ビデオの可能性について

先日,九大で上映会をやったときにE君が見せてくれたETV特集(確か私的ビデオの可能性とかそういう話し)に出ていたフィリピンの映像作家タヒミックの姿が忘れられない.この人はすごい人です.
いや,久々にすっごい感激しました.昨年最も印象に残ったのが今岡信治とすれば今年はタヒミックです(笑).
彼がね,言うんですよ「これまで虐げられてきた(というか語る権利を持たされずにきた)人々がビデオをいう機械(機会でもある)を通じて自らの言葉で語りはじめるんだ」って.彼はフィリピンの少数民族の村にカメラを配って,その使い方を住民に教えていくっていうようなことをずっと行っている人なんですね.彼自身ももちろん撮るわけですが.そうやってこれまで語る手段を持たなかったような人々がビデオを手に私的な言葉で自らの生を語りはじめるところに可能性を見い出そうってわけです.それ自体はすごく意味のあることなんだけど,やっぱりこういうやり方っていうのは常にある種の問題を孕んでいるんじゃないかという気もします.
例えばそういう人々の言葉や記憶っていうのを,国家的な大きな歴史とか記憶の創造みたいな問題と同レベルで語ってはいけないのだと思うのです.少数民族でもいいし,同性愛者でもいい,監獄の囚人でもいいんだけど,とくかくこうした社会的マイノリティの人々に語らせよう!っていう動きの背後には,そこに真実の歴史が,物語りがあるんだ.国家というのは,あるいはこういうマージナルな領域に支えられた近代的社会というものは,その全体的かつ大きな枠組みを維持するために,こういうマイノリティの声(それこそがまさに真理を映し出しているようなもの)を排除し続けてきたのだっていう見方があるんじゃないかと思う.でもそういうマイノリティの言語の内に真理が宿るみたいな見方は,国家がその全体的な国民の記憶を形成するために行ってきたやり方と実は同じなんじゃないだろうか.あらゆる物語化,ある言説を真理として語るやり方は,すべてある種全体主義的なものへと行き着くことになるだろう.
だから多分重要なのは,始めからある意味負けを認めつつ次のように主張することなんだと思う.
私達が自らの手にビデオを持ち,自らの言語で自らの生を映しはじめたからといって,それは全体的なものとは関係ないのだ,と.とりあえずそこにはある大きな枠組みというものがあって,私達の生の形式みたいなものを上からガツンと規定してくるような力を持っている.で,自分があるいは社会的周辺に置かれた人々がビデオを手に自らを世界を映しはじめるということは,そこから新たな,本来のリアルな世界...というものを形成することにはならないのだと.でも,この何ら全体的かつ客観的な真実を生み出しえない,というかそういうものを肯定しないという点こそがビデオの重要な機能なんだといいたいわけですね.そうやって人々は,ビデオ片手に日常の断片を切り取り,継ぎはぎし続けるわけです.そこからは何ら全体的なものは形成しない.対抗社会みたいなもののビジョンをあたかも唯一無二の真理みたいな形では示さないわけです.でもその行為の内に,
というかその行為そのものが現状に対する辛らつな批判となると同時に,そういう枠組みの中で生きる自己の存在を指し示す,そして行為を通じて自己を変化させ続けるきっかけとして機能するようになる...かもしれないわけで,そういう時にこそビデオで撮るという行為が,そしてそこで切り取られた光景の断片が「大きな歴史,一つの世界,唯一の真理といった見せ掛けにして巨大な壁に楔を打ち立てる契機となる」のだと思うわけです.
相変わらず,なんかあまりクリアでない文章ですね...まあつぶやき
ですから...許して下さい. 

posted by f at 2001/02/15 1:47
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