Fahrenheit 9.11

nyc_03.jpg先週NYCにステ弟の引っ越しを手伝いに行った際、マイケル・ムーアの"Fahrenheit 9.11"を見てきた。ドキュメンタリーとしての質は今ひとつだと思ったけれど、こういう反体制的な批判精神に溢れる映画がアメリカでちゃんと上映された、という意味ではとても画期的だと思った。

"Fahrenheit 9.11"がドキュメンタリーとしていまひとつだと思った理由の一つは編集の仕方にある。ドキュメンタリー映画を撮る人には大きく分けて二つの傾向があって、一つは全く編集しない人。編集が行われた時点で本来ノンフィクションであるべきものがフィクション化すると考えるタイプ(でもなんだかんだいって最小限の編集は免れ得ないわけだけれど)。そしてもう一つが程度の差こそあれ編集に重きを置くタイプでムーアはもちろん圧倒的に後者だ。様々なイメージの絶妙なコラージュ、一見無関係にも思えるような様々な要素を巧みに関連づけて行く手法。だからこそムーアのドキュメンタリーは恣意的だとか煽動的だとか真実のわい曲だとかいわれたりもするわけだけれど、でも、それじゃあ編集をしなければフィルム上に真実がそのまま残るのかと言われればそんなことはもちろんないわけで、それこそドキュメンタリーを撮ることの難しさ、あるいは本質的な不可能性から目をそらしているだけ、と言わざるをえない。ドキュメンタリーを撮ることの難しさは、ドキュメンタリーをドキュメンタリー足らしめるこの「真実性」をどう理解するかにかかっていると思うのだけれど、そういう意味ではムーアのような「編集派」の映像作家のほうがよっぽど真剣にドキュメンタリーの抱え込んでいる困難と戦っていると思う。

けれど、ムーアの最大の武器である、編集によってある種のテーマというかドキュメンタリーとしての一つのリアリティをかたどっていくその絶妙さが"Fahrenheit 9.11"には生かされていなかったように思う。特に大手メディアやブッシュ批判の部分の作り方は安易なイメージの切り張りに見えてしまった。9.11、そして戦争が始まって以降、アメリカのメディアにたいして向けられた最大の批判はその恣意的なイメージのねつ造ということだった。爆撃で死んでいく一般市民、アメリカ軍兵士の死体、彼/女らに対して向けられる市民の憎悪といった負のイメージを極力排除し強く正しいアメリカの像のみが繰り返し繰り返し流された。それに対し、一部のインディペンデント・メディアは「大手メディアが流さない戦争の側面」を強調してきたわけで、"Fahrenheit 9.11"でもそういう場面が登場する。もちろんある限られた面のみを主張する大手メディアに対し、そうではない現実だってある、という形で別の側面を示して行くことは重要だし、両者のバランスが取れた社会ほどより健全であるとも言えるかもしれない。ただ、その際、異なる側面を主張する人々は、自分達が大手のメディアを批判する際に使う「恣意性」だとか「イメージのねつ造」だとかいった言葉がそっくりそのまま自分達の行為にも跳ね返ってくるのだ、ということに意識的でなければならない。繰り返しになるけれど、だからといってインディペンデント系メディアの活動そのものが破たんしているとかいうわけではない。ただ、「君たちの流す映像だって恣意的で煽動的じゃないか」と言われた時にどう答えればいいのだろう、と思ってしまうのだ。多分もっとも無難な答えは、そんなことは分かっているけど、でもどうせなら一つの恣意性より複数の恣意性が交差しあっている社会の方が良いじゃないか、というもので、それは最もな答えだと思う。ただ、その路線でいくとすれば大手メディアの流す映像を「恣意的」であると批判することはできなくなるわけで、それもまた複数性を支える重要な要素ととらえなければいけなくなる。でもムーアの路線はそうではないわけで、となるとやっぱり「君の映画だって恣意的で煽動的じゃないか」という批判にどう答えるか、そのへんをもうちょっとつきつめて欲しいような気がしてしまう。

もう一つ、ドキュメンタリーにおける重要な要素として、思いもかけない展開というか筋書きどおりに進まない感じというか、映画の中の人が思いもかけないことをしたり喋り出したりするそういう意外性がある。編集しきれないハプニングの要素。どこまでを編集の産物ととらえるかは難しい所だけれど、でもそういう要素があるかないかでドキュメンタリーの持つ力は大きく左右される。撮っている側がそして見ている側が、否応なく当初のプランや持っていた先入観を捨て去らなければいけなくなるような、取っている対象があらかじめ設定されたものの域を越えて立ち上がってくるような、そういう瞬間。それを捉えることができるかどうかにドキュメンタリーのすべてがかかっているといっても過言ではないかもしれない。

ムーアの映画の魅力は彼自身のキャラクターと、その飄々とした独自の語り口が人々のうちから引き出す思いもかけない一面の存在にあると思うのだけれど、それもまた"Fahrenheit 9.11"ではあまりいかされていないように思った。地元フリント(それにしても彼のフリントへの思いの強さは本当に本当にすごいと思う。こういう誠実さを持った映像作家はそう多くはいない)でのインタビューはさすがにすごくて、特に毎日国旗を掲げているお母さんや、息子を失った母親とその家族へのインタビューはすごく力がこもっていたけれど、それ以外の、政治家に対するインタビューやDCでのゲリラ的な行為は映画的にはあまりうまくいったとはいえないと思う。政治家に対するアプローチとその失敗を映画に盛り込むことは必要なことだったと思うけれど、でも、その失敗していく過程があまりにさらりとしているというか......まぁ、相手は政治家だ、というのもあるのだろうけれど、何というか、うん、あまりにさらりとしすぎていた感がある。対象がつかみきれていないというか...... 例えば息子を亡くしたお母さんはすごいインパクトがあって、一人の人間としてグアーっと立ち上がってくるような所があるのに、ムーアが撮る政治家の人は全然個別性がなくて体温も感じられなくて、とにかくつかみどころがないままなのだ。それはそれで政治家の本質をとらえているというか、一般市民と政治家の間の温度差を示すことになっているのかもしれないけれど......

他にも戦略的に気になる点はいろいろあったけれど、でも、あぁ、もうなんでもいいからとりあえずブッシュの再選だけはまぬがれてほしい、という気持ちはあったり。それかブッシュがすごくあからさまな票操作で再選してアメリカ市民の間に強い政治不信を植え付けるとか。政治に対する不信というのは私はすごく基本的な感覚だと思うし、体制だとか権力だとかに対する根本的な不信が根付いている社会の方が健全だと思うのだけれど、アメリカではそのへんがヨーロッパに比べるとやっぱりまだ未熟だなと思う。もちろん不信というのは無関心とは異なり常に体制的なものにたいして意識的でなければならないわけで、伝統的な政治不信が根付いている社会は体制の動きを市民の側からチェックする仕組みが発達している。そういうのが当たり前だろう、とかいうとやっぱり左っぽいとか言われるのかなー。右とか左とかいうのも結局は体制的なものだから、反体制派は本質的に右にも左にもなれない気がするんだけどなぁ...と最後は全然違う話になってしまいましたが、とにかく映画としてのできは別としても現在のアメリカを知るという意味では"Fahrenheit 9.11"はとてもおもしろい映画だと思います。日本での反応はどうなっているんだろう。

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追記
読み直してみて思ったのだけれど、"Fahrenheit 9.11"で感じた違和感というか今ひとつ感というのは、結局あちこちで言われているように、この映画がブッシュ政権批判という所に留まっているところからくるのではないかと思う。つまり、9.11もイラク戦争もブッシュ政権だから起こったのであって、批判されるべきはブッシュやチェイニーといった権力の座にいる個人である、という風にどうしても見えてしまう。でも、ブッシュが大統領にならなかったら事態は違っていたのだろうか。違ったかもしれない......とも思う。少なくともあの時期にあのような形でテロが起こったりあの時期にあのような形でイラクを攻撃したりすることはなかったかもしれない。だけど9.11やそれに続くアフガニスタン、イラクの空爆が指し示すより根本的な問題は"誰"がそれを起こしたかとか、その時大統領がどうリアクションを取ったかということではなくて、コーポレート化していく政治だとかそこにおける権力の働きだとか、そういう部分にあるのではないかと思う。言い換えれば、ブッシュが大統領にならなくたってにたようなことは起こりえたし起こりえるのだと思う。"Fahrenheit 9.11"はブッシュとその周辺の人々を批判することによって彼もまたそのうちに取り込まれているような体制の問題というものを見落としているような気がするのだ。そういう意味でこの映画はブッシュ時代のアメリカを知るには良い映画だと思うけれどそれ以上のより普遍的な力は持ちえないような気がする。

一番大切な想い出

独りは寂しい。
時々そんなふうに感じさせられる人がいる。
もちろん人は誰だって根本的には独りなのだけれど、でも誰かと一緒に生活している方が合う人とそうでない人というのはいて、本質的に前者である人がやむを得ず独りでいるのを見るとちょっと切ない。おせっかいなのは分かっているけれど。

もう一年前のことになるけれど、日本で、二年ぶりにあった祖母は、信じられないぐらいに年老いていた。相変わらずせっかちでおしゃべりではあったけれども、なにか、生命力のようなものがどうしようもなく失われてしまっていた。料理や洗濯や掃除、その他、快適に生活する為のちょっとした作業に対する関心をすっかりなくしてしまった祖母に代わりに、私は買い物に出かけ、料理をし、洗濯をした。せっかちな祖母とスローな私は終止すれ違いがちで、会話にしたって、私が一つ答える内に、三つぐらい先に進んでしまう祖母とでは、噛み合ないことの方が多かった。それでも祖母は私のことを引き止めに引き止め、結局一泊の予定だった所を三泊もしてしまったのは、決して祖母の家が居心地良かった為ではなく、その引き止め方にどこか切実なものを感じてしまったからだ。

滞在中、祖母が宝箱を見せてくれた。
中に入っていたのは、祖母の長男、つまり私の父についての思い出の品々だった。学校新聞に父が書いた記事、父の名前や写真が載った新聞記事、通知表、写真、そして「サクラサク」の合格通知と祝電の数々。優等生で、良い大学を出て、今ではその大学で教授をしている彼女の息子は、はた目から見れば決して親思いには見えないけれど(とことん個人主義者なので)、彼女にとっては、ひょっとしたら自分の夫以上に、思い入れの深い存在であるのかもしれない。彼のすることはすべて、本当にすべて、彼女の誇りであり、喜びであり、生き甲斐であるように見える。
祖母には三人の子供がいるのに、彼女の宝箱には父についてのものしか入っていないということ、そのことを彼女自身が全く疑問に感じていないことが、私には不気味であったりするのだけれど、まぁ、それくらい祖母の父に対する思いが特別だということでもある。合格通知が届いた日のことを、祖母は繰り返し、繰り返し話してくれた。それは、彼女にとって、一流の息子を育て上げたという勲章であり、彼女の人生に意味を与える大きな出来事だったのだろう。
「本当に、人生で一番幸せな時だったね、あの時がね...」。

そのことを思い出したのは、東京の両親宅で是枝裕和の「ワンダフルライフ」を見ていた時のことだ。
今まで生きてきた人生の思い出のうち、一つだけもっていけるとしたら、祖母は、やはり合格通知を受け取った日のことを選ぶのだろうか。おそるおそる電報を開き、「サクラサク」の文字を見た瞬間のことを。丸刈りの父や彼の弟や妹のことを。親戚に誇らしい気持ちで合格の報告をした日のことを。それを人生の唯一の想い出として。

映画は死んだ人が死後の世界に向かう前に立ち寄ることになっている場所の話で、そこで死んだ人は生前の記憶の中で一番大切な場面をスタッフと一緒に映像として再現し、その想い出とともに、言い換えればその想い出だけ持って死後の世界へと向かうことになっている。雲の過ぎ去っていく様が最高に美しかった日のことを再現してほしいと言うパイロット。西洋風のしゃれたレストランで兄と一緒にダンスをした夜のことを再現してほしいというおばあさん。自分の女遍歴をスタッフに自慢しながらも、最後には女房との他愛もない日々の一瞬を選んだおじいさん。それぞれがそれぞれに思い入れのある一瞬を選びだしていく。
不慮の事故で死んでしまった中学生の女の子は最初、友達とディズニーランドに行ってサンダーマウンテン(そんな名前のアトラクション)に乗った時のことを再現して欲しいとスタッフに告げる。それがすごく楽しかったから。スタッフの女の子は「もうちょっと考えてみたら」とだけ言う。数日考えた後、女の子は結局「子供の頃、縁側で桜の花を見ながらおばあちゃんに耳かきをしてもらった想い出」を選ぶことにする。それが一番幸せな想い出のような気がするから。
例えば、ディズニーランドに行った想い出と縁側で耳かきをしてもらった想い出には質的な違いというのはあるのだろうか。どちらを抱えていく方がより幸せということはあるのだろうか。そして、祖母にとって、父の合格発表の日の想い出というのは、この女の子にとってのディズニーランドなのだろうか、それとも縁側で耳かきをしてもらった時のことなのだろうか。そんなことを思ったりもした。

コミューンとアルトマン

ふと思ったんだけど、
普通に生活していたら、でかいサングラスとかかけて、煙草をひっきりなしに吸いながら鉄パイプでテレビを破壊する中年アーティストとか、その辺に生えている雑草然とした植物でご飯作ったりワイン作ったりしちゃうおじさんとか、本当に何もしていない人とか、どこから集めてくるのだかわからないけれど、ゴミが山積みになった部屋に住んでいるカップルとか、アルコールのみで生きているような人とか、下駄履いて無精髭を生やしたエコ信者とか、突然大地に祈りを捧げはじめる原理主義おばさんとか、コードフェチの男性とか、変な音楽やっているニューエイジおばあちゃんとか、きなこと牛乳で生きている浮浪者然としたおじさんとか、家庭がいくつもある人とか、偽装結婚している人とか、頭に銃を突き付けられたことがある人とか、眠気ざましにコカインすり込みながらツアーするバンド野郎とか、飲み会の場で急に逆立ちを始めちゃう人とか、夜逃げで行方知れずになっちゃった人とか、くたびれ果てた亡命者とか、「空を飛ぶくらいなら、まぁ、できるようになるよ」とか言う修行僧とは知り合わないものなのだろうか。

そんなことを思ったりするのは、最近立続けに2人の人からコミューン作ろうよ、と話を持ちかけられたせい。別にそのこと自体が珍しいわけではないんだけど、なんというか、ふと、なんでいつもこういう人たちとばかり友だちになってしまうのだろう…なんて思ってしまったり。
だって一応総合大学に通っていて、周りには経済とかコンピュータ・サイエンスとかバリバリ実用的なことをやっている人たちもいっぱいいて、金持ちになるぜ!とか成功するぜ!とか思っている人もいるはずなのに、なんで私が知り合う人はコミューンなんだ… まぁ、いいんだけど。

こういう人たちとか先に挙げたようなちょっと変わった人たちというのは、多分、これまでに出会った人たちの数を考えれば圧倒的に少数だとは思う。大学時代の同級生を考えても、ちゃんと就職して一定の収入を経て、結婚したり子供を持ったりしている人の方が多かったりする。それにこういうちょっと変わった人たちというのも、表面的にはごく普通(そう見えない人もいるけど…)だったりして、ある程度お近づきにならないと変わった部分というのは見えてこなかったりする。それは言い換えれば、どんな人でも、ある程度仲が良くなれば何かしら変わった部分が見えてくるということでもある。
実際、一般的に普通という枠組みに納まるような生活をしているような人にも変わった趣向や考え方の持ち主は多い。そういう意味では単純に先に挙げたような人たちを「変わっている」というふうに言ってしまうことはできないのかもしれない。「普通」な人と「変わった人」の境界は、多分普通考える以上に曖昧なものなのだろう。

ごく普通の人のちょっと変わった一面をアイロニカルに描きだす映像作家というと真っ先にロバート・アルトマンを思い出す。ちょっとしたことをきっかけに、ありふれた日常を淡々と生きる人々の隠されていた側面が露になる「ショート・カッツ」。日常のうちにあるちょっとしたズレから明らかになる、表面的にはなんのおもしろみもない、ステレイティピカル(アメリカ人としてであったり女性としてであったり)な人々のうちにある意外な深みが切なさを誘う「クッキーズ・フォーチュン」。
おもしろいのは、アルトマンの映画に出てくる普通の人々の中に、100%良い人や100%の悪い人というのが決して登場しないことだ。ある場面ではすごいいい人が別な場面ではどうしようもなくいじわるになってしまったり、あるいはその逆だったり。いろいろな関係性の内で、個々人が持つ多面性が自然に現れてくる。そうした人物設定には、それぞれの登場人物に一定の役割をあたえ、それを壊さないような仕方でストーリーを展開させていく、いわゆるハリウッドタイプの映画に対するアルトマンの批判が含まれている。ハリウッド映画には、あらかじめ設定された人物のイメージが否応なく作り替えられていくような契機はどこにも含まれていない。
もちろんハリウッド映画においても、ドジなヒーローややたらとセリフに真実味のある悪人など、相反する側面を合わせ持ったキャラクターが登場することはある。しかしその場合ドジな側面というのは、ヒーローがあらかじめ持っていたイメージを崩す要素としてではなく、それまでのヒーロー像とは異なるかもしれないけれど、別種の、やはりステレオティピカルなヒーロー像を強化していく要素として機能する。一見相反するように見える要素たちは、互いに互いを強化し合いながら、人物に画一的なイメージをあたえ、それをより確固たるものへと変えていく。
それに対し、アルトマン映画に登場する人々は、誰一人、一定の人物像を持っていない。こういう人なのかなぁ、と思った瞬間に、その人の持つ別な側面が見えてきたりする。どこにでもいそうで、実はそれぞれにユニークな人々。ごくごく普通の人々が、日常のふとした瞬間に、あるいは特定の人々との関係性のうちにおいて、突然、予想もしなかったような部分を露にし、そのことによって人々の中にあった彼や彼女のイメージが否応なく切り崩されていく。それだけじゃなくて、こうしたちょっとした変化が彼や彼女自身をもその都度その都度別なものへと変えていく。そのことによって彼や彼女がそのうちで暮らしていたような他愛もない日常や、彼や彼女を取り巻いていたごく普通の人々の関係性がどんどんどんどん崩され、再構成されていく。
現れては消えていく日常の断片。アルトマン映画における人々の行動やセリフは、時にどうしようもなく不条理に満ちていたり、救いようがなかったり、とことんアイロニカルだったりするわけだけれど、それでもどこか暖かい。それは多分、アルトマンの映像に、人間が持つ多面性に対する信頼みたいなものが感じられるからだと思う。人と関係することって楽なことじゃないけれど、でもこんな瞬間があるから、やっぱり人と出会うことってやめられないよね、っていう、ある意味アメリカ的な爽やかさ。それにしても、いわゆる社会派といわれるタイプの映像作家が、多面性をご都合主義的でネガティブなものとして示しがちだったりしがちな中で、このアルトマンの乾いた爽やかさは貴重だ。ほんとに。

いや、でもやっぱり、どうせ出会うならお金持ちの人と... 日常のささいな瞬間とか関係性とかどうでもいいから、一度ぐらいお金で自己解体されてみたいよなーとか思ったりもする今日この頃(ゲンキン)。 

雨の日のポルノ、白っぽい空間、おしっこがキラキラ

2ヶ月以上も前のことだけれど、名古屋のシネロマンで今岡信治脚本・監督の「高校牝教師 汚された性」を見た。

今岡信治の魅力は一瞬のきらめきだ。
若さとか希望とか未来とかが意味を持たない日常の内で、みんなどうしようもなさを持て余しつつやったりやられたりしながら生きていく。
何も変わらないし、先も見えない、どちらかといえば傷付くことの方が多い日々。

でもそんな日常にも、心温まる一瞬や、これからも生きていけるかもしれないと思えるような一瞬というのがある。買い物袋を下げて、線路沿いの小道を家に向かって歩いている時に見える空の形や、橋の上から眺める河の色、日が沈んでいくにつれて街の明かりがぼんやりとその存在感を増していく感じや、天井まで積まれた本から漂う紙のにおい。電線の作る影や夏の夕暮れ時の湿っぽさや髪の毛が額にはり付く感じや、水の匂い。
目にうつる一つ一つの部分が、ある瞬間に一つに重なり合ってとてつもなく美しく輝きだすような... 
何かをきっかけにふと思い出して、そしてちょっと救われたような気持ちになる、そんな幸せな瞬間の想い出。そういう瞬間を、ありったけの想いを込めて映像化するのが今岡信治だ。

本当に... 道ばたのでストッキングをガバッと下げておしっこする女の人を、あんなに幸せそうに撮ることができるのは彼をおいて他にはいないと思う。おしっこの後、男と手を繋いで駆けていく、分かれ道で何度も何度も手を振る、その輝きははかなくて壊れやすくて、でも強い。

実際は、女が愛してやまない男には浮気相手がいるし、女はその浮気相手の策略によっていとも簡単にレイプされてしまう。おいつめられた女は男子生徒の身体をむさぼる。初めは憧れの先生とのセックスに酔いしれていた生徒も、女の切羽詰まった欲望に圧倒され、最後には「もうできないよ!」と後ずさる。その男子生徒には、成り行きでやっちゃった同じ学校の女生徒がいるが、彼女は男子生徒の子供を孕んでいる。女生徒が見せる行き場のない歪んだ執着。魅力的なセックスをする男の浮気相手も、最後には醜い態度で男をなじる。それぞれにどうしようもなくなって、結局またやっちゃったり、トイレにとじこもってぼんやりとしたり、夜の街を犬と一緒にさまよったりしてしまうわけだけれど、そんな中でも空き地で男に「チー、チー...」と言われながらおしっこする時に女が見せた、あの一瞬の輝きは消えない。それくらい強烈なのだ。

もちろんその一瞬があったとしても修復不可能な関係や許すことのできない過去、忘れることのできない傷はある。その一瞬を思い浮かべた瞬間に苦しいことや哀しいことが全部帳消しになるなんてことは絶対にない。でも、だからこそ、その一瞬の美しさは残る。強く、心の内に。そこに生きる意味があるとか希望が宿るとかいうつもりはないけれど、でも、あの一瞬の美しさは特別だと思う。今岡信治の映画を見るたびに、思う。

過疎地、魚、水っぽい乾き

久しぶりに「ラブ・セレナーデ」(1996年、シャリー・バレット)を見た。
オーストラリア映画で、個人的にとても愛着がある一本だ。
何度も何度も見たので、一時はセリフも暗記していたほど。それくらい好きだ。

この映画が私にとって特別な理由の一つは魚だと思う。
魚が出てくる。
なんでなのか自分でも全然わからないのだけれど、魚が出てくる映画が大好きだ。
その意味では、エミール・クストリツァの「アリゾナ・ドリーム」なんか、もう、涙がでるくらい好きだ。
なんてったって魚が空をとぶ。
魚の数を数える男。魚の内臓を膨らませて遊ぶ子供。砂漠をゆらゆらと魚が飛んで、雷雨の中、亀がノソノソと去っていく。
全体に流れる水っぽさがたまらない。

「ラブ・セレナーデ」はクストリツァの作品ではないけれど、同じような水っぽさに包まれている。
茶色く濁った川の中でうごめく魚たち。薄暗い中華レストランの水槽。エラ男のヌメッとした喋り方。オーストラリアの、何にもない砂埃にまみれた退屈な町の風景を包み込む湿っぽい夕日。色みを欠いた町並みと、そこでくり返される日常。
どうしようもなく閉ざされた感じとか、鬱屈した空気とか、後ろ向きなダサさとか、そうとは気付かぬ内に次第に狂っていく生活の細部なんかが、映像の端々からジワジワとひっきりなしに滲み出してきて、画面全体を覆っていく。それはもう、ただ、水っぽいとしかいいようのない絶え間なさとつかみ所のなさでもって常にそこにある。
決して若くはない中華レストランの主人が、店のドアから出てきて、人通りのない街路に店の看板を立てかける。頑丈そうではありながらもくたびれた感の否めない主人のまるっこい背中を夕日が赤く照らし出す。やがて急激に色を失っていく夕日の下で、彼も彼の店も、町並みも、一様に色を失い溶け合っていく。その風景を前にするといつも涙がこぼれてしまう。

最高の泣き映画だと思うんだけど、この映画を見て泣いたという人とはこれまで一度も会ったことがない。
というか、これ、「オーストラリア発、おしゃれでかわいいブラックコメディ!」みたいな売られ方していたやつだしね。
魚好きとか、南国田舎育ちとか、水っぽい風景見ると死にたくなるとかいう人にはお勧めです。多分。

トーキョーエロティック

アップリンク・ファクトリーで「由美香」を見た。
劇場版「わくわく不倫旅行」のメイキング版で、ほとんど手持ちのビデオカメラで撮影された2時間半近い映画、というよりはドキュメンタリーだ。AV歴7年目(当時)のベテラン女優、林由美香と監督の平野勝之が、自転車で日本の最北(トド島)をだらだらと目指し、その道中だらだらとセックスする、そんな映画だ。平野は既婚者で、由美香とは不倫の関係。どうしても彼女で一本撮りたくて、半分無理矢理今回の企画を通した。

旅の途中、いろいろな人たちが登場する。3年間もひたすら日本をぐるぐる回っている人、徒歩で日本一周を目指す人、爽やかな女性ライダー、夏休みを利用してやってきた中学生や高校生、アウトドア派のカップル。「竹馬で日本一周なんて人もいますよ」。世俗的なものかしらどこか遠い所にあるような、あるいは少なくとも世俗的なものを脱ぎ捨てようとしているかのように見える北の放浪者たちの中にあって、このAV不倫ライダーカップルは明かに異様だ。

由美香は日焼けをさけるために、暑い日差しの下、完全装備で自転車を漕ぐ。どんなに暑くなろうと、どんなに汗まみれになろうと、長そでシャツを脱ぐことはないし、手袋、サングラスにつばの長い帽子を取ることはない。日焼け止めも欠かさない。夜にはテントで熱心に毛抜きをし、お肌のお手入れをかかさない。もちろん日の光の下、北海道の自然を楽しむなんてこともない。普段と変わらず、一日一回はラーメンを食べるし、夜は夜で酒をかっくらって寝るばかり。平野は日焼けこそ気にしないものの、ほとんど片時もビデオを離さず、ネタを求めてビデオをまわし続ける。美しい景色を前に考えることといえば、どのようにして由美香にうんこを食べさせるかということばかりだ(それとひきかえに「由美香」の名前をタイトルに映画を撮ることを許可されたのだ)。同時に、うんこを食べることを強要することによって由美香に振られることにでもなったらどうしようという、こちらも極めて世俗的かつなさけない悩みなんかもあったりする。

いろんなものをかなぐり捨てて、自由になっていく(かに見える)放浪者仲間と違って、この二人は、その行動も話の内容も思考回路も、すべてがどうしようもなく世俗的なのだ。セックスも正常位ばかりだし、画質は悪いし、カメラのアングルも極めて単調だ(もちろんAV用に作られた部分はちゃんと撮っているけど)。その辺を歩いているカップルのプライベート・ビデオを見てしまったような居心地の悪さを感じたりもする。

でも一方で、二人の間にある、退屈で凡庸であっけらかんとした笑いに、救われたような気持ちになったりするから不思議だ。
下らない歌ばっかり歌ってる平野氏。
熱心に陰毛を抜く由美香ちゃん。
初めて見る蛍や満天の星空。屋外での食事や、キャンピングカーでの夜、夕張メロンの朝食... ちょっとしたことで幸せになっちゃう二人。
キャンプ場で見かけるおもしろおかしな人の話に二人でクスクス盛り上がる。
普段と変わらない日常のようでありながら、実際にはその時、その場所にしか存在しえないような一瞬のきらめき。その刹那さは切ない哀愁を誘うけれど、多分、幸せというものがあるとしたら、そういう形でしか存在しえないのではないかと思うような、そんなさりげない美しさを持っている。そこに二人の関係の核があって、あぁ、だからこの二人は一緒にいなくてはいけないのだ、という気になる。平凡なセックスをくり返し、他愛もない会話を共有し、ちょっとしたことで仲たがいする、そんな日常を生きていく意味は、こういう一瞬にあるのかもしれない、と思う。

生きることは諦めることに近い。
選択肢の数と実際に選択できるものの数が異なっている以上、それはどうしようもないことだ。結婚した人は結婚しないで生きるという可能性を諦めることになるし、結婚しなかった人は、結婚生活を諦めなくてはならない。別にどちらがいいというわけでもないし、諦めることが悪いというわけでもない。ただ、生きるということはそういうものだというだけだ。別に自らが選んだ人生に満足していないわけではないけれど、それでも時に、失われてしまった別の可能性を思って感傷的になってみたりする、そういうものだ。

そして人生はある程度まで、平凡な日常に慣れ親しんでいく過程でもある。どんなに苦労して手に入れたものであっても、その時の感動やエネルギーが永遠に継続するわけではない。大恋愛の末に一緒になったパートナーとの生活も、毎日続けばやがて新鮮さは失われてしまう。それでも日常は続く。そんな日常を支えるのは、多分、一瞬のきらめきなのだと思う。代わり映えのしない日常にスッと切れ目が入って、そこから光が差し込んでくるような、そんな感じ。その光によって当たり前の光景が、一瞬キラリと輝く。大切なのは、光り輝くその瞬間よりも、むしろ日常に切れ込みを入れるその契機の側にある。日常に宿る細部の微妙な関係性の連鎖が一瞬の光を生むのだとすれば、その一瞬の結合へ向けて自らと他者、あるいは日常の細部との関係性を修練していくことが要請される。別にその為に何か特別なことをする必要はないと思う。ただ、ある種の繊細さ、みたいなものは必要かもしれない。ささいなものや他者とのつながりに対する繊細な感受性。
そういうものを求める気持ちが、じわりと滲み出る映像だった。

戦争、世界、個人的な傷

例えば、私は中島みゆきなら初期がすきなタイプです。
自己の醜さだとか欲求だとかと悶々と向き合ってみたり、漠然とした満たされなさ加減だとか、社会に対する行き場のない憤りだとかと格闘する、そういう方に共感を覚えてしまう方です。言い方を変えれば、妙に何かを悟りきったかのように、すっきりとした顔で世界だとか未来だとか人類愛だとかを歌われても困る。というか、さっぱり。そんな感じなわけです。
世界よりも、個人の内に潜む、超私秘的な問題と言うか暗闇の方に向かってしまうし、人類愛なんかより、日常生活に渦巻く歪んだ嫉妬心だとか醜い駆け引きだとか、あるいはそんな中に降って湧いたかのようなさり気ない美しさに惹かれるわけです。

そんな私にとって、ポランスキーの「ピアニスト」は、アートハウス系の映画で名をあげた映画監督が年老いて、ちょっと感傷的になって国や世界に対して自らができること、映画史における自分の役割とかを振り返り、壮大なテーマに挑んでしまった、その結果生まれたナイーブで正当すぎるほどに正当な戦争映画、という気がします。


ポランスキーが、こんなハリウッドチックな、分かりやすいヒューマニズム映画を撮るとは思わなかった。これが映画を見終わった私と友人、共通の感想でした。脚本も構成も、それなりにすばらしい。画もパワフル。涙を誘う場面もあれば、思わず笑っちゃうような所もあり。映画としては十分合格点です。

それでもどこかすっきりしない... ポランスキーが第二次世界大戦中のユダヤ人問題について撮ったという話を聞いた時から心のどこかにあった不安が適中してしまったかのような、居心地の悪さ。

もちろん、構成上、この映画をいく通りかの、異なった仕方で解釈することも可能といえば可能ではあります。ただ、もしポランスキーが単なるヒューマニズム映画以上の何かをこの映画に込めようとしたのであれば、後半部分、いや、最後の最後、テロップの部分は余分でした。


映画は、ナチのユダヤ人政策に翻弄される一人のポーランド系ユダヤ人ピアニストの半生を描いたものです。ワルシャワのゲットーへの強制移動、劣悪な環境での生活、日々強まる圧力、SSの横暴、生き延びるための努力、強制収容所への移動、家族との別れ、強制労働、親ユダヤ派の友人、潜伏生活、飢餓...

ナチによるポーランド系ユダヤ人の迫害をリアリスティックに描く前半部分に対し、映画の後半部分ではピアニストとナチ将校との、極限状態における密かな友情がテーマになります。戦争が終わる直前の数週間、廃墟となったゲットーで潜伏していたピアニスト。食料をあさり、さまよっていたピアニストを発見したナチ将校。将校は、ピアニストを見逃し、そればかりか食料を渡し、彼の潜伏を手助けします。冷血非道なはずのナチ将校が見せる人間らしい側面。それは、戦争という極限状態、人と人とが互いに殺しあう状況下であってもなお、人間らしい思いやりや心のふれあいが可能になる瞬間があるということを示しているかのようでもあります。

将校の行為に「感謝の言葉もない...」とつぶやくピアニスト。
確かに美しい話です。感動的な話です。
でも、どこか陳腐な気がしてしまうのは私だけでしょうか?

飢餓状態で、骨と皮だけの状態になったピアニストにとって、将校から与えられた食料は、確かに価値あるものでした。彼は将校の助けなしでは生き延びることはできなかったかもしれないし、そういう意味では将校は確かに一人のユダヤ人の尊い命を救ったわけです。
だけど、同時に彼は、何千、何万というユダヤ人を、直接的にではないかもしれないけれど殺してきたわけです。

ピアニストに食料を届けた後、指令本部に戻った将校は何枚もの書類にサインをします。もしかするとこの書類はある地域のユダヤ人を強制収容所送りにするための書類かもしれない。もしくは、収容所のユダヤ人を大量に殺害するためのものかもしれない。彼が一枚サインする毎に、1000人のユダヤ人が収容所に送られるのかもしれない。そういう可能性を考慮してもなお、将校がピアニストに行った親切を賞賛することはできるでしょうか?


例えばあなたが道を歩いていて、突然車に連れ込まれたとします。あなたを連れ去ったのは有名な窃盗グループで、彼等に連れ去られた人々は、身ぐるみはがれた後残忍な殺され方をするということで有名です。車の後部座席に押し込まれたあなたは、頭に銃を突き付けられたまま身動きもできない状態です。やがて町外れの人っ子一人いない場所で車は止まり、あなたは車の外に出されます。盗賊たちはあなたの持ち物を奪い、洋服をはぎとっていきます。100%死を意識したあなたは、呆然と乾いた大地に座り込み、頭に突き付けられた銃口が火を吹くのを待っています。あなたの所持品すべてを奪い取った後、窃盗団は再び車に乗り込みます。あなたの頭に銃口を突き付け、周りを見張っていた男は一言「このことは誰に言うな」と言い、銃をしまおうとします。その瞬間あなたの口からでてきたのは、あなたを撃つことをやめた男に対する限りない感謝の言葉でした。

誰でも、状況が自分が思っていたよりも良い結果に終われば、例えそれがどんな理由であるにしろ、ある程度の満足感を味わいます。そして、人は、「自己の死」という最悪の状態が避けられない状態におかれた場合に、何らかの理由によってこの最悪な結末が回避された時には、多大な安堵感あるいは幸福感を味わい、それをもたらした相手に対して感謝の念を覚えるわけです。少なくとも一時的には。
例え相手があなたを誘拐し、身ぐるみはいだ後に誰もこないような所に放置した人間であっても。例え相手があなたの両親を、家族を、友人を殺した人間であっても。例え相手が、あなたから穏やかな生活や、さりげない日々の喜びや、愛すべき仕事や、人々とのふれあいを奪った人間であっても。例え相手にとって、あなたを殺さないという行為が、単なる気まぐれにすぎないとしても。


ナチ将校がピアニストに対して見せたヒューマニスティックな一面を全否定するわけではありません。人を一人救ったこと、自分の立場を顧みずにユダヤ人の潜伏をかくまったこと自体は賞賛に値するでしょう。ただ、それは、彼がナチ将校として行った、あるいは主体的にではなかったかもしれないけれども、結果的に加担することになった様々なアンチ・ヒューマニステュックな行為を帳消しにするようなものなのでしょうか。

もしかしたら将校の行った二つの行為(ピアニストを見逃すこととユダヤ人虐殺を推進すること)はそれぞれに全く異なった性質を持ち、で、あるがゆえにそれぞれを比較し、どちらがどれだけ善で、どちらがどれだけ悪なのかを決定することはできないのかもしれません。いや、できないと思います。ただ、個の人間が持つ道徳的多面性、様々な状況において、様々なシステムから要求される道徳的行為の種類、それに対する個人の反応、そういうことについて考えるほどに、この映画を評価する基準というものが見えなくなっていくように思うわけです。
この割り切れなさ加減。個の内面に潜む道徳的多面性、あるいは個の行為を規定する様々な価値観の存在こそがポランスキーの描きたかったものだ、ということもできるかもしれません。ただ、それならなぜ、ポランスキーは最後の最後で、あのナチ将校の死に様についてテロップを流したのでしょう。あるいはなぜピアニストがナチ将校が彼の友人に助けを求めたと言う収容所跡地を訪れるシーンを挿入したのでしょう。引き離された自分の家族を探すシーンでなく、アウシュビッツを訪れるシーンでもなく、自分の名前に触れたというドイツ兵の所在を確かめるシーンを。

もちろんポランスキーは原作に忠実に従ったまでだ、ということもできるかもしれません。でも、あの終わり方やテロップの挿入が、ポランスキー自身のユダヤ人政策あるいは戦争理解と相反するようであれば、そういったシーンはもちろんカットされたはずですから、やはりポランスキーはピアニストを殺さなかったナチ将校にある種の敬愛の念を覚えていると思わざるをえません。もちろんそれが悪いわけではありませんが、本当にそれで良いのだろうか...という居心地の悪さは残ります。

うん、でも、ヒューマニスティックにまとめきれないポランスキーの不器用さは、やっぱり肯定的に捉えるべきものなのかもしれない。美しい話にしたくてもできない。それこそがまさに戦争中の人々の置かれた状況、記憶の傷を示しているとも言えるわけだし。スクリーン上に映し出される映像には、実際に映し出されるものだけじゃなく、そこから外れ/された、でも存在したであろう別の物語、あるいはリアリティというものを想起させる機能もあるわけで、そういう意味では「ピアニスト」は成功しているのかもしれない。

それにしても、歴史もの、特に戦争であるとか、記憶の傷を抉るような作品について語るのは難しいですね...見るのも疲れるし。技術的な部分については、いいとか悪いとか、割とすんなり、一定の基準に基づいて価値判断がくだせるわけですけど、歴史映画の内容について、特にそれが登場人物や監督や、一般の人々の記憶であるとか痛みであるとかと深く結びついている場合、作品のよし悪しを判断するのは非常に困難になります。少なくとも私にとっては...

The Inheritors (Die Siebtelbauern)

ちょっと前の話になりますが、久しぶりに映画を見ました。

"The Inheritors (Die Siebtelbauern)"というオーストリア映画で、監督さんはStefan Ruzowitzky。これがすごい大当たりでした。
オーストリア映画+設定が古い(1930年代)ということで、特に期待しないで見にいったんですけど、始まったとたんにもうトリコ。まず、色がいいでしょ。錆び付いたカラー。セピアがかったとかいうんじゃなくて、本当に錆び付いた感じ。

あと、カメラワークが無茶苦茶好み。荒いといえば荒い...かな、という部分もあるけど、
そういうの大好きですから。荒いといっても"Breaking the Wave"みたいな、手持ちビデオでブレブレっていう感じのものともまた違って、決して見難い感じではないです。ちなみにカメラはPeter von Hallerという人。

キャストというか人物設定にもいろいろ癖があって...ふふふふって感じ。
テーマ自体は特に新しくはないんですよ。
自由とは何か。自由であるということはどういうことか、みたいなテーマで。
安い賃金で働かされていた小作農(peasant)たちが、農場主の死によって、ある日突然農場主(たち)になるわけです。で、最初は「お前らの農場を○○○円(為替は違うけど覚えていない...)で買ってやるよ」とかいう別の農場主の口車に乗って「わーい。ボーナスだ」とか喜んでいるんだけど、その内「いや、まて、一時的にまとまった金を手に入れたとしても、小作農である限りはこの先ずっと安い賃金でこきつかわれるんじゃないか。それより金にはならなくたって自分達の為に働く方がいいじゃないか」みたいなことに気付いて、結局お金じゃなくて農場を自分達で運営する道を選ぶ、と。

で、昨日まで小作農だった奴等が急に農場主になっちゃったわけだから、村の他の農場主(太った金持ちですね)は気持ちよくないわけです。で、いろいろ妨害をする、と。最後はまぁ、悲劇的な終わり方をするんだけど...
本当に、こうやって書いていてもストーリーは別に特別じゃないでしょう?
もちろんセリフとかはすごくいいんだけど。
粗筋を読んだだけじゃ多分そんなに惹かれる映画ではないと思う(実際私も全然期待してなかったし)。結構これまでにもこういう映画あったよな、って。

でもね、もう目が釘付けなの。
画面にすごいパワーがある。

あれですわ...
なんかグワーっと破滅に向かって落ちていく中に、いくつもの美しい瞬間っていうのがちりばめられていてね。もう、一方では逃れられない身分制とか差別とか因縁とかいうものがドロドロドロドロ渦巻いていて、みんなそこに飲み込まれていくんだけど、その逃れようのない破滅への道...の過程において、ものすごい、生が輝くとはまさにこのことかってぐらいに美しい瞬間があるのです。
すっごい切ない。うわー...って叫びたくなるくらい切ない。

今気付いたんだけど、これ95分の映画だったみたいです。
もっと長かった気がしたけど。というのは、それだけ内容が濃かったっていうことで、
間延びした感じでは全然ないです。
この短さであの濃さ...
この監督さん、要注意です。 

「癒し」と「再生」について

「癒し」と「再生」について.
「癒し」という言葉は,普段「傷付いた部分を治療する」という意味で使われる.
例えばレジャーが労働の再生産を目的に作り出された活動であるように,いわゆる巷に溢れる「癒しグッズ」は,労働過程で傷付いた精神を治癒することを目的とする.しかしそれは結局の所,労働力の再生を目的とする一連の動きに組み込まれた戦略にすぎず,人々は絶えまない労働サイクルの過程で傷付いた精神を,お金を払って購入した「癒しグッズ」によって「再生」し,そしてまた絶えまない労働サイクルの内へと戻っていく.そこでは「癒し」前と「癒し」後の間に,切れ目も転換も存在しない.

それにしてもなぜ私達は時に,このありふれた日常が,明日もまた同じように,変わらず続いていくなんてことを信じることができるのだろう.

今日もまたバスに乗り学校に行く.3つ目のバス停で降り,坂を登って学校の門をくぐる.そして数時間のたいしておもしろくもない授業を受け,またバスに乗る.バスはそのまま家の近くへ自分を運んでくれる.
こういうのでもいい.
今日も私はバスの運転手として運転席に座っている.決まったルートを一日に数周し,そしてバスを駐車場に入れる.仲間とたわいもない冗談を交わし,家へ戻って妻の作った晩御飯を食べながら麦茶を飲む.

そういう普通であたり前の日常に,突然亀裂が入ることがある.
その瞬間,あたり前と思われていたような世界が,自分がこれからもずっとそこに乗っていくはずだった一つの道が,完全に崩壊する.
それはある人にとっては,大切な人との別れであり,ある人にとっては試験の失敗であり,ある人にとっては交通事故であり,病気の宣告であり,またある人にとっては死の経験みたいなもの...であるかもしれない.

その瞬間.人は,それまで自分がその内部でぐるぐるまわっていたような,一つの大きな流れから強引に引き剥がされる.
そして巨大な空虚...ともいえるような所に立たされる.
この空虚.ある断絶.ある喪失.そして傷...
それをいやおうなく抱えこんだ人々.

「癒し」というのは多分.そんな状況においてこそ必要とされる,力をもつものなのだろう.それは単に傷を治すということではない.「癒し」とは,大きな断絶を抱えた人々が,自分が喪失したものを前に,崩壊した後の世界を前に,その失われた破片をつなぎ合わせ,そうやって自らを再び生き直す可能性である.
「癒し」の行為を通じて,人々は「再生」への道を歩き始める.
しかしそれはもちろん,単純に自分がそれまで属していた世界,あるいは社会へ戻ると言うことではない.それは不可能なのだ.
壊れた破片をつなぎ合わせても,壊れる前の,そのままの状態は絶対に再現できない.そこには無数のひび割れと,欠落が含まれる.
しかしその過程を通じて,その傷を抉るような痛みを伴う行為を通じて,
人は初めて傷を持った「自己の生」を生き直す可能性を見い出しうるのであろう.

映画「EURIKA」において,すべてはバスのハイジャック事件をきっかけに始まる.事件はバス運転手沢井が,乗客としてそこにいた兄妹がそれまで属していた世界を完全に破壊する.
拠り所となる場を失った彼/女らは,浮遊するように,あてもない旅にでる.もうここにはいられない.かといって辿り着く先を見ることはできない.行くあても,帰る場所もない旅.
二人兄妹の兄,直樹は眠れぬままに閉ざされきった田舎道をさまよい,女を殺し続ける.
妹の梢は,言葉を発することはなく(それは直樹も同じなのだが),ただ,庭に作られたお墓や,海岸で拾い集めた貝殻といった物質的な部分にのみ,
時折強烈な執着を見せる.
もう何も永遠になんて続かない.
どこにも確固たる世界なんてものは存在しない.
いつかみんなこの崩壊を目の当たりにするんだ.

殺人を犯した直樹のことを秋彦はこういう.
「やっぱり一線を越えちゃった奴は,隔離されなきゃ行けないのかな.
でも,あいつにとってもその方が幸せなのかもしれないね.」
沢井はその言葉に激怒して叫ぶ.
「なんが幸せか.そげんこっが幸せでたまっか.」
直樹はいつか,いつか戻ってきて,そして...
「失ったもんば取り戻すと.」
「失ったもんば取り戻すと.」

崩壊した世界を,失われた世界を,生き直す可能性.
そんな世界をしぶとく生き続ける可能性.
それがこの映像の内において「発見」されるべきものなのかもしれない.

増村保造特集

増村保造特集

増村の映画とかを見ていてしみじみと感じるのは「生への執着」いや,もっと単純に「しぶとさ」ってことかもしれない.
増村映画に出てくる人々は,みんなとにかく「しぶとい」.ひたすら「しぶとい」.これでもかってぐらいに「しぶとい」.
簡単に死んだりしない.っていうか殺そうとしても死なないんじゃないかと思うぐらいにしぶとい.

「好色一代男」なんかはすごく典型的な例になる気もするけど,例えばこの主人公のボンボン息子っていうのは,本当に根っからの女好きで,女の尻ばっかりおっかけているような奴.でも,その精神っていうのは徹底していて,その為に貧乏になろうが,殺されかけようが全然平気なんだよね.で,女=生みたいな感じ.
おもしろいのは,この男と一緒になる女っていうのは,これまたしぶといのはしぶといんだけど結構簡単に死んじゃったり殺されちゃったりするわけです.すると男はすっごい怒ったり哀しんだりするわけですが,次の瞬間にはもう開き直ってる.っていうか次の女に走る.そりゃあもうすごいパワー.逞しい.そう,そこに限り無い生への執着みたいなものを垣間見てしまうわけです.

他の増村映画に出てくる女達も,まさに生のパワーに満ちあふれているしね.
逆境,差別,偏見,自分達を押さえ付けてくる大きな枠組み.そんなものはあってあたりまえなわけです.
もうみんなそんな中で翻弄しまくられるわけです.
でも死なない.生き続ける.もう哀愁をそそる逞しさです.
アイロニカルな「生への執着」,生きのびようとする力.それがとても...いい.

さらば愛しき大地

田村正毅特集(さらば愛しき大地/1982.04.09/日本/130分/カラー/柳町光男)

最近,図書館でやっていた田村正毅特集を見に通っていて,昨日は"Helpless"と中上健次が生前撮っていた16mmを編集した"路地へ"を見てきました.
でも,徹夜あけだったので途中で記憶が...とんだりしてたんですけどね...
で,その前に"さらば愛しき大地"というのを見て,これがすごくよかった...その後,本当に死にたくなるくらい鬱な精神に響いてくる映画でした...現在鬱症状のある方は決してみないで下さい(笑)...

内容は,過疎の村に住む家族の長男が,農業だけじゃやっていけないからダンプの運転手に転職するわけです.
弟は華の都東京に出ていき,自分は家族と子供と,年老いた両親とともに,家を守るべく毎日ダンプに乗っている.時折沸き上がってくるどうしようもない空虚感.
それを紛らわせてくれる唯一の希望であった子供は,雨の日に池で溺れて死んでしまう.
逃げ場のない日常.
同じく村に(抑圧的な愛情でもって迫ってくる母親に)閉じ込められている(と同時にそれにすがっている)娘(しかもこの人は弟の学生時代の恋人)と関係を持ち,やがて二つの家を行き来するようになる男.
しかし心を満たしてくれるように思われた若い女との関係も,新しく生まれた子供も,彼の巨大な虚無感を埋めることはできず,男は覚醒剤に手をだすようになる.
薬ももちろん彼の心を満たしてはくれない.むしろその虚無感はより堪え難いものになっていくばかりだ.
その理由を理解しようと思っても,それを克服しようと努力してもそれは無理だ.
それは彼の劣等感みたいなものに直接的に根ざした問題ではないからだ.
そこには義務としての伝統的慣習や,発展の一途を辿る当時の経済的状況,生産構造の転換,中央と周辺...
そういった彼自身がわけも分からぬうちにすでにその内部へと取り込まれている,より大きな何かがあるのであって,彼の虚無感・空虚感・世界との断絶といった問題は,実はこうした彼が取り込まれている様々な状況の内から降って湧いてくるような...そういうものなのだ.
その時,青々とした田んぼの稲穂が,どこまでも続いていく緑の大地が,広く青い空が...どうしようもなく抑圧的なものとなって眼前に迫ってくる.
そして自分はもうどこへも行けないのだ.新しい「世界」なんてものは,この大地の内にも外にも,決して存在してはいないのだ...という思いだけが確かなものとして浮き上がってくる.

男は,自分にとっての最後の最後の最後の砦だった女を,結局は刺してしまい,もうすべてが終わったような顔をして娘と二人,ダンプによっかかりながら,目の前に広がる田んぼを見つめる.
最後,田んぼの真ん中で警察に取り長えられるシーンは,短いけれどもなんとも言えない哀しみをさそう.
そして家では,日常が続いていく.
映画の中における農村の風景と鹿島の工業地帯の風景との対比も興味深いものである.

赫い髪の女

赫い髪の女/1979.02.17/日本/73min./カラー/神代辰巳 

神代辰巳の「赫い髪の女」を見る.
寂れた田舎町の土木作業場を転々としている男達.どこからかあるいは何かから逃げてきた女.寂れた安アパート.雨・雨・雨...
そしてふと気付く.これは中上健次の世界だ...
閉ざされた世界.閉ざされた人々.そして雨...雨の音は常に止まず,もうどこにも,ここから一歩も動けないんだ...というある種の絶望感を誘う.雨の日は工事が進まないから,女と男は部屋でひたすら躰と躰を合わせ続ける.ものも食べずにただひたすら激情をぶつけあう.だからといってもちろん結婚して家庭を持とうとか子供を作ろうとか,そんな話には絶対にならない.なぜならそうすることで得られるかもしれないあたり前の幸せや未来なんてものはないっていうことは男にも女にもあまりに明白に思われてしまうからだ.
多分女は,家を夫を子供を捨てて街を飛び出した時点ですべてを失ったのだ.自分がこうであったかもしれないいろんなものが全部なくなった時,そこには自分を愛する男との身体的接触を通じてしか自分の存在を確かめられなくなっている自分が残ったのだ.だから二人はただ一緒にいることだけを目的とし,そして躰を離せば死んでしまうのだという強迫観念にあえて身を任せ,閉ざされた世界にじっと身を潜める.
男の若い同僚はレイプした若い女と共に幸せを求めて大都会へと去っていく.そして赤い髪の女は暗い部屋の中でいう.「若い人はええなあ,ええなあ,ええなあ...」それは最後には絶叫へと変わっていく.
下の階からは果てしなく続く女の叫び声.
しかしだからなんだというのだ.可能性なんて結局始めからなかったんだ.夢なんていう実在しないものを追い掛けて傷付いてボロボロになってなってどうしようもなくなってしまったからといって,この小さなアパートで男と二人インスタントラーメンをすする生活は何もない空っぽの暗闇だなんてどうして言えるだろう.結局ここなんだ.辿り着くのも,また始まるのもここなんだ...そういうほとんどしたたかさにも近い強さを神代映画に出てくる人々は持っている.そしてそれが彼の映像に凄みを与えるのだ. 

ビデオの可能性について

先日,九大で上映会をやったときにE君が見せてくれたETV特集(確か私的ビデオの可能性とかそういう話し)に出ていたフィリピンの映像作家タヒミックの姿が忘れられない.この人はすごい人です.
いや,久々にすっごい感激しました.昨年最も印象に残ったのが今岡信治とすれば今年はタヒミックです(笑).
彼がね,言うんですよ「これまで虐げられてきた(というか語る権利を持たされずにきた)人々がビデオをいう機械(機会でもある)を通じて自らの言葉で語りはじめるんだ」って.彼はフィリピンの少数民族の村にカメラを配って,その使い方を住民に教えていくっていうようなことをずっと行っている人なんですね.彼自身ももちろん撮るわけですが.そうやってこれまで語る手段を持たなかったような人々がビデオを手に私的な言葉で自らの生を語りはじめるところに可能性を見い出そうってわけです.それ自体はすごく意味のあることなんだけど,やっぱりこういうやり方っていうのは常にある種の問題を孕んでいるんじゃないかという気もします.
例えばそういう人々の言葉や記憶っていうのを,国家的な大きな歴史とか記憶の創造みたいな問題と同レベルで語ってはいけないのだと思うのです.少数民族でもいいし,同性愛者でもいい,監獄の囚人でもいいんだけど,とくかくこうした社会的マイノリティの人々に語らせよう!っていう動きの背後には,そこに真実の歴史が,物語りがあるんだ.国家というのは,あるいはこういうマージナルな領域に支えられた近代的社会というものは,その全体的かつ大きな枠組みを維持するために,こういうマイノリティの声(それこそがまさに真理を映し出しているようなもの)を排除し続けてきたのだっていう見方があるんじゃないかと思う.でもそういうマイノリティの言語の内に真理が宿るみたいな見方は,国家がその全体的な国民の記憶を形成するために行ってきたやり方と実は同じなんじゃないだろうか.あらゆる物語化,ある言説を真理として語るやり方は,すべてある種全体主義的なものへと行き着くことになるだろう.
だから多分重要なのは,始めからある意味負けを認めつつ次のように主張することなんだと思う.
私達が自らの手にビデオを持ち,自らの言語で自らの生を映しはじめたからといって,それは全体的なものとは関係ないのだ,と.とりあえずそこにはある大きな枠組みというものがあって,私達の生の形式みたいなものを上からガツンと規定してくるような力を持っている.で,自分があるいは社会的周辺に置かれた人々がビデオを手に自らを世界を映しはじめるということは,そこから新たな,本来のリアルな世界...というものを形成することにはならないのだと.でも,この何ら全体的かつ客観的な真実を生み出しえない,というかそういうものを肯定しないという点こそがビデオの重要な機能なんだといいたいわけですね.そうやって人々は,ビデオ片手に日常の断片を切り取り,継ぎはぎし続けるわけです.そこからは何ら全体的なものは形成しない.対抗社会みたいなもののビジョンをあたかも唯一無二の真理みたいな形では示さないわけです.でもその行為の内に,
というかその行為そのものが現状に対する辛らつな批判となると同時に,そういう枠組みの中で生きる自己の存在を指し示す,そして行為を通じて自己を変化させ続けるきっかけとして機能するようになる...かもしれないわけで,そういう時にこそビデオで撮るという行為が,そしてそこで切り取られた光景の断片が「大きな歴史,一つの世界,唯一の真理といった見せ掛けにして巨大な壁に楔を打ち立てる契機となる」のだと思うわけです.
相変わらず,なんかあまりクリアでない文章ですね...まあつぶやき
ですから...許して下さい. 

Fight Club

すこぶる体調が悪い.
これは風邪か?(「いや鬱だ!」という声もちらほら...笑)もちろん尿も最悪だ.結局昨日は一日寝てた.
でもアメリカに行ったらそんなこと言ってられないんだろうな.
体調悪かろうがなんだろうが授業に出てディスカッションで他の学生達をなぎ倒し,前へ前へと進んでいかなくちゃいけないんだろうな...(偏見?)ああ...自分専用「ポジティブ・クリニック」が欲しい.せめて感情制御装置だけでも...(早くもK先生が貸してくれた業田良家に影響されている...笑)

映画"Fight Club"の中で,ブラッド・ピット扮するタイラーはこう言う.「小さい頃はテレビの中にヒーローが存在していた.それを見ながら僕らはきっと大きくなったら『何者』かになるんだって信じていたんだ.でも大きくなってみて分かる.僕らは結局『何者』にもなれないんだってことが.」
でも問題は「何者」かになれないことにあるんじゃない.それよりもむしろ「何者」にもなれないことはもはや明確なのに,外からは「何者」になること,「何者」かであることを要求され,「何者」かになることによって,あるいはそれを演じることによってしか社会の中で位置を得ることができないという点に,真の苦しみが宿るんだと思う.
例えば「私は社会の為になっているんだろうか」とか「この巨大な歴史の内に,確かに存在しているんだろうか」とかいう思考の内には,「何者」かになることによって自己実現が可能となる,と同時に「何者」にもなれなければとたんに自己の存在が不確かなものとなっていくことが示されている.でもじゃあどうやって自己の存在の意味とかを確かめうるかといえば,それはやっぱり「あれは僕が設計したビルだ」とか「このヒット商品は私が企画したんだ」とか「俺の名前を出せば(っていうか会社の名前)この忘年会シーズンにも飲み屋でササッとテーブルが空くぜ」とか...はたまた「私,ちゃんと適齢期すぎる前に結婚もしたし,旦那は名の知れた建築会社で将来有望だし,子供もちゃんと教育してるし」...とか結局そんな部分でだったりするわけで,しかもそれを「結局そんなもんか...」とか自分でも思っちゃったりするもんだから突然巨大な虚無感に押しつぶされそうになってしまったりするんだ.
でもだからといって,そういう外面的な...というか外から与えられるような自己規定を巧みにかわしつつ,「何者」にもならずに...っていうのはつまり「何者」かとしての自己を演じることなく生きていこうとすれば,世間はとたんに凶暴なものとなって自分に向かってくることになる.それはつまり,この社会における成功も自己実現も,その結果えられる幸せや未来への可能性みたいなものもすべて,この社会の中の一要素として,その絶えまない成長を支える部分として自己を作り上げて行くことによってしか得られないようになっていて,それ以外の生き方,生の形式というものはあり得ないような状態になっているということを意味している.そこからはずれてしまえば,「私」は単なる「脱落者」とか「役立たず」とか「怠け者」「無責任」「弱者」「非社会的」「努力が足りない」等等...(すべて一度は言われたことのあるセリフだったりして...笑)ってことになって,そこにはもはや当たり前の幸せも夢も希望もなくなってしまう...かのように思わされてしまうことになる.この社会の中で,どうやって自分の生のあり方を構築して行くことができるのだろう.それはいわゆる画一的に押し付けられる社会的「自己」規定の枠にあてはまることによってではもちろんない.
...長くなってきたので続きはまた明日...

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12月の終わりに書いて中途半端なままになっていた文章の続きというか補足をしておきたい.
自己の存在の意味とかを確かめうる手段として「あれは僕が設計したビルだ」とか「私,ちゃんと適齢期すぎる前に結婚もしたし,旦那は名の知れた建築会社で将来有望だし,子供もちゃんと教育してるし」...なんていう凝り固まった路線しかないということ自体が問題ではないんだと思うし,そういう部分で自己実現を行うこと自体を否定する気も全くない.ただ私が重要だと感じるのはそうした枠組みから外れてしまった場合,あるいは始めからそこではやっていけないということを実感した人々が,「何者」にもならずして生きていこうとする時に直面する困難さの問題なのである.「何者」かになるという時の「何者」規定は,本来人それぞれに違うものであり,多種多様な自己実現の可能性が含まれているはずのものである.しかし実際自己の存在を確認する場合には他者からの視線(他者との関係)が必要となる.問題はこの他者との関係において,人々は相互の実践的な交わりを通して各々を作り替えていくという創造的過程に至らず,しばしば他者の視線(それは同時にその他者が組み込まれているより大きな社会のまなざしでもある)を自己のうちに内在化し,それを自己のあるべき姿として演じはじめるという点にある.重要なのはそこで自分がある社会的に規定された自己像を演じているだけだと認識するかどうかなんていう点にあるのではない.演じていようがいまいがそれが自己のあり方とズレを生じない限り,人々は幸せや生きがいを見い出すことができる.しかし時にこの外から規定されると同時に自分が辿ってきた自己のあり方と自己が求める(すいません.適切な言葉がみあたらない...)生のあり方とがどうしようもなくズレる瞬間というのがある.そうした瞬間を幾度となく経験しつつ,なおかつ生きていこうとする時,ある画一的な枠組みでもってしか自己の存在の意味とか幸福を呈示できない社会は巨大な暴力的組織として襲いかかってくることになる. 

こういうのはどうだろう.
「何者かになる」という時,この「なる(become)」という言葉のうちには,自分を構成する様々な要素を結合してある完結されたなにかを提示するという意味が含まれている.しかしそれは同時にある一つの全体的「私」像を形成するために,不必要とされるような部分を捨て去ることでもある.何者かとして自己を成立させる際には,必然的にそこからこぼれ落ちるものがでてくる.そして自分がかつて無駄なもの,不必要ながらくたとして捨て去ったもの,背を向けてきてものが,やがて自己に対して迫ってくるのだ.それに対し,いわゆる無駄なものをすべて抱え込んだまま,そういったもろもろの物を自己を構成する部分として,そういうものと共に(with)あるという形で自己を構成していくことはできないだろうか.
これは別に新しいアイデアでもなんでもなく,障碍を持つ人々やホモセクシュアルの人々が社会に対して行ってきた様々な実践の中において広く見られる考え方であるし,ハンセン病国賠訴訟のような人権に関する裁判の過程においても垣間見られるものである.例えば障碍者の人々は障碍を不健康・非生産的要素として切り捨てる健常者社会に対し,障碍と共に生きることの自由を問いかける.ホモセクシュアルの人々は,「人並みに結婚して子供を作り,家庭を持って幸せになる」というヘテロ的幸福な家庭像や社会像に対し,異なるセクシュアリティのあり方を問いかける.ハンセン病の国賠訴訟において問われていることは,ハンセン病者に対する国の責任問題という枠を越え,ハンセン病者が隔離された環境において病と共に生きてきた日々,日常の営みをいかにして一つの生のあり方として結実させることができるか...という問いをも含む.それはいずれも社会的に規定された「何者」かに「なる」ことに対する多様な生のあり方の可能性を提示するものである. 

『揺らぐジェンダー/セクシュアリティ』

図書館でやっていた『揺らぐジェンダー/セクシュアリティ』という企画を見に行って,最後の日の一番最後のビデオ作品だけなんとか見ることが出来ました.テレクラもので,個人的にはすごく興味があったんです.映像,音響共にコレデモカ!ってぐらいのロー質で,あまりの見にくさ聞き取りにくさに退いちゃった人も多いのでは...と思ったりもするのですが,でも個人的には結構衝撃を受ける所がありました.
話としては33才,亭主子持ちの主人公(監督さん)が,でもなぜか若い男の子(ちなみに25才まで)に対する執着というか憧れと言うか...を捨てることができず,若い男の子を求めてテレクラにのめり込み,どうしても止められないっていう状況になっていく...というかそうなっちゃった人の日常.一応ね脚本とかもあって,作ってはあるみたいなんですね,でもなんかどうしようもなくのらりくらりとした毎日を生きているこの主婦が,偶然知り合った若い男の子を脱がしベッドに連れ込もうとする,その時のその瞬間の力を垣間見てしまうと,もう画質や音質の悪さなんてどうでもよくなる.あの力はいったいなんなんだ...ってことで頭がいっぱいになっちゃう.本当にすごいんですって,その真剣さというか切実さというか...それが自分の生を支える最後の砦...とでも言わんばかりの凄み.そりゃあ男の子もやられちゃいます.なんで亭主がいて子供がいて決まった時間に仕事とかに出かけて学校行事にも参加する主婦が,金銭的にも肉体的にも物理的にはいかなる生死の危険性にも直面していないような人が,こんなに追い詰められてテレクラにおける性という領域においてしか自己の生を認識できない,生きている実感を得られない,生きて行けないっていう状況になるんだろう.でもそれはある意味とてもよく分かったりもするわけで...多分日常のありふれた生活には,そこにおいて「私」の生っていうものが確立されることを妨げるような要素が含まれているんだと思う.そこで私は「○○さんの奥さん」であり「○○ちゃんのお母さん」でしかありえない,と.で,それは私が思う「私」とはどこかずれている.結局私は家庭において,学校において,職場においてさえもある記号(他者がそうであると思う所の私)としてしか存在しえないのだと.で,それに対して,本来の自分であり得るような場所を,自分を縛り付けるあらゆる属性から離れて存在できるような場所を求めてテレクラやそこを通じての見知らぬ新しい他者との出会いを求めるのだと.さらに性的行為というのはより本来的な作り物でない自己になれる瞬間っていうような感覚もそこにはあるのかもしれない.それが本当にそうかどうかは別として.
ついでにいうと,この主人公の置かれた状況の切なさが最も強く表れているのは,この作品に寄せられた監督自身のメッセージ(今回上映された作品にはすべて監督からのコメントがつけられていたのですが,彼女のコメントが個人的には最も好感持てました.)の中においてだと感じました.もし世界が全部テレクラになってしまったら自分は社会とのつながりをすべて失うことになって,多分そこにあるのは死だろう...といった内容のことがそこには書いてあります.そして彼女がこの作品を撮ることによって辿り着いた答えは,今の自分は自分を何らかの形に規定してくるような日常にもはまりきれず,かといってテレクラの世界に完全にはまることもできず,結局日常に縛られたまま,そこから常に逃れようとする自己を認めつつ,そこにしか生き延びる道はないと思ったりしながら死なない程度に生きていくっ...という所だったりするわけです.
いやでも本当にそれしかもうないんだと思う.でも大事なのはそこであきらめてぼんやりと生き続けるんじゃなくて,いかにそれを肯定的に見つめていくかっていう点なんだと思う.そうじゃないと人生はあまりにも切なすぎる...って気がしませんか.

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レスポンス
テレクラへのめり込む時の衝動の内には,現実からの逃避(ここでいう現実とはもちろんそこにおいて生きていく可能性をもはや見い出すことができないような安全で安定していて真っ平らな世界みたいなもの)という願望が含まれているだろう.
しかしここで限り無く重要なのは,そこで最後の脱出口を求めテレクラにはまっていく人々が,この脱出口は虚偽にすぎないということを自覚してしまっている点であろう.

だから例えば主婦がテレクラにのめり込む最も根本的原因は「日常世界において生きていく可能性を彼女が失っている」ということよりもむしろ可能性そのものの虚偽性が彼女に対してどうしようもないほどに明らかになる...といった方がよいのかもしれない.
可能性とは常にあるかもしれない未来やそこにおける自己の形式として垣間見えるようなものであり,そこに辿り着く道は存在しているかもしれないけれども,可能性そのものは常に遠くはかない.
それは手に入れたとたんもはや可能性ではなく自分の生活の一部となって安全で安定した生活の内へと組み込まれ慣れ親しんだものとして消費されてしまうだろう.
結局現状から逃れようとする人々は,必然的に可能性の設定→消滅(消費)→新たな可能性の設定という終わりのないサイクルに取り込まれていく.そしてそこで明らかになるのは可能性などというものは結局のところ虚構にすぎないという絶望にも似た確信であろう.

結局テレクラにはまる主婦も鬱病に押しつぶされていく人々も,可能性の空間がすでに失われているという点においては同じなのである.ホテルで一時的な快楽に溺れる(ふり)をしてみるのも部屋の中で一人不安発作と格闘するのも苦しみの質としては多分同じなのだ.

それでは,虚偽的脱出口でしかないという絶望感を胸に電話に手をのばし続ける人々,あるいは鬱病ですという診断を受けて薬をのみ続ける人々,一度でもそんな状態を体験してしまった人々にとって,再び日常と向かい合って生きていく可能性は開かれているのだろうか?
それともそんなのは所詮無理な話なのだろうか...
私が今の段階で考えうる希望なんてものはほんのちっぽけなものなんだけども,多分次の点にある.つまり例え一時的にしか見い出すことができないとしても,可能性の領域あるいはその虚偽性といったものは,終わりのない現実から一歩抜け出そうとする衝動によってはじめて見えてくるものであるという点である.
そしてそこから闇へと落ち込んでいく人もそりゃあ沢山いるんだけど...でもやっぱりそこからしか始まらないっていうのもあるんだと思う,絶対.
これってK先生の言っていることと同じか.

でもやっぱり...単に現状肯定的に日々を(死んだように)生きるか,もしくは本質的には虚偽としての可能性の領域を設定することで,闇に陥る危険性を常に抱えたまま,なおかつ現実から一歩抜け出そうとするか...この二つの選択しかないんだとすれば人生ってやっぱ辛いものなのかも. 

"gummo",directed by harmony collin

 舞台はアメリカ合衆国のとある田舎町(正確にはオハイオ州のジーニア)である. 
 ここはかつて実際に竜巻きの被害にあった町であり,映画はその時の様子を写したホームビデオの映像から始まる.隣のおじさんが屋根のアンテナに刺さっていた...なんていうナレーションが入る.この閉ざされた田舎町に暮らすのは,そこ以外にどこにも行き場がなく,またそこを離れては生きていけないような一見普通のおかしな人々.子供達は常に欲求不満で自分のありあまるパワーを何に向ければよいのか,その対象も見出せないまま悶々とした日々を送っている.もちろん憧れは(ハード・)ロックスターかスポーツ選手.彼らはエアガン片手に町を徘徊し,猫を発見しては撃ちまくってなぶり殺しにし,その肉を町のレストランの裏口で店主に売り渡しては小遣いを稼いでいる.その金で手に入れるのは安くてトべるシンナーとセックス.ある時はシンナー片手にお先真っ暗な自分の未来を呪いながら時間を潰し,またある時はポケットに金を忍ばせて知的障害のある女性の住む家に出かけセックスしたりする.彼らからお金を取って彼女を与えるのは,その彼女の父親である.家に帰れば過去に囚われ,自分達の果たされなかった夢,というよりも自分が否応なく押し込められてしまった今の状況に抑圧的な形で彼らをとどめようとする母親達が待っていて,どこからわいてくるのかも定かではない愛情と呼ばれる一種の感情を彼らに対して見せつける.父親はいない.
 いっつもウサギの耳をつけている男の子はやせっぽっちで言葉を発せず,高速道路の高架からもうスピードで素通りしていく車に向かって力なく唾を垂らし続ける.女の子達はアイドルとの恋物語に憧れながら,形のイイ胸の作り方なんかにとりあえず没頭できるふりをする.
 ここで登場する人々は,みんな今ある状況でない状況を夢見ながらそんなものはしかし決して存在しないこともまた知り尽くしているかのように,行き場のない状況を受け入れそこに留まり続ける.徹底した無気力と深い絶望感,それらは時折衝動的な破壊欲求へと姿を変える.生きることの夢も希望も,その必然性さえも見えない世界である.しかしこうした世界がある作られたリアリティを持って我々の目の前に現れてくるのはなぜなのだろう.それは都会のサクセスストーリーにはない,だが同様に都市を徘徊するストリートチルドレンのドラッグとセックスとガンに象徴されるような退廃感とも決定的に異なる何かなのだ.それを何と呼べばよいのか,それはいったい何なのか...
 少なくともここにあるリアリティとは,単に近代の夢はもう破たんしているといった単純なものではなく,夢も希望もない世代に対するアイロニカルなシンパシーから起こるものでもない.ここにあるのは...ここにあるのはもしかしたら,現在の状況から解放された自己を夢見ることが可能だったかもしれない時がすぎ,今ここにある様々な物事に規定されると同時にそのことによってこそその存在が,破壊された形での自己を把握することができるという,絶望的ながらもある断片的な自己認識の可能性...なのかもしれない. 

What's Eating Gilbert Grape, directed by Lasse Hallstrm

 主人公ギルバートは,アメリカ合衆国の田舎町に家族と一緒に住んでいる.父親はかなり前に何の前触れもなく自殺し,母親は以来家から出ようとせず,精神的疲労で歩くことさえままならないくらいに太ってしまった.弟は知的障害を持っていて目がはなせず,彼は実質上一家の主人であった.そんな彼は町に一件のスーパーで働きながら,幼馴染みの友人達といつものカフェで雑談したりスーパーのおとくいさんと不倫したりしながらごくごく普通に生きている.すべては小さな町の中の閉ざされた世界の中の出来事で,彼は自分はどこにも行けないことをすでに知ってしまっていて,その閉ざされた世界の外に憧れながら,自分の日常を生きている.一方で彼は,自分がどこにも行けないことの理由を家族といった彼を縛るものに求めているのだが,もう一方ではしかしこの閉ざされた世界以外に自分が存在できる場があるとも思えずにいるのである.
 そんな閉ざされた彼の日常に外部からの侵入者(キャンピング・カーで生活しながらアメリカ中を旅してまわっている女の子とそのおばさん)がやってきて事態は一変する.彼女は彼にとって自分が縛られている様々な物事から解放された正に自由の象徴的存在であり,また自分を自由にしてくれるかもしれない救世主である.同じ時期,町にも様々な変化が起こる.大手のスーパーが建設され,ハンバーガーのチェーン店が出店し(こういったものは全部町の近代化を象徴するもの),幼馴染みはサクセス・ストーリーを夢見てハンバーガー店の販売員になったりする.かつて彼に対して「あなたは絶対に町から出ていかないから(不倫の相手に)選んだのよ」ってなことを言って彼をどうしようもなく絶望的な気持ちにさせた不倫相手も夫の死によって閉ざされた田舎町を去っていく.
 やがて彼の母親が死に,彼をその場にとどめようとする状況がすべて消え去った時,彼は鞄一つをもって弟の手をとり,解放の女神と自由の象徴であるキャンピング・カーに飛び乗って閉ざされた世界を脱出するのである.ある意味一昔前のロード・ムービー的展開である.
 しかし重要なのはこの"脱出"が映画のエンディングになっているという点かもしれない.
 多分彼は,定住することのない旅の連続に疲れ果て,一時は自由の女神であった恋人との関係も崩れ,どこか都会で定住しアパートを借りて定職につき(販売員かもしれない),弟と一緒に生活していくことになるのだろう...そんなことを想像してしまうエンディングである(勝手すぎる憶測?).多分そんな未来しかないことは簡単に予想でき,しかもそうであるがゆえに映画はそれ以前の段階で終わりを迎えるのだが(それ以降の展開は映画となるにはあまりにリアルなのである),と,すればこれはこれまでのロードムービーではなく,新しい要素を含んだものであるとも考えられる.それはつまり今ここにある状況からの脱出は,今だにある可能性を内包した自発的行為ではあるのだが,その後に辿り着くべき場所を示すことはもはや不可能であるという点においてである.ギルバートを閉ざされた世界に縛るものは,家族であり家族という神話であり,田舎町での閉ざされた人間関係であり,彼がそれを義務と感じるところの様々な既存の慣習や制度である.それは実際の所,この閉ざされた世界の外部にも同じようにはりめぐらされており,一時期の快楽や快楽的現象によって紛らわせるすることはできるかもしれないけれども,決してそこから完全に解放されることは不可能なものである.結局新しい世界も安住の地も存在はしない.しかし常に今ある状況から脱出し続けることぐらいはできるのかもしれない.そしてそのことによって自らを今ある状況にとどめようとする様々な力作用の存在をしることぐらいは可能性として残されているのかもしれない...
 こういう映画を見ながら最大限ポジティブに考えようとすれば...多分そういう所に行き着くだろう. 

Crazy English

今日はアジア映画祭でクロージング・フィルムとして上映された『Crazy English』を見てきました.すごく見たかったドキュメンタリーです.
主人公は中国のサNセスフルなビジネスマン.彼は自身の英語マスター法を中国全土に広める為,あっちこっちで膨大な量の講演活動を行っている人で,もちろん出版とかの分野でも大活躍の人.監督さん自身もこの映画を撮りはじめるまで本当には知らなかったらしいのですが,彼のカリスマ性は本当に強大で,講演はいつも大入り満員.彼の一挙一動が聴衆を動かしていくんです.私の中ではなんとなく小林よしのりとイメージ的に重なる部分が多かったんだけど...(笑)
彼の話す内容って,ある意味成功したビジネスマンによくあるタイプのことで...世界の力のある実業家のセリフを取り入れたり,劣等生だった過去から這い上がって成功を掴むまでの苦労話をしてみたり...「あ〜あ,成り金ビジネスマンがよくいいそうなことだよ」って感じなのですが,それをそうやって簡単に流せない力と危なさがこの映画の中には漂っているんですね.映画みながら,思わず私も彼に影響されそうになったもん...(笑).いや,笑い事じゃなくて本当に.だってかっこいいし...力に満ちあふれていて...ああ...ついていきます...って感じ.
彼のいう事って,現代的ナショナリズムの典型的なパターン(過去の全体主義的ナショナリズムが,自国の民族性とか文化を守る為にそれ以外のものを徹底的に排除しようとしたのに対して,自国の経済的・政治的弱さを認識し,英語という外国語を利用しながら中国人としての誇りと愛国心を高め,中華民族一体となって世界進出を目指そう!っていう意味で...)だと思うんだけど,それがあまりにもそのまんま分かりやすい形で映像となってバーンと見せられて,しかもそれに熱狂する人々の姿とかも同時にガーンって見せられちゃうと,これはもうなんていうか...
そうとう異常です.本当に本当に不思議な感覚に陥りました.いや,これで中国やばいとかね,そういうことじゃ全然なくて.これって実際いろんな所でいろんなレベルで起こっていることであって,でもその渦中にいると,そういう不思議な状況が当たり前でしかなくなるというか...全然変なものとして見えてこないんだ,っていう危うさがね.そんなことを強烈に感じました. 

ヴェンダース ナイト

おとといの夜,ヴィム・ヴェンダースを3本見ました.『パリ,テキサス』『都会のアリス』『アメリカの友人』です.
3本続けてみてみて,彼が撮ろうとするもの,というか彼に映画を撮らせる衝動みたいなものはずっと一貫しているんだなあ...ってことをしみじみと感じました.
やっぱり根底にあるのは自己の存在の不確かさみたいな問題で,彼の映画に出てくる人たちってみんなある意味他者との関係を取り結べない人たちばかりなんだと思う.
『パリ,テキサス』でトラヴィスにしろジェーンにしろ...自分のことを語る時には絶対に相手のことを見ないっていうのは,その事をすごく端的に表現している気がします.彼等にとって語りかける対象は,彼等の目の前にある絶対的な他者としての誰かではなく,常に自分の中に,自分のイメージの中に回収された誰かでしかないわけです.『都会のアリス』で映画に出てくる人たちの会話が全然かみ合っていないのも,みんながみんなちゃんと会話の対象としての他者と向き合っていないからで...
そうなってしまうのは,絶対的な自己があるからではなてむしろ反対で,つまり自己の存在があまりに曖昧で,そうであるがゆえに自己を映し出してくれる他者や自分をつなぎ止めてくれるルーツみたいなものが必要になるんだけど,そんなもの実際には存在しないし,「これがそうなのか?」と思った瞬間に自己を徹底的に破壊されちゃったりもするわけで...そんなこんなで『アメリカの友人』になると,アメリカからやってきた不可解な人物によって自分のあり方みたいなものが思いもかけない方向へとどんどん変えられていっちゃうようになるわけです.
主体のあり方とか,自己を確立する自由とか...そういうものの危うさみたいなものをかいま見せてくれる映像たちでした. 

ファザーレス

ファザーレス/1998/日本/78min./VTRカラー/茂野良弥

今日は大学で『ファザーレス』を見た.これで2回目です.1度目と比べるとちょっと違った見方の可能性とかが個人的に見えてきて,ちょっとした発見でした.
まあ,ラストについてなんですけどね.やっぱりあのラストはちょっとひっかかります.
「僕のファザーレスは終わった...」っておい!終わっていいのか!それで!!って感じで...
あのラストは自己のあり方を不完全なものとする不在としての父親像を,義理の父との関係回復を通じて再び獲得する...というふうにしか見えないっていうのも確かにあるんだけど...でもやっぱりそれだとおもしろくなくて...っていうかもっと違う見方の可能性もあるかな,と思うわけで...
やっぱり個人的には,映画の最後で宣言される「ファザーレスの終焉」は,単に自分に欠けていたものを何かによって埋め合わすことができた...という意味での終焉ではなく,もはや「ファザー」や「家族」...なんでもいいんだけど,とにかくそういうものが,自己を形成する要素,それを獲得することによって自己のアイデンティティとか社会性とか...そういったものが保証される要素ではなくなったのだ,と.そういう意味での「ファザーレスの終焉」であると考えたい気持ちです.映画のラストに示されるのは,家族との和解ではなくむしろ決別であって,そういったものとの絶対的な断絶を抱えたまま生きていく決意なのだと... 
う〜ん...モダンだ...

The Devil's Island

昨日はアジア映画祭に行こうとしたら休みの日で...なんとなく家でフレドリック・トール・フレドリクソンの『The Devil's Island』を見た.これまた救いようのない映画だった...
この人はアイスランド出身の人で,自分の生まれ育った場所をテーマにずっと撮り続けてきている人で,私はなぜか結構すきなんです.ストーリー自体はそんなにいいと思えないものもあるんだけど,やっぱり撮る対象(景色とか人々とか)がすごくいいし,あとやっぱりアイスランドについて撮る事についての切実な思いを感じるから.
彼の場合に問題なのは,やっぱり近代化とかの波に揉まれて失われていく故郷の存在なんですね.若者はみんなイギリスとかアメリカに行っちゃって,自分の生まれた場所はもうすでにはるか遠く瓦礫の中で,誰一人住んでいないような島になってしまう.発展とか進歩とか,そしてそれに憧れて取り込まれていく人々...でもそういう一連の大きな流れによって壊されていくものたち...
それは『missing angel(封題:春にして君を想う)』においては故里の島であり,『The Devil's Island(封題:精霊の島)』においてはバラック地区やそこに住む人々の心であったりするわけです.彼が撮る場所は,近代社会の廃棄物が集積された波止場とか,誰もいなくなった島,都市の中の貧困住宅地,ただどこまでも続くアイスランドの大地etc...とにかく近代的創造の裏側とかそこで失われていく何かばかりなんですね.そういうものを撮らざるを得ない状況みたいなものが,すごくすごく響いてくる所があって...
特に『春にして君を想う』のラストは何度見ても泣いてしまう...切ない映画です. 

赫い情事

赫い情事/1996.01.12/日本/65min./カラー ワイド/瀬々敬久

今日『赫い情事』を見た.ピンク四天王として有名な瀬々さんの作品です.
ずっと昔,深夜番組でピンク四天王特集みたいなのを偶然見て,それ以来ずっと気になっていたんだけど今まで見る機会がありませんでした.というわけでとても嬉しいです.
んで...感想としては...う〜ん...サビれてる...映画の中にでてくる人も彼/女等の暮ら部屋も...なんか日常のすべての光景がなんともいえず寂れ...錆びれ...う〜ん...サビれているんですね.このサビれ具合にははまります.多分自分の中のどうしようもなさみたいな部分をすごく突いてくるんだと思います.見た後に,どうしようもない倦怠感というか...なにか持て余し気味な感覚を抱えたまま夜の街を放浪したくなる映画です.ストーリーはシンプルなのですが,やっぱり全体に漂うサビれ感とラストに向けてぐわーっと高まっていくテンションに圧倒されます. 

Don't forget you're going to die

Don't forget you're going to die/1995/France/118min./colour/Xavier Beauvois

美しい一瞬つながりでもう一つ...
私がこれまで見た映画の中ですごく強烈に心に残っているものの一つにXavier Beauvoisの『Don't forget you're going to die』というのがあります.
これはたしか96年ぐらいのもので,監督さんはフランス人の若手の人だったはず.
もうタイトルからしてやるせないですけどね...ふふふ...
主人公は美術史を学ぶ男性で,彼は勉強を続けたくて兵役を避けようとあの手この手を使うんだけど,結局逃れられなくて一旦は兵役につくんです.でもある日突然解雇になる.なんでかと思ったらHIVポジティブだったということが分かる.そうしたらもう勉強どころじゃなくなって...どうせ自分は死ぬんだっていう思いにとらわれてドラッグの密輸とかに手を染めたりして,とにかく退廃的な日常へと陥っていくわけです.でもそんな日々も長くは続かず...やがてすべてのものから逃れたくて一人イタリアへと向かい,自らが憧れと情熱をもって学んできた中世の美術,特に田舎町の教会の壁画を巡る旅へ出る,と...その途中ある女性と出会い,つかの間の幸せで穏やかな一瞬を垣間見る... 
そのまま幸せの中に留まることもできるのだけれども...彼は結局そんな幸せの存在に溺れることもできず,それを信じることもできず...自らにまとわりつく死の存在から逃れることもできないままにに一人列車に乗り,かつてあれほどまでに逃れようとしていた戦場へと自ら向かい,最前線に立って相手の砲弾の的になって死んでいくんです.
結局それしか選べなかった...というか死の存在しかもはや自らの生にとってリアリティを持たなくなってしまった男性の話...とも取れるかもしれません.
結局そこにしか行き着くことのできない切なさが,一瞬の美しい日々の思い出によってより強烈に浮かび上がってくるわけです. 

El sur

El sur/1982/Spain, France/92min./colour/Victor Erice

九大で映画を見た.エリセの『エル・スール』と中国映画.『エル・スール』見たことなかったので,とても楽しみでした.
エリセの作品に共通しているのは,ある一瞬の美しさとある種の救いようのなさ...というかのがれようのなさ...みたいなものかなあ...
そう.最近この「一瞬の美しさ」を持った映画にすごく惹かれるんです.
「エル・スール」はスペイン内戦の過去を抱えたまま北へと移り住んできた家族の物語で,家族の...特に父親の存在というものが娘の視線によって描かれています.
父親にとってのエル・スール(南)とは自らが生まれ育った故里であり,内戦時に別れ恋人のいる場所であり...つまり自分の失った部分なわけです.ある種の空白を抱えたまま北で家族とともに生きる彼を見つめながら娘は,自分の父親が抱える大きな空白を父親の不在性として感じ,父にとってのエル・スールを,自らにとっての父親(像)がここではなくそこにおいて完結されるようなある遠い世界としてイメージするようになっていくわけです.映画の中には実在のエル・スールは登場せず,そこからの訪問者や手紙がかろうじてその存在をイメージさせ,またその遠い場所と人々とのつながりを強烈に示すことになります.
この映画は娘の視点から描かれていますが,最も重要な位置を占めているのはあくまでも父親である...という風に私は感じました(ファザコンだからね).彼が南と北という二つの世界を自らの内に抱えつつ日々を生き...つねに大きな空白(北で生きる時には南が空白となり,南に行けば北が空白として自分の心を支配していく...という意味で)を抱えながら,結局その空白を埋めることのできないまま最後は北の地で死を選択するラストは強烈な切なさを持って迫ってきます.そんな彼にももちろん人生の中の美しい一瞬というものがあって,それが娘の聖体拝受の日の美しさやその後のパーティであったりするわけです.その日常に降ってわいたかのような美しい一時は,彼にもしかしたら自分はまだここでこうして家族と共に生きていくことができるかもしれない...という希望を与えてくれるわけですが,結局は南の不在が自分の心の内で大きくなっていくことを止めることができず...自分を救ってくれるかもしれないと思ったあの日の出来事すら,自らの生を支えるには何の力も持ちえないのだという圧倒的な虚無感に出会い...そうして死しか選択しえない状況へと導かれて(追い込まれてではないんですね)いくわけです.
つまり...そう...『エル・スール』ってそういう映画です.

獣たちの性宴 イクときいっしょ

獣たちの性宴 イクときいっしょ/1995.10.13/日本/63min./カラー ワイド/今岡信治

今日『獣たちの性宴 イクときいっしょ』(原題:彗星まち)を見た.
始まる前の早川義雄の歌声(っていうかつぶやき)が淡々と流れる場の雰囲気にアングラ感をそそられました.
そんでもってこの映画.なんかすごくよかったなあ...
いろんな所で書いているけど,本当にすごく切ない...っていう言葉がぴったりな作品でした.
登場人物の状況とかがもうバシバシ...じゃないなあ...ズキズキかな...染み渡ってくるの自分の中に.本当にそんな感じ.
カメラの動きとか全体的な色もすごくすきだったし.最後の方で岬の上の方でガソリンかぶって燃えてるシーンとか...なんかちょっと『気狂いピエロ』のラストと重なったりしました.
多分,この映画にある切なさの所以っていうのは,あれだな全体的な倦怠感とか閉息感とか救いのなさ感みたいなものがあって,でもそんなどうしようもない状況なんだけどそんな毎日の中にも,刹那的ではあるにしろもしかしてまだ大丈夫なんじゃないかっていう気持ちにさせてくれる美しい瞬間があるっていう,その美しい瞬間(川に飛び込んでみんなで戯れあうシーン)の存在にあるんだろうなあ...だってあのシーンは本当に本当に美しいんです.私,泣きそうになりました.このどうしようもない日々に湧いて出たような美しい一瞬の話は,今岡さん自身の文章の中にも出てきます.
でも...やっぱり絶望的...っていうか最後に残るのはどうしようもないやるせなさ.なんですね...彗星をよぶためのおまじないを絶叫する声だけが残るラストは,本当に泣きます...あ〜...切ない...
でも本当にいつまでもどこかにゴロッて残っているんですよね.この映画からくるある感覚が...それがとてつもなく気になるのです. 

 
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