中年独り者作家エッセー

東京に来て以来、一日2〜3冊のペースで小説やらエッセー集やらを読んでいる。
最近はまっているのは中年独り者作家のエッセー。

津野海太郎(独り者ではなくなってしまったけれど)の『歩くひとりもの』(ちくま文庫、1998年)はとても良かった。どうも男性のエッセーというのはなぜか共感できるものが少ないのだけれど、彼のエッセーにはめずらしく共感できるつぼがいっぱい潜んでいた。なんというか、若いつもりでもいろいろガタがきていることを意識せざるを得ない中年独身男性のみじめさ...というと聞こえが悪いけれど、「しょうがねーなー、まったく」っていう風に自分の肉体的な老いと、それをいまいち認識しきれていない精神とを苦笑いしながら傍観している感じの、そんな適度なみじめさがいいのだ。若さだけでつっぱしるような青春小説や、若さゆえのふわふわしたシニシズムが鼻につく創作より、中年的視点できりとられた世界というのが、最近すごくおもしろいと思う。小説にしても映画にしても。

でもって今日は、『歩くひとりもの』でも紹介されていたエリック・ホッファーの自伝(『構想された真実 -エリック・ホッファー自伝』中本義彦訳、作品社、2002年)を読んだのだけれど、これもまたよかった。ホッファーは幼い頃に失明したため、正規教育をいっさいうけることがなかった。15歳で突然視力が回復した後(そういうことってあるらしいね)、西海岸で、季節労働者(後に港湾労働者)として生計をたてながら図書館通いをして幅広い学識を獲得した。ある意味とてもアメリカ的な、プラグマティズムを地でいっている「沖仲士の哲学者」だ。私が個人的に愛してやまない中上健次の生き方の指標になった人でもある。

「人間という種においては、他の生物とは対照的に、弱者が生き残るというだけでなく、時として強者に勝利する。...弱者が演じる特異な役割こそが、人類に独自性を与えているのだ。われわれは、人間ノ運命を形作るうえで弱者が支配的な役割をはたしているという事実を、自然的本能や生命に不可欠な衝動からの逸脱としてではなく、むしろ人間が自然から離れ、それを超えていく出発点、つまり退廃ではなく、創造の新秩序の発生として見なければならないのだ。」(p67)
「...過去が現在を照らすというよりも、現在が過去を照らすのだ」(p144)
「どうも貨幣は弱者が発明したもののように思われる。絶対権力者はつねに金を嫌悪してきた。人びとが高邁な理想によって動機づけられることを期待し、自分の支配を維持するために結局、恐怖に訴える。貨幣が支配的役割を果たさなくなった時、自動的な進歩は終わりを告げる通過の崩壊は文明の崩壊の予兆である。金と利潤の追求は、取るに足りない卑しいことのように思われがちだが、高邁な理想によってのみ人々が行動し奮闘する場所では、日常生活は貧しく困難なものになるだろう。」(p146-7)
「慣れ親しむことは、生の刃先を鈍らせる。おそらくこの世界において永遠のよそ者であること、他の惑星からの訪問者であることが芸術家の証なのであろう。」(p147)
「私のいう仕事とは、生計を立てる為にする労働のことではありません。われわれは、労働が意義あるものであるという考えを捨てなければなりません。この世の中に、万人に対して、充実感を与えられるような意義のある職業は存在していないのです。自分の労働を意義深いものにしてくれと要求することは、人間の見当違いだと、かつてサンタヤナは言いました。産業社会においては、多くの職業が、それだけを仕上げても無意味だとわかっている仕事を伴っているのです。そういうわけで、私は、一日6時間、週5日以上働くべきではないと考えています。本当の生活が始まるのは、その後なのです。」(p166-7)

関川夏央の独り者シリーズ(勝手に命名)もおもしろい。海野氏に比べるとちょっと毒があるというか...なんとなく独り者である自分を受け入れきれていないような所がチラチラと見えるのだけれど、そんな弱さがまたよかったりもする。その俗っぽさゆえに、海老坂武さんのように、独りであることをほとんどある種の生の美学にまで昇華しているような人の文章よりも親しみやすかったりもする。海老坂氏は個人的にはとても好きな物書きというか思想家だけれども、彼の『シングル・ライフ』(中央公論社、1986年)なんかを読むと、まぁ、そんなに凝り固まった文章ではないんだけど、なんとなく、「んー、ここまで覚悟して独りであることを貫かなくてはならないものなのだろうか...」なんて思ったりするのもまた確かだ。でもまぁ、誰かと一緒になってそのまま子育てに翻弄されたり近所付き合いとか親戚付き合いに体力も気力も持っていかれがちな人たちより、独り者の方が、なにかにつけ「独りである自分」について思考することを求められる、というのはあると思う。家庭には哲学はなくて実践とか経験あるのみっていう気がするけれど、独り者は哲学になる。で、あるがゆえに質が悪かったりもするのだけれど。

ちなみに、中年女性が独りで生きることについて思考するエッセー集ってあるだろうか...と考えてみると、これがなかなか思い付かない。きっと存在はするのだと思うのだけれど、男性の独り者エッセーに比べると圧倒的に数が少ないような気がする。それに、あまりストイックでない中年独りもの男性のエッセーには、それなりに女っ気というか、女友達とかがよく出てくるように思うのだけれど、それに対して中年女性の独り者エッセーに男性や男友達が頻繁に出てきたり、その男友達と料理について語り合ったりすることってあるんだろうか。なさそうだ... 

中年独り者女性のエッセーの場合、どっか暗くてジメジメした感じになるか、あるいは姉妹のような女友達同士であっちこっち出かけたり、習い事を楽しんだりするリッチでキャリアもあって活動的な爽やかエッセー(でもイマイチ深みにかける)のどちらかにしかなりえないような気がする... なんてことを思いつつ読んだ上野千鶴子の『ミッドナイト・コール』(朝日文庫、1993年)は秀逸だった。

別に独り者としての自分の生について書こうという意志をもって書かれたエッセーではないのかもしれないけれど、中年独身女性を取り巻く諸々の人間関係、あるいはそのうちに嫌がおうにも取り込まれていってしまうようなある種の社会的環境、自分に向けられる視線、規定化の暴力、そういうものについて、時に強がってみたり、寂しがってみたり、楽しんでみたり、所在なさをもてあそんでみたりしながらたんたんと語る姿勢、それそのものが中年独りもの女性の日常をごく自然に写しだしているように思えてよかった。そして個々のエッセーを通して届けられる、彼女の何かを「伝えようとする意志」みたいなものが、時に甘く、時に切実で、なんだかとても後に残る一冊だった。

 
June 2003
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