新学期の前日、バスは休日のダイヤで、ブックストアのみが異常な混み様

洗濯物を抱えて階段をあがってくる途中、階下の人から詩の朗読会に誘われた。朗読会の雰囲気って苦手なんだけど、私の友達も遊びにきているみたいだったので覗きに行ってみる。
"brain for breakfast, brain for lunch..."
アメリカの人文系大学院生は、こういうの、暗唱できるんだ、ふーん、とか思ったり。.


曖昧な問いかけが苦手みたい。
例えば
「どう?最近?」とか、
「何かあった?」とか、
そういう問いかけ。
どう答えていいのか本当にもう全然分からない。
何から答えればいいのか、何をどう答えていいのか分からない。
結局、一頻り混乱した後、「えーと...別に、何にも...」とか、つまらない受け答えをして会話を潰してみたり。

ちなみに、アメリカ人って、会うとすぐ"what's up?"とか"how's it going?"とか言うけど、もう、なんというか、曖昧な問いかけが苦手な私には拷問に近いものがある。
たまにいるみたいですね。
具体的に問いかけてもらえないと受け答えができない人とか、yes/no形式で問いかけてもらえないとどう答えていいか分からない人とか。多分私もその系統。

最初の内は、「私って本当に、何にもこれといって人に話すことがないような、つまらない日常を送っているのかも」とか、「自分の言葉を相手がどう受け取るか、そんなことを気にし過ぎなんじゃないんだろうか」とか思っていたわけですが、なんてことはない、単に私はある特定の問いかけに対するレスポンスというのが苦手なだけなのだ、と、最近ちょっと開き直りぎみ。

話そうと思えば話すことはいろいろあるのです。一旦話ができるような状態になれば、延々と話し続けたりもするのです。
でも、「最近どう?」とか言われても準備できていない、というか、どういう風にして自分の日常のうちにある、あんな瞬間とかこんな出来事とかを人に対して話したらいいのか分からない。どういう表現が効果的なのかわからない。そもそも話だすきっかけがつかめない。

繰り返しになるけど、それっていうのは、別に「他人がこんなこと聞いてもおもしろくないんじゃないよね」とか「what's new?」なんて曖昧な問いかけをしてきているけど、この人はきっと特定の回答をあらかじめ想定しているに違いない。だからそれに添うような受け答えをしなくちゃ」とか思っているわけではない、みたいなんですよね(自分で自分を分析するに)。
ただ、もう本当に何て言えばいいんだよー、もっと答えやすい質問をしてくれー、とか思う。イライラする。それだけ。
そう、具体的な質問だったらちゃんと答えられるのです。
どう答えていいかちゃんと自分で分かるから。
相手が質問してくる状態っていうのをふまえた上で、どういう答え方が、自分の意見を最も的確に相手に伝えることになるか、とかもいろいろ考えられるし。

例えば、「最近どう?」じゃなくて「最近あのプロジェクトはどうなっているの?」って聞かれたとしたら、相手のプロジェクトについての理解度を把握した上で(例えば単なる外部者としてなんとなく話のネタとして聞いてきているだけなのか、それとも特定の関心を持ってプロジェクトの内容を聞いてきているのか等)、現在の進行状態とか、自分が思っていることを言葉にできる。

授業の後に、「プロフェッサーの○○についての発言についてどう思う?」とか聞かれたら、ちゃんとそれについて考えたことを言葉にできる。逆に、「授業どう思った?」とかいう問いかけになると全然ダメ。「何?授業の何がどうなわけ?」とか思って混乱しちゃう。というかどう受け答えしていいか分からなくて思考停止しちゃう。

同じく、「先週何した?」とかいう質問にはうまく答えられないんだけど、「先週何かCD買った?」とかだったら大丈夫。どう答えればいいか分かるし、そこから会話を膨らませることもできる。
1) 「買った/買わない」
2) 買った場合→何を買ったか。買わなかった場合→今狙っているのはあるか。
そんな感じで。
これって、別に個人的にCDよく買うからっていうだけじゃなくて、「CD買った」の部分を別のフレーズに置き換えてもOKなわけで。要は回答しようのあるオプションを含んだ具体的な質問してくれれば大丈夫、というだけ。その方が後々会話も続くと思うし。実際、具体的に聞かれて初めて思い出すこととか、具体的な話をしている内に「あー、そういえばね」って感じになることって多い。

ふと思ったんだけど、曖昧な問いかけって愛情こもってない気がするよ。結局相手についてなんら具体的な関心を抱いていないから、当たり障りのない曖昧な問いかけしかできないんだ、とか。
そう考えると、人見知りで、人と打ち解けるのに時間がかかる非社交的な私の性格も、よりよく相手を知りたい、もっと誠実な関係を持ちたいという欲求の現れなんじゃないか、なんて風に肯定的にとらえられたり...は、できないのだけどね、実際。
でもまぁ、曖昧な言葉のやり取りが苦手、という点と、私の非社交的な性格とは絶対関係があると思うのだけど。

何かね、全然知らない人とかに、なんて話しかけていいのか全然分からない。別に曖昧な言葉ならいくらでもかけられるわけだけど。「休日には何を?」とか「学校の方はどう?」とか。でも、自分が苦痛を感じるようなそういう曖昧な問いかけを人にたいしてするのがまず嫌だし、それにそういう問いかけに対してかえってくるあまりに一般化された回答の内に、お互いをよりよく知る要素なんて含まれていないような気もしてしまう。
「趣味は読書」とかいわれても、何を読むのか、どんな気持ちで読むのか、どんな時に読むのか、そういうことが分からないかぎり、「読書」という単語はなんら具体的な意味を持たない...ような気がしてしまうわけです。もちろんそこからうまく相手の心をつかんで、会話を発展させていく力というか魅力を持った人もいっぱいいるんですけど。私はダメ。というか、すごく時間がかかる。相手の言葉を具体的に理解して、相手の関心とか性格とかをある程度理解した上でじゃないと、うまく会話ができないし、相手の言葉を具体的な問いかけへとつなげていけない。ごく稀に、そういうなんというか人間関係についてのネガティブな先入観だとかを持たずに、本当にごく自然に会話ができて、しかもすんなり分かりあえちゃう(少なくともそんな気になれちゃう)人というのがいるのだけれど。

なんというか、不特定多数の人間に対する曖昧な関心というのに欠けるんだろうな。人に対する無邪気な好奇心とかないんだと思う。無邪気な好奇心とかどちらかというと残酷なものだと思っている節もあるし。

今年の目標、友達5人作ります(弱気)。 

不自由な身体

昔、まちづくりとかをやっている先生の授業で、住民参加型のプランニングをする時によくやる、ポストイットを使った授業形式のものがありました。毎回何かお題があって、それぞれポストイットに自分の答えを書き込み、それをもとに先生がいろいろお話するっていうような。なんか、あんまり何かを勉強したという気にはならなかったけど、それなりにおもしろい授業ではありました。

ある時のお題が、
「自分のうちで一番前衛的な部分と後衛的な部分は?」というもので、
私は、
「後衛的:私の身体」「前衛的:私の欲求」と書いたのだけど、
それを見て先生が一言、
「すっげーこと考えているんだろうなー」って。

でも、このときの回答は、自分の心情と結構一致しているところがあって、
だって、欲求っていうのは身体的な境界だとか精神的な限界だとかを越えていく可能性を持っていると思うんだけど、実際にわき上がってくる欲求と、実際に人間が持つ身体的機能というのは全然つりあっていない。まぁ、そういうことをいうと、身体の解放だ、とか、自由になれとか、精神と身体のシンクロだ、とか、なんか怪しげな所から誘われちゃったりするんだけど。

というか、私が個人的にすごく好きな福岡在住の現代美術作家の人がいて。
中小企業の社長さんなんだけど、こう、大学でて、まじめに働いて、結婚して子供育てて、で、やっと子供も成人して、さーこれから夫婦水入らずで静かな第二の人生を、って考えていた矢先に、突然奥さんに逃げられて、あれ?どういうこと?みたいな、そういう状態になって、アートをはじめた人なんですが。あまりに普通にまじめに、家族を養い仕事をきちんとし、みたいなことをあたりまえのこととして生活してきたがために、どこで何がずれてしまったのか、なんで突然一人になったのか、よく分からない。そういう過程を経て、なぜかたどり着いたのがアートだったっていう。あの、そうはいっても、彼はすごいズコーンと抜けた所のあるおもしろい人で、行動力もあるし、でもなんか鬱っぽいし、もう、私は大好きなんですけど。

「いや、普通さ、中年会社人間とかだったらゴルフとかに行くんだろうけど、僕、ゴルフ好きじゃないしさ、お酒とかもそんなに飲まないしさ、食い道楽ってわけでもないし、なんか同年代の人たちがやるような趣味とかがことごとく苦手で、だからアートなんてはじめちゃったんだろうけど」って。
それにしてもやっぱりなんか間違っているというかおもしろいというか。離婚されて現代美術って。で、廃棄タイヤのチューブをひたすら膨らますの。ホント、何を思ってチューブを膨らましたり、膨らましたチューブ背負って旅に出たりするんだろう、って興味津々。

で、その作家さん、時々舞台美術みたいなこともやるんですが、その関係である時、舞踏家の方と知り合われたそうなんですね。この舞踏家の方というのが、舞踏療法と呼ばれる一種の心理療法みたいなこともやっている人で、つまり心理的な問題を抱えた人に舞踏の世界を教え、身体を動かし解放することによって、精神的な問題を乗り越えて行く力添えをする、みたいな。ごめん、私、そういうのってすぐいかがわしい...とか思っちゃうんだけど、結構人気あるみたいですよ、うん。

で、作家さんもね、誘われたらしいんですよ。
「でもさー、僕、『さー!自由に思うままに身体を動かしてみましょう』とかいわれてもさ、なんていうかさ、どうしていいか全然分かんなくてさ、結局ぼーっとステージ上で突っ立ってたりとかさ、そんな感じになっちゃうよ、絶対」って。

なんというか、そういうのって、ある側面から見れば、身体の自由を完全に失っている、ああしろこうしろいわれないとどう動いていいのか分からない(少なくとも身体的な部分においては)、仕事人間の悲しいサガ、みたいに思われそうですけど、でも、私は個人的に、彼の身体の不自由性みたいな方に共感しちゃうわけで。だってね、舞踏心理療法って、そこで解放される身体性だとか、身体と精神の融合だとかってさ、本当にそうなの?本当に解放されているの?融合しているの?そんなんでいいわけ?とか思っちゃう。

ある意味頭でっかちなんだろうけど、そんなことで身体あるいは精神を完全に充足できるなんて思えないわけです。そんな所で得られる解放って、それはちょっと私が求めるものとは違う、とか思ってしまう。そんな簡単に解放されちゃうのって危険な気もするし。もっとこう、いろんな葛藤とか分け分からなさとかとかに翻弄されつつ、でもどこか遠くにあるかもしれないものとして、そういう身体的な解放だとか精神的な自由だとかを求める、そういう方が正しいような気がしちゃう、感覚的にだけど。


ちなみに、まちづくり授業で一緒だった人から、その後食事に誘われて、
それは私の前衛的な欲求に興味があるのですか?とか思ったりもしたのでした。

緩やかな墜落、夕食にはTamaleを、トマトソースで

四季のある生活って好きだ。
四季までいかなくても、とりあえず夏と冬が存在するところで生活したい、とは思う。
気候の変化によって生活にメリハリが生まれるし、夏と冬とで生活の形式をかえることによって、一年が実り多きものになるような気がする。
例えば夏は外で畑仕事、冬は部屋にこもって論文書きみたいな感じで。
そういう意味では、アップステイト・ニューヨークでの生活は嫌いではない。
雪が多くても、外に出る必要もなく、外で働く必要もなければ、気持ちを切り替えて部屋での作業に集中できる。普段時間をかけられないような家の中のことをいろいろやってみたり、これまで腰を落ち着けて勉強する機会のなかったようなことに手を出してみたり。できることが限られている生活での方が、創造性が高まるなんてことはよくあることだ。


ちなみに、私は多分どちらかというと限りなくテンションの低い性質で。
わーっとはしゃいだりとか、突発的に怒りだしたりとか、大声出して笑ったりとか、ワンワン泣いたりだとか、そういうことはめったになく、自分にとっての平均か、それよりちょっとしたぐらいのテンションをキープしたまま毎日を過ごしていることが多い。

普段安定している分、何かの拍子にテンションに変化が加えられると、後々までその影響を引きずったりもする。例えば、さっき泣いてて今笑っているなんていう状態は、私の中ではありえなくて、一旦テンションが下がって泣きモードに入ってしまったら、今日も明日もメソメソ、そのまま出口なしの鬱状態とかに入り込んでしまう。それをまた普段の状態に持っていくのに一苦労。感情の起伏が緩やかな分、落ち込みにも、そっからの立ち直りにも時間がかかるのだ。

そのせいか、自分の感情なりなんなりに変化を与えるような外部的要素を極端に排除しようとする傾向があるような気がする。人付き合いを避けようとしたり、外に出るのを避けようとしたりするのも、そのせいかもしれない。

それは多分変化を嫌う、とかいうこととは別で、一方では常に何かおもしろいものとか新しいものとか、興味の対象を探していたりもするし、知らないことを知るということは常にエキサイティングなことでもある。ただ、多分、自分がコントロールできないような外的要素あるいは感情の変化について極端に敏感なのかもしれない。

恋人や友人との時間は、すごく穏やかな、居心地のよいものではあるけれども、それでもやっぱり何かの拍子に自分の感情をひどくかきみだされるようなこともおこるわけで、そういう時には、やっぱり、あー、一人だったらこんなどうしようもない状態にはならないのに、なんて思ったりもする。ある意味、自分の感情だとか精神のすべてを自らコントロールできるような状態においておきたいのかもしれない。とかいうとすごい理性的な人間のよう。

というか、最近痔っぽくて、お尻がいたい。ちゃんとした椅子を買おう。

フェイバリットワードは怠惰と惰性

冬休み中に、恋人の甥っ子君たちが遊びにきたので、一緒にいろいろボードゲームをしました。その中の一つにRiskというゲームがあって。要は世界征服もの、というか世界植民地化のゲームなんですけど。世界地図が描かれたボードを使って遊ぶんです。それぞれが自分のアーミーを持って、特定のミッションを達成するために相手のアーミーと戦いながら、テリトリーを広げていくっていう。

で、ミッションカードというのを最初にひいて、それに応じて個々のゴールっていうのが設定されるわけなんですけど、そのミッションカードで指定される征服対象の土地というのは、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ、北米、オーストラリアなのです。つまりヨーロッパが抜けているわけです。ゲーム版上にはヨーロッパもちゃんと存在していて、いくつかのテリトリーに区分けされていて、それを取り合ったりすることはできるのですが、最終的なミッションのうちから、「ヨーロッパの占領」という項目だけが抜け落ちているわけです。

まぁ、分かりやすい話、ヨーロッパによる世界支配っていう筋書きをもとにできているゲームなわけです。なんてナイーブな歴史認識なんだろうとか思うけど。でもこのゲームが最初に作られた頃には、そういう見方はあたりまえだったのかもしれませんね。もちろん、ゲームをデザインしたのはヨーロッパ系白人グループなのでしょうね。ヨーロッパが植民地化されるなんてこれっぽっちも思っていないっていう。

私たちが遊ぶときは即席ミッションカードとして「ヨーロッパの占領」とかも入れたりして。でも、10歳くらいの甥っ子君たちにとって、ゲームの政治性なんていう話はどうでもいいことであって、勝てば満足なんでしょうけど。本当にシンプルに、ゲームがおもしろいとか野球選手がかっこいいとか言ってはしゃいでいられる時期ってそう長くは続かないのだろうし、そういう時期にそういうものを単純に楽しむというのも大事かもしれない、とも思ったりはするのだけれど。

 
January 2003
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