高円寺と猫

どこへ行く当てもないままに家を出た。
東西線に乗って終点、中野へ。
高円寺へ行こうと思ったものの、乗った電車が快速で、電車は一気に三鷹へ。
そのままもっと先まで行ってもよかったんだけど、なんとなく高円寺な気分だったので、普通電車に乗り換えて、もと来た道をたらたらと戻る。
高円寺でおりた後、普通の住宅街を抜けて商店街へ。

人気の少ない通りに面した食堂は、開いてはいるものの客を迎え入れようという風でもなく、そんな食堂と食堂の間の狭い隙間から猫が時々ゆっくりと出てきたりする。そのタイミングの絶妙さに思わず足がとまる。
例えば、こんな風に、何気ない風景や日常の内にある他愛もない光景に、ふと心動かされてみたりするという感覚は、私たちの世代に特有なものではないのだろうか、と思うことが時々ある。
何気ない毎日を大切に生きるという感覚は、多分多くの人が多かれ少なかれ持っているのであろうけれど、そういう日常の何気なさを見る視点は実は世代によって様々なのだという気がする(もちろん個人個人によっても違うのだろうけれど)。
マッチョな人はどの時代にも存在する。今日より明日はもっとよくなるはずだ、自分は毎日成長するだろう、収入は伸び、社会的地位も向上し、家を建てて、よりよい車を持って、ますます便利な世の中で自分らしい生き方をエンジョイするのだ、と思えるような人。
でも、まぁ、そういうのはもういいかな、というのが、いわゆるポスト・バブル世代なのかもしれない。あるいは90年代的メンタリティなのかもしれない。マッチョな生き方に幻滅したというよりも、もっと軽いノリで、別な路線を探っていく。そんな感じだろうか。
今日も明日も、多分10年後も、たいして変わり映えのしない毎日が続くだろう。人は、永遠に歳をとらないサザエさんやちびまるこちゃん的な倦怠感を抱えたまま生きていくのだろう。差しせまった死の危機感もないかわりに、未来に対する希望や憧れとも無縁な感じ。その中で、でも、まぁ、せっかくだし好きなことをやって生きていければいいかな、と思いなおしてみたりもする。そこで日常のささやかさの肯定といったものが、思想としての力を持つことになる。
猫をみながら、そんなことを考えてみたりする。

持っていった文庫は行きの電車で読み終わってしまったので、高円寺についてすぐ古本を2冊買う。
商店街をダラダラと歩いた後、大通り沿いのドトールでベーグル・サーモン(?)とコーヒーを注文し、さっき買ってきた本を読む。
よしもとばななの『王国』。
1時間ほどで『王国』を読み終え、さっき来た商店街をダラダラと戻る。途中、水色のサンダルを買う。
帰りの電車でもう一冊の小説を半分ぐらい読み終え、途中のコンビニで、先日現像に出した写真を受け取って家にもどる。
そして明日について思いを馳せてみたりもする。

posted by f at 2003/07/04 0:46
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