あったらいいものと必要なもの

もっとお金があったら楽だろうなーと思うことはある。
躊躇せずに好きな本を買ったりCDを買ったりできるだけのお金とか。
ちゃんとした本棚やオーディオセットを買えるだけのお金とか。
フラッと海外旅行に行けるくらいのお金とか。
金銭的に安定した生活を求める気持ちだってないわけではない。

定期的に転職したい病とかがでて、むやみやたらと求人情報をチェックしてしまったり、やっぱり資格かしら、とか思ってCADの勉強しちゃったりすることもある。
企業に勤めている人を見ると、スーツ着て、オフィスで働く姿ってなんとなくプロフェッショナルだよねー、とかってたいした根拠もなく思ってしまったりするし、社畜になって言われるままにガツガツと働くのも、それはそれでやりがいがあって良いかもという気にもなったりする。

まぁ、でも、会社に拘束されるサラリーウーマンになって、スーツとか着て、バリバリ、キャリア街道をまい進する人生に乗っかったとしても(今からじゃ無理だけど)、例えば、そういう生活を手に入れることによって、必然的に失ってしまうかもしれない様々なこととかを考えると、それは私には耐えきれないかもしれないと思ったりするのもまた確か。

考えてみれば、お金にはならないけれども大事な時間とか必要な距離感だとか心地よい空気みたいなのはいっぱいある。そして、その辺の微妙なバランスって、多分すごく気をつけて、常に気を配りながらやっていかないと保ちきれないもののような気がする。

夜一人で映画を見にいって打ちのめされて、そのまま夜の街を徘徊する感じや、
夜通し本を読んだ後にふと気付く朝日の暖かみ、
天気のよい昼間にふらりと電車にのって郊外に出かける楽しみや、
天使が舞い降りてくる(ライターズ・ハイって感じでしょうか)興奮、
どこにでも行ける身軽さ、
どうしようもなくダメな一日を、本を読みながら過ごす緩やかさ、
晴れた日の昼間に、ゆっくりお風呂につかったりするゆるさ。
そういうものの入り込む余地のある生活。

不安定だし、貧乏だし、長期の見通しなんてなにもたたないけれど、
なんというか、さすがに29年もつき合っていると、自分にとって居心地のいい状態とかも分かってくるし、身の丈に合った暮らし、みたいなものも見えてくる。
時間とかお金とか、あればいいな、とは思うけれど、別に必要以上に欲しいわけでもないし。
何か不相応な生活がしたいわけでもないわけで。
そうなるとやっぱり私はここでこうやってやっていくしかないのだろうか、なんて。
まぁ、人には向き不向きがあるということですね。うん。

消えた郵便物とか切羽詰まった感じとか

2ヶ月ぶりに自分のアパートに戻ってきてみたら、なんと郵便物が全くなかった!
あまりに溜め込み過ぎていたため、郵便局の人が、私は引っ越したものと思って全部持っていってしまったらしい。
郵便受けに「新入居者の方は裏に入居者全員の氏名を書いて云々...」っていうカードが挟まっていてびっくり。

知らない内に荷物とかまで全部処分されていたらどうしようと思ったけれど、それはなかった。
レコードも本も無事だった。ほっ。
おんぼろ冷蔵庫の冷凍室は霜とつららでいっぱいになっていた。
さぼてんにお水をあげて、換気をして、水回りを掃除して、56件の留守電を聞く。
うち3件が、TA室の鍵を戻してくれ、というものだった。ごめんなさい。

恋人から、「君の生活能力のなさにはほとほと呆れる」といわれながら、図書館に本を返しに行ったり、郵便物の手続きをしたり(ほとんど差し出し人のもとに送り返されてしまったらしい)、鍵を返しに行ったりする。だって、郵便屋さんが郵便物持っていっちゃうなんてしらなかったし!鍵返さなくちゃいけないなんて知らなかったし(常識)!

留守電に「あなたのことに関わる重要なお知らせがありますので折り返し1-800-...までご連絡下さい」というメッセージが3件入っていたのだけれど、電話嫌いの私は絶対にかけない。だいたいフリーダイヤルだし、きっとあわててかけてみたらクレジットカードの勧誘とかで、ますます電話が嫌いになるようなセールストークにつきあわされるに違いない、とかなんとか理由を付ける私のことを、恋人が哀れむような目で見ている。ちっ。
それくらいやれよってぐらいのことがどうしてもできない、っていうのがダメ人間の基本でしょーって、そんな人と一緒に生活したくないよね。私だっていやだ。

アメリカ人とはとても思えないほど几帳面で、生活の隅々まできっちり用意周到な彼には、私の非社会的な部分が理解できないらしい。どれくらい几帳面で用意周到かと言うと、いまだかつて銀行の手数料(違う銀行のATMを使ってお金をおろしたりするとチャージされる)だとか罰金だとかいったたぐいのものを、何一つ払ったことがないというくらい。公共料金の滞納とかとももちろん無縁な人。
どんな時にも制限速度内でしか運転しない男でもある。たまに制限速度表示のない通りとかに出るとすごい焦ってる。
って、それは几帳面というよりは自閉症的だな。

夜はお寿司を食べに。サーモンはやっぱりこっちの方がおいしい。
恋人が私の箸の持ち方がおかしいというので(実際おかしい)、ムキになって胡麻をつまんだり、トビコをつまんだりして競争する。五分五分。
猛烈に眠くなって、そのままベッドへ直行してしまった私の横で、恋人が窓を開けたり扇風機をセットしたり、冷凍室の掃除をしたりしていた。
いい人だ。

彼の切羽詰まっている感じとか、行き場のない憤り感だとかを、もうちょっと分かってあげられるようになれたらいいと思う。
自分の中にあるそういう気持ちとかとも、もうちょっとうまくつき合っていけるようになれたらいいと思う。

アメリカの朝

飛行機に乗る前に買った文庫を、途中に2時間ほどの睡眠時間をはさんで、7冊読み終わった頃にシカゴについた。
思ったより全然早かった。
やっぱり機内で読むのは簡単な小説やエッセーのたぐいが良い。哲学書なんて、持ち込んだって読んだためしがない。

成田では、うどんを食べて、指導教官への手紙を書いて投函。
出発前にビールを飲みたかったのに(空港や新幹線の中で飲むビールって結構好き)、結局時間が足りなかった。
しょうがないからシカゴの空港でサミュエル・アダムスを飲む。
濃ゆい。そしてお腹いっぱい。

ホームシックになったりするかなー、と思ったけど、そんなこともない。
普通にアメリカにいる自分を受け入れている感じ。
普通に英語で喋っているし。涼しいし。快適。

恋人が日焼けしていて、夏だな、と思ったり。
久しぶりに会うと、なんか緊張してしまう。
一緒にいる感じとかを思い出すのに時間がかかる。

少しづつ、
あぁ、そうそう、こんな感じだった。
そうそう、こんな話し方だった。
そうそう、こういうリアクションする人だった。って感じで思い出す。
体温が高めな感じとか。真剣に犬と遊んでいる感じとか。適度に投げやりな所とか。
背の高さとか。鼻の位置とか。指とか。腕の中にいる感じとか。
そうやって、慣れ親しんだ日常に戻っていく。

暗くて静かな田舎の夜。
今、太陽が登ってきたところ(時差ぼけ中)。

トーキョーエロティック

アップリンク・ファクトリーで「由美香」を見た。
劇場版「わくわく不倫旅行」のメイキング版で、ほとんど手持ちのビデオカメラで撮影された2時間半近い映画、というよりはドキュメンタリーだ。AV歴7年目(当時)のベテラン女優、林由美香と監督の平野勝之が、自転車で日本の最北(トド島)をだらだらと目指し、その道中だらだらとセックスする、そんな映画だ。平野は既婚者で、由美香とは不倫の関係。どうしても彼女で一本撮りたくて、半分無理矢理今回の企画を通した。

旅の途中、いろいろな人たちが登場する。3年間もひたすら日本をぐるぐる回っている人、徒歩で日本一周を目指す人、爽やかな女性ライダー、夏休みを利用してやってきた中学生や高校生、アウトドア派のカップル。「竹馬で日本一周なんて人もいますよ」。世俗的なものかしらどこか遠い所にあるような、あるいは少なくとも世俗的なものを脱ぎ捨てようとしているかのように見える北の放浪者たちの中にあって、このAV不倫ライダーカップルは明かに異様だ。

由美香は日焼けをさけるために、暑い日差しの下、完全装備で自転車を漕ぐ。どんなに暑くなろうと、どんなに汗まみれになろうと、長そでシャツを脱ぐことはないし、手袋、サングラスにつばの長い帽子を取ることはない。日焼け止めも欠かさない。夜にはテントで熱心に毛抜きをし、お肌のお手入れをかかさない。もちろん日の光の下、北海道の自然を楽しむなんてこともない。普段と変わらず、一日一回はラーメンを食べるし、夜は夜で酒をかっくらって寝るばかり。平野は日焼けこそ気にしないものの、ほとんど片時もビデオを離さず、ネタを求めてビデオをまわし続ける。美しい景色を前に考えることといえば、どのようにして由美香にうんこを食べさせるかということばかりだ(それとひきかえに「由美香」の名前をタイトルに映画を撮ることを許可されたのだ)。同時に、うんこを食べることを強要することによって由美香に振られることにでもなったらどうしようという、こちらも極めて世俗的かつなさけない悩みなんかもあったりする。

いろんなものをかなぐり捨てて、自由になっていく(かに見える)放浪者仲間と違って、この二人は、その行動も話の内容も思考回路も、すべてがどうしようもなく世俗的なのだ。セックスも正常位ばかりだし、画質は悪いし、カメラのアングルも極めて単調だ(もちろんAV用に作られた部分はちゃんと撮っているけど)。その辺を歩いているカップルのプライベート・ビデオを見てしまったような居心地の悪さを感じたりもする。

でも一方で、二人の間にある、退屈で凡庸であっけらかんとした笑いに、救われたような気持ちになったりするから不思議だ。
下らない歌ばっかり歌ってる平野氏。
熱心に陰毛を抜く由美香ちゃん。
初めて見る蛍や満天の星空。屋外での食事や、キャンピングカーでの夜、夕張メロンの朝食... ちょっとしたことで幸せになっちゃう二人。
キャンプ場で見かけるおもしろおかしな人の話に二人でクスクス盛り上がる。
普段と変わらない日常のようでありながら、実際にはその時、その場所にしか存在しえないような一瞬のきらめき。その刹那さは切ない哀愁を誘うけれど、多分、幸せというものがあるとしたら、そういう形でしか存在しえないのではないかと思うような、そんなさりげない美しさを持っている。そこに二人の関係の核があって、あぁ、だからこの二人は一緒にいなくてはいけないのだ、という気になる。平凡なセックスをくり返し、他愛もない会話を共有し、ちょっとしたことで仲たがいする、そんな日常を生きていく意味は、こういう一瞬にあるのかもしれない、と思う。

生きることは諦めることに近い。
選択肢の数と実際に選択できるものの数が異なっている以上、それはどうしようもないことだ。結婚した人は結婚しないで生きるという可能性を諦めることになるし、結婚しなかった人は、結婚生活を諦めなくてはならない。別にどちらがいいというわけでもないし、諦めることが悪いというわけでもない。ただ、生きるということはそういうものだというだけだ。別に自らが選んだ人生に満足していないわけではないけれど、それでも時に、失われてしまった別の可能性を思って感傷的になってみたりする、そういうものだ。

そして人生はある程度まで、平凡な日常に慣れ親しんでいく過程でもある。どんなに苦労して手に入れたものであっても、その時の感動やエネルギーが永遠に継続するわけではない。大恋愛の末に一緒になったパートナーとの生活も、毎日続けばやがて新鮮さは失われてしまう。それでも日常は続く。そんな日常を支えるのは、多分、一瞬のきらめきなのだと思う。代わり映えのしない日常にスッと切れ目が入って、そこから光が差し込んでくるような、そんな感じ。その光によって当たり前の光景が、一瞬キラリと輝く。大切なのは、光り輝くその瞬間よりも、むしろ日常に切れ込みを入れるその契機の側にある。日常に宿る細部の微妙な関係性の連鎖が一瞬の光を生むのだとすれば、その一瞬の結合へ向けて自らと他者、あるいは日常の細部との関係性を修練していくことが要請される。別にその為に何か特別なことをする必要はないと思う。ただ、ある種の繊細さ、みたいなものは必要かもしれない。ささいなものや他者とのつながりに対する繊細な感受性。
そういうものを求める気持ちが、じわりと滲み出る映像だった。

一番美しい夏

明日から病院へ戻る母親と一緒に買い物に行く。
石けんと、ちょっとした食料品、和菓子とアイスとすいかを買う。
家に戻ってお茶を飲みながら、さっき買ってきたアイスを食べる。
母と娘が共にすごす最期の一日としてはできすぎたセッティングだ。


友人から「一番美しい夏」のDVDをもらった。彼女の友人であるジョンさんが愛知の田舎で撮った作品で、海外の映画祭でいくつか賞を貰ったりしている。友人もスタッフとしてこの映画づくりに参加していた。私はこの映画が上映される前にアメリカに発ってしまったし、我が家にはDVDがないので、まだ見ることができずにいるのだけれど、めったに映画など見にいかないうちの母親は、この映画をとても気にいっているらしい。


上野千鶴子は、『ミッドナイト・コール』において、「愛してはくれないけれど理解のある親」と「無条件に愛してくれるけれども子供のやっていることに対して全く理解のない親」のどちらが良いだろうか、とつぶやく。上野千鶴子いわく、彼女の母は後者で、自分の娘が何を思って研究者になったのか、なぜフェミニスト・セオリーを研究するのか、そんなことは全く理解せず、あるいは興味すら持たず、でもそんなことは関係なく彼女のことを愛してくれた、という。でも彼女自身は、孤独な研究者生活において、身近な人間の理解というものを心のどこかで必要としていたから、母親の無条件な愛よりも理解を求める傾向があった。逆に彼女の友人の母親は前者のタイプで、自分の娘の人生設計を理解し、助言し、応援もしてくれるけれども、それは愛情ゆえにというものではなかったという。最終的に、上野千鶴子は、自分の娘であるというだけで、自分の理解を越えたような行動も人生設計も無条件に受け入れて愛してくれる母親の方が、理解はあっても愛のない親子関係よりは良いのではないか、と考える。たしかそんな内容だったと思う。

私の母親は、多分ごく最近まで前者のタイプだったように思う。あるいは、少なくとも、理解しようと努力していたし、理解が愛することへの一歩だと考えていたように思う。でも、理解しようとしても、彼女には結局の所、私の行動の真意が全く理解できなかったので、私と彼女の関係はどんどん悪化していった。
彼女は、私が彼女の見ていない所で、彼女の理解できないようなことをすることを恐れ、私を眼の届く所にとじ込めようとしたし、私はそこから逃げることばかり考えていた。

つかみどころがなくて、意味不明で、いつまでも非社会的な領域に留まっている娘を、結局の所そのまま受け入れるしかないのかしら、と、彼女が諦めたのは、多分ごく最近のことだと思う。彼女にはなぜ私が哲学なんてものをやっているのか、なぜ環境や科学的知の問題に興味を持つのか、なぜ朝ご飯が食べられないのか、なぜ朝方になるまで寝られないのか、なぜアートをやったり雑誌を作ったりするのか、なぜわけの分からない音楽を聴き、わけの分からない展覧会に出かけていくのか、なぜ着飾ることには興味がなくて、そのくせ本や映画に膨大なお金を費やすのか、結局の所わからない。多分それは、私自身にも分からない。

でも、いつのころからか、理解することを諦めた彼女は、妙にさっぱりとした顔になって、「何でこんなことするのか全然分からないわ」といいながらも、個展を見るためだけに飛行機に乗って福岡までやってきたりするようになった。インタビューや展覧会についての記事に眼をとおし、そして「やっぱりさっぱり分からないわ」といいながら帰っていった。


「でも、その映画は本当によかったのよ」と、私が貰ってきたDVDを前にして彼女は言った。
「なんというか、あなたの作るものと似ているような気がしたの。最初はよく意味が分からないのだけれど、しばらく見ているとなんだかとても懐かしい気持ちになるの。それがとても似ていると思ったの。」
それはシンプルな言葉だ。彼女が私を理解するために、年間100本以上の映画を見、同じくらいの数の展覧会を見て、それ以上の数の本を読むタイプの人間であれば、きっとこんな風には言ってくれないと思う。でも、私は彼女のシンプルな感想をとても嬉しいと思ったし、彼女の言葉に救いを感じたりもした。過程はどうであれ、30年近い年月をかけて私たちがたどり着いた関係というのがそこにはあって、多分それはとても喜ばしいことなのだろうな、と思ったのだった。

過去の憧れ

何かノ憧れるということのないままにここまできたような気がする。
小さい頃、「憧れの人は?」とか「憧れの職業は?」とか聞かれた覚えのある人は多いと思うけれど、そんな時、何と答えていいものか、さっぱり分からなかった。
憧れるってどういう風に?

その人のようになりたいと思える人はテレビの中にも本の中にも現実の世界にもいなかった。
いたのかもしれないけれど、そう思えるような誰かを見つけだすには、私はものを知らなさすぎた。
少なくともそう感じていた。
やがて周りを見ている内に、そういう問いには「親」だとか、テレビのヒーローだとかを挙げればよいのだ、ということが分かってきたわけだけれど、それでもやっぱりそういう問いかけにはどこか居心地の悪さを禁じえなかった。

憧れの職業といわれても、私は花屋にもケーキ屋にもおもちゃ屋さんにもなりたくなかったし、周りの同年代の子供たちが本気でそういったものになりたいと言っているとも思えなかった。それはそういった職業を選ぶのが現実的ではないとかいうことではなく、そういう職業を自ら選ぶには、やっぱりものを知らなさ過ぎると思っていたからだ。社会に出て働くということがどういうことなのか、全く知らない子供にたいして、いたずらにそういう問いかけをして、適当な答えで満足している年長者の姿は、私には欺まん的に見えてしょうがなかった。今になれば、そういう無邪気で短絡的な子供の言葉と、その子供らしさに喜びを覚える大人の姿を、長くは続かないかもしれないけれど、幸せな光景の一つとして受け入れることも可能だけれど。自分が、自分は本来そこには属していないと思うような光景の一部に、あらがいようなく組込まれていると分かった時には、人はつい反抗してみたくなるものなのかもしれない。

年齢を重ねて、「世の中」のことがもっと分かるようになって、正確な視点で社会の動きとかを見定めることができるようになれば、もっと明確に、憧れの人物像や職業を描けるようになるのかと思っていたけれど、むしろ年齢を重ねるごとに分からないことや、不可解なことは増えていき、そして憧れなんていう言葉は、ますますどこか遠いものになっていく。

なりたい人やなりたいものなんて何もないけれど、これができるようになりたいとか、あれをやってみたい、といった漠然とした思いはあるし、多分、そこには私が出会った人たちや経験した事柄が反映されているのだとは思う。ただ、何かをしたいと思う時、それを可能にする為に、自分が憧れるような何者かのイメージを追ったり、憧れるような職業につく必要があるかといわれれば、やっぱりそれはよく分からない。
もちろん何者にもならないままに、好きなことだけやって生きていくことが幸せだとか、それが目標だとかも思わないけれど、もし、何者かになるとしたら、それは「何者かになること」が目的だからではなく、自分がやりたいことをやるための手段として、あえて何者かになることを選択するのだと思う。もちろんそれは簡単なことではないわけだけれど。きっと。

憧れの自分になるための、明確な目標ラインなんてものはなく、ただ、後から振り返った時に、あの時の私は、あれでよかったのだろうな、と思えることができれば良いな、と思いつつ、でも、切実に願っているようなことについては、なかなか思い通りにはならないというのが世の常というもので、私の過去には、ただ忘れ去りたいものばかりが堆積されていく。
そして、忘れたいことに限って忘れられないのもまた世の常なのだな、と、野球に嵩じる日曜日のサラリーマン家族を見ながら思ったりする。

高円寺と猫

どこへ行く当てもないままに家を出た。
東西線に乗って終点、中野へ。
高円寺へ行こうと思ったものの、乗った電車が快速で、電車は一気に三鷹へ。
そのままもっと先まで行ってもよかったんだけど、なんとなく高円寺な気分だったので、普通電車に乗り換えて、もと来た道をたらたらと戻る。
高円寺でおりた後、普通の住宅街を抜けて商店街へ。

人気の少ない通りに面した食堂は、開いてはいるものの客を迎え入れようという風でもなく、そんな食堂と食堂の間の狭い隙間から猫が時々ゆっくりと出てきたりする。そのタイミングの絶妙さに思わず足がとまる。
例えば、こんな風に、何気ない風景や日常の内にある他愛もない光景に、ふと心動かされてみたりするという感覚は、私たちの世代に特有なものではないのだろうか、と思うことが時々ある。
何気ない毎日を大切に生きるという感覚は、多分多くの人が多かれ少なかれ持っているのであろうけれど、そういう日常の何気なさを見る視点は実は世代によって様々なのだという気がする(もちろん個人個人によっても違うのだろうけれど)。
マッチョな人はどの時代にも存在する。今日より明日はもっとよくなるはずだ、自分は毎日成長するだろう、収入は伸び、社会的地位も向上し、家を建てて、よりよい車を持って、ますます便利な世の中で自分らしい生き方をエンジョイするのだ、と思えるような人。
でも、まぁ、そういうのはもういいかな、というのが、いわゆるポスト・バブル世代なのかもしれない。あるいは90年代的メンタリティなのかもしれない。マッチョな生き方に幻滅したというよりも、もっと軽いノリで、別な路線を探っていく。そんな感じだろうか。
今日も明日も、多分10年後も、たいして変わり映えのしない毎日が続くだろう。人は、永遠に歳をとらないサザエさんやちびまるこちゃん的な倦怠感を抱えたまま生きていくのだろう。差しせまった死の危機感もないかわりに、未来に対する希望や憧れとも無縁な感じ。その中で、でも、まぁ、せっかくだし好きなことをやって生きていければいいかな、と思いなおしてみたりもする。そこで日常のささやかさの肯定といったものが、思想としての力を持つことになる。
猫をみながら、そんなことを考えてみたりする。

持っていった文庫は行きの電車で読み終わってしまったので、高円寺についてすぐ古本を2冊買う。
商店街をダラダラと歩いた後、大通り沿いのドトールでベーグル・サーモン(?)とコーヒーを注文し、さっき買ってきた本を読む。
よしもとばななの『王国』。
1時間ほどで『王国』を読み終え、さっき来た商店街をダラダラと戻る。途中、水色のサンダルを買う。
帰りの電車でもう一冊の小説を半分ぐらい読み終え、途中のコンビニで、先日現像に出した写真を受け取って家にもどる。
そして明日について思いを馳せてみたりもする。

 
July 2003
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