過去の憧れ

何かノ憧れるということのないままにここまできたような気がする。
小さい頃、「憧れの人は?」とか「憧れの職業は?」とか聞かれた覚えのある人は多いと思うけれど、そんな時、何と答えていいものか、さっぱり分からなかった。
憧れるってどういう風に?

その人のようになりたいと思える人はテレビの中にも本の中にも現実の世界にもいなかった。
いたのかもしれないけれど、そう思えるような誰かを見つけだすには、私はものを知らなさすぎた。
少なくともそう感じていた。
やがて周りを見ている内に、そういう問いには「親」だとか、テレビのヒーローだとかを挙げればよいのだ、ということが分かってきたわけだけれど、それでもやっぱりそういう問いかけにはどこか居心地の悪さを禁じえなかった。

憧れの職業といわれても、私は花屋にもケーキ屋にもおもちゃ屋さんにもなりたくなかったし、周りの同年代の子供たちが本気でそういったものになりたいと言っているとも思えなかった。それはそういった職業を選ぶのが現実的ではないとかいうことではなく、そういう職業を自ら選ぶには、やっぱりものを知らなさ過ぎると思っていたからだ。社会に出て働くということがどういうことなのか、全く知らない子供にたいして、いたずらにそういう問いかけをして、適当な答えで満足している年長者の姿は、私には欺まん的に見えてしょうがなかった。今になれば、そういう無邪気で短絡的な子供の言葉と、その子供らしさに喜びを覚える大人の姿を、長くは続かないかもしれないけれど、幸せな光景の一つとして受け入れることも可能だけれど。自分が、自分は本来そこには属していないと思うような光景の一部に、あらがいようなく組込まれていると分かった時には、人はつい反抗してみたくなるものなのかもしれない。

年齢を重ねて、「世の中」のことがもっと分かるようになって、正確な視点で社会の動きとかを見定めることができるようになれば、もっと明確に、憧れの人物像や職業を描けるようになるのかと思っていたけれど、むしろ年齢を重ねるごとに分からないことや、不可解なことは増えていき、そして憧れなんていう言葉は、ますますどこか遠いものになっていく。

なりたい人やなりたいものなんて何もないけれど、これができるようになりたいとか、あれをやってみたい、といった漠然とした思いはあるし、多分、そこには私が出会った人たちや経験した事柄が反映されているのだとは思う。ただ、何かをしたいと思う時、それを可能にする為に、自分が憧れるような何者かのイメージを追ったり、憧れるような職業につく必要があるかといわれれば、やっぱりそれはよく分からない。
もちろん何者にもならないままに、好きなことだけやって生きていくことが幸せだとか、それが目標だとかも思わないけれど、もし、何者かになるとしたら、それは「何者かになること」が目的だからではなく、自分がやりたいことをやるための手段として、あえて何者かになることを選択するのだと思う。もちろんそれは簡単なことではないわけだけれど。きっと。

憧れの自分になるための、明確な目標ラインなんてものはなく、ただ、後から振り返った時に、あの時の私は、あれでよかったのだろうな、と思えることができれば良いな、と思いつつ、でも、切実に願っているようなことについては、なかなか思い通りにはならないというのが世の常というもので、私の過去には、ただ忘れ去りたいものばかりが堆積されていく。
そして、忘れたいことに限って忘れられないのもまた世の常なのだな、と、野球に嵩じる日曜日のサラリーマン家族を見ながら思ったりする。

posted by f at 2003/07/06 0:48
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