人も多いのでは...と思ったりもするのですが,でも個人的には結構衝撃を受ける所がありました.
話としては33才,亭主子持ちの主人公(監督さん)が,でもなぜか若い男の子(ちなみに25才まで)に対する執着というか憧れと言うか...を捨てることができず,若い男の子を求めてテレクラにのめり込み,どうしても止められないっていう状況になっていく...というかそうなっちゃった人の日常.一応ね脚本とかもあって,作ってはあるみたいなんですね,でもなんかどうしようもなくのらりくらりとした毎日を生きているこの主婦が,偶然知り合った若い男の子を脱がしベッドに連れ込もうとする,その時のその瞬間の力を垣間見てしまうと,もう画質や音質の悪さなんてどうでもよくなる.あの力はいったいなんなんだ...ってことで頭がいっぱいになっちゃう.本当にすごいんですって,その真剣さというか切実さというか...それが自分の生を支える最後の砦...とでも言わんばかりの凄み.そりゃあ男の子もやられちゃいます.なんで亭主がいて子供がいて決まった時間に仕事とかに出かけて学校行事にも参加する主婦が,金銭的にも肉体的にも物理的にはいかなる生死の危険性にも直面していないような人が,こんなに追い詰められてテレクラにおける性という領域においてしか自己の生を認識できない,生きている実感を得られない,生きて行けないっていう状況になるんだろう.でもそれはある意味とてもよく分かったりもするわけで...多分日常のありふれた生活には,そこにおいて「私」の生っていうものが確立されることを妨げるような要素が含まれているんだと思う.そこで私は「○○さんの奥さん」であり「○○ちゃんのお母さん」でしかありえない,と.で,それは私が思う「私」とはどこかずれている.結局私は家庭において,学校において,職場においてさえもある記号(他者がそうであると思う所の私)としてしか存在しえないのだと.で,それに対して,本来の自分であり得るような場所を,自分を縛り付けるあらゆる属性から離れて存在できるような場所を求めてテレクラやそこを通じての見知らぬ新しい他者との出会いを求めるのだと.さらに性的行為というのはより本来的な作り物でない自己になれる瞬間っていうような感覚もそこにはあるのかもしれない.それが本当にそうかどうかは別として.
ついでにいうと,この主人公の置かれた状況の切なさが最も強く表れているのは,この作品に寄せられた監督自身のメッセージ(今回上映された作品にはすべて監督からのコメントがつけられていたのですが,彼女のコメントが個人的には最も好感持てました.)の中においてだと感じました.もし世界が全部テレクラになってしまったら自分は社会とのつながりをすべて失うことになって,多分そこにあるのは死だろう...といった内容のことがそこには書いてあります.そして彼女がこの作品を撮ることによって辿り着いた答えは,今の自分は自分を何らかの形に規定してくるような日常にもはまりきれず,かといってテレクラの世界に完全にはまることもできず,結局日常に縛られたまま,そこから常に逃れようとする自己を認めつつ,そこにしか生き延びる道はないと思ったりしながら死なない程度に生きていくっ...という所だったりするわけです.
いやでも本当にそれしかもうないんだと思う.でも大事なのはそこであきらめてぼんやりと生き続けるんじゃなくて,いかにそれを肯定的に見つめていくかっていう点なんだと思う.そうじゃないと人生はあまりにも切なすぎる...って気がしませんか.

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レスポンス
テレクラへのめり込む時の衝動の内には,現実からの逃避(ここでいう現実とはもちろんそこにおいて生きていく可能性をもはや見い出すことができないような安全で安定していて真っ平らな世界みたいなもの)という願望が含まれているだろう.
しかしここで限り無く重要なのは,そこで最後の脱出口を求めテレクラにはまっていく人々が,この脱出口は虚偽にすぎないということを自覚してしまっている点であろう.

だから例えば主婦がテレクラにのめり込む最も根本的原因は「日常世界において生きていく可能性を彼女が失っている」ということよりもむしろ可能性そのものの虚偽性が彼女に対してどうしようもないほどに明らかになる...といった方がよいのかもしれない.
可能性とは常にあるかもしれない未来やそこにおける自己の形式として垣間見えるようなものであり,そこに辿り着く道は存在しているかもしれないけれども,可能性そのものは常に遠くはかない.
それは手に入れたとたんもはや可能性ではなく自分の生活の一部となって安全で安定した生活の内へと組み込まれ慣れ親しんだものとして消費されてしまうだろう.
結局現状から逃れようとする人々は,必然的に可能性の設定→消滅(消費)→新たな可能性の設定という終わりのないサイクルに取り込まれていく.そしてそこで明らかになるのは可能性などというものは結局のところ虚構にすぎないという絶望にも似た確信であろう.

結局テレクラにはまる主婦も鬱病に押しつぶされていく人々も,可能性の空間がすでに失われているという点においては同じなのである.ホテルで一時的な快楽に溺れる(ふり)をしてみるのも部屋の中で一人不安発作と格闘するのも苦しみの質としては多分同じなのだ.

それでは,虚偽的脱出口でしかないという絶望感を胸に電話に手をのばし続ける人々,あるいは鬱病ですという診断を受けて薬をのみ続ける人々,一度でもそんな状態を体験してしまった人々にとって,再び日常と向かい合って生きていく可能性は開かれているのだろうか?
それともそんなのは所詮無理な話なのだろうか...
私が今の段階で考えうる希望なんてものはほんのちっぽけなものなんだけども,多分次の点にある.つまり例え一時的にしか見い出すことができないとしても,可能性の領域あるいはその虚偽性といったものは,終わりのない現実から一歩抜け出そうとする衝動によってはじめて見えてくるものであるという点である.
そしてそこから闇へと落ち込んでいく人もそりゃあ沢山いるんだけど...でもやっぱりそこからしか始まらないっていうのもあるんだと思う,絶対.
これってK先生の言っていることと同じか.

でもやっぱり...単に現状肯定的に日々を(死んだように)生きるか,もしくは本質的には虚偽としての可能性の領域を設定することで,闇に陥る危険性を常に抱えたまま,なおかつ現実から一歩抜け出そうとするか...この二つの選択しかないんだとすれば人生ってやっぱ辛いものなのかも. 

"gummo",directed by harmony collin

 舞台はアメリカ合衆国のとある田舎町(正確にはオハイオ州のジーニア)である. 
 ここはかつて実際に竜巻きの被害にあった町であり,映画はその時の様子を写したホームビデオの映像から始まる.隣のおじさんが屋根のアンテナに刺さっていた...なんていうナレーションが入る.この閉ざされた田舎町に暮らすのは,そこ以外にどこにも行き場がなく,またそこを離れては生きていけないような一見普通のおかしな人々.子供達は常に欲求不満で自分のありあまるパワーを何に向ければよいのか,その対象も見出せないまま悶々とした日々を送っている.もちろん憧れは(ハード・)ロックスターかスポーツ選手.彼らはエアガン片手に町を徘徊し,猫を発見しては撃ちまくってなぶり殺しにし,その肉を町のレストランの裏口で店主に売り渡しては小遣いを稼いでいる.その金で手に入れるのは安くてトべるシンナーとセックス.ある時はシンナー片手にお先真っ暗な自分の未来を呪いながら時間を潰し,またある時はポケットに金を忍ばせて知的障害のある女性の住む家に出かけセックスしたりする.彼らからお金を取って彼女を与えるのは,その彼女の父親である.家に帰れば過去に囚われ,自分達の果たされなかった夢,というよりも自分が否応なく押し込められてしまった今の状況に抑圧的な形で彼らをとどめようとする母親達が待っていて,どこからわいてくるのかも定かではない愛情と呼ばれる一種の感情を彼らに対して見せつける.父親はいない.
 いっつもウサギの耳をつけている男の子はやせっぽっちで言葉を発せず,高速道路の高架からもうスピードで素通りしていく車に向かって力なく唾を垂らし続ける.女の子達はアイドルとの恋物語に憧れながら,形のイイ胸の作り方なんかにとりあえず没頭できるふりをする.
 ここで登場する人々は,みんな今ある状況でない状況を夢見ながらそんなものはしかし決して存在しないこともまた知り尽くしているかのように,行き場のない状況を受け入れそこに留まり続ける.徹底した無気力と深い絶望感,それらは時折衝動的な破壊欲求へと姿を変える.生きることの夢も希望も,その必然性さえも見えない世界である.しかしこうした世界がある作られたリアリティを持って我々の目の前に現れてくるのはなぜなのだろう.それは都会のサクセスストーリーにはない,だが同様に都市を徘徊するストリートチルドレンのドラッグとセックスとガンに象徴されるような退廃感とも決定的に異なる何かなのだ.それを何と呼べばよいのか,それはいったい何なのか...
 少なくともここにあるリアリティとは,単に近代の夢はもう破たんしているといった単純なものではなく,夢も希望もない世代に対するアイロニカルなシンパシーから起こるものでもない.ここにあるのは...ここにあるのはもしかしたら,現在の状況から解放された自己を夢見ることが可能だったかもしれない時がすぎ,今ここにある様々な物事に規定されると同時にそのことによってこそその存在が,破壊された形での自己を把握することができるという,絶望的ながらもある断片的な自己認識の可能性...なのかもしれない. 

What's Eating Gilbert Grape, directed by Lasse Hallstrm

 主人公ギルバートは,アメリカ合衆国の田舎町に家族と一緒に住んでいる.父親はかなり前に何の前触れもなく自殺し,母親は以来家から出ようとせず,精神的疲労で歩くことさえままならないくらいに太ってしまった.弟は知的障害を持っていて目がはなせず,彼は実質上一家の主人であった.そんな彼は町に一件のスーパーで働きながら,幼馴染みの友人達といつものカフェで雑談したりスーパーのおとくいさんと不倫したりしながらごくごく普通に生きている.すべては小さな町の中の閉ざされた世界の中の出来事で,彼は自分はどこにも行けないことをすでに知ってしまっていて,その閉ざされた世界の外に憧れながら,自分の日常を生きている.一方で彼は,自分がどこにも行けないことの理由を家族といった彼を縛るものに求めているのだが,もう一方ではしかしこの閉ざされた世界以外に自分が存在できる場があるとも思えずにいるのである.
 そんな閉ざされた彼の日常に外部からの侵入者(キャンピング・カーで生活しながらアメリカ中を旅してまわっている女の子とそのおばさん)がやってきて事態は一変する.彼女は彼にとって自分が縛られている様々な物事から解放された正に自由の象徴的存在であり,また自分を自由にしてくれるかもしれない救世主である.同じ時期,町にも様々な変化が起こる.大手のスーパーが建設され,ハンバーガーのチェーン店が出店し(こういったものは全部町の近代化を象徴するもの),幼馴染みはサクセス・ストーリーを夢見てハンバーガー店の販売員になったりする.かつて彼に対して「あなたは絶対に町から出ていかないから(不倫の相手に)選んだのよ」ってなことを言って彼をどうしようもなく絶望的な気持ちにさせた不倫相手も夫の死によって閉ざされた田舎町を去っていく.
 やがて彼の母親が死に,彼をその場にとどめようとする状況がすべて消え去った時,彼は鞄一つをもって弟の手をとり,解放の女神と自由の象徴であるキャンピング・カーに飛び乗って閉ざされた世界を脱出するのである.ある意味一昔前のロード・ムービー的展開である.
 しかし重要なのはこの"脱出"が映画のエンディングになっているという点かもしれない.
 多分彼は,定住することのない旅の連続に疲れ果て,一時は自由の女神であった恋人との関係も崩れ,どこか都会で定住しアパートを借りて定職につき(販売員かもしれない),弟と一緒に生活していくことになるのだろう...そんなことを想像してしまうエンディングである(勝手すぎる憶測?).多分そんな未来しかないことは簡単に予想でき,しかもそうであるがゆえに映画はそれ以前の段階で終わりを迎えるのだが(それ以降の展開は映画となるにはあまりにリアルなのである),と,すればこれはこれまでのロードムービーではなく,新しい要素を含んだものであるとも考えられる.それはつまり今ここにある状況からの脱出は,今だにある可能性を内包した自発的行為ではあるのだが,その後に辿り着くべき場所を示すことはもはや不可能であるという点においてである.ギルバートを閉ざされた世界に縛るものは,家族であり家族という神話であり,田舎町での閉ざされた人間関係であり,彼がそれを義務と感じるところの様々な既存の慣習や制度である.それは実際の所,この閉ざされた世界の外部にも同じようにはりめぐらされており,一時期の快楽や快楽的現象によって紛らわせるすることはできるかもしれないけれども,決してそこから完全に解放されることは不可能なものである.結局新しい世界も安住の地も存在はしない.しかし常に今ある状況から脱出し続けることぐらいはできるのかもしれない.そしてそのことによって自らを今ある状況にとどめようとする様々な力作用の存在をしることぐらいは可能性として残されているのかもしれない...
 こういう映画を見ながら最大限ポジティブに考えようとすれば...多分そういう所に行き着くだろう. 

 
November 2000
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