猫とアンティーク

自分の年齢を漢字で書く機会があったのだけれど、変換キーを押した途端「二重苦」と一発変換されて複雑な気分に...微妙な年頃なだけにね。

おとといKのお父さんが急死されて、KとLはKの実家に急きょ向かうことに。留守にする間猫を預かってくれないか、と言われたので昨日KとLのアパートに寄って猫と猫のお泊まりセット一式を持ち帰る。自分で動物を飼うつもりは今の所ないのだけれど、ペットのいる生活というのもいいな、と思ったり。それにしてもただでさえ結婚式の準備ですっかりテンパっていたKとLなのに、結婚式を目前にしてKのお父さんが亡くなるなんて...悲しすぎる。いろいろ大変だと思うけど、時間をかけて乗り越えていってほしい。

そして先日学校からの帰り道、偶然見かけたガレージセールを覗いてみたら、PyrexとかFire Kingとかその他コレクタブルなディプレッション・グラスがわんさとあった。その家に住んでいるのは中国系の大家族で、近々フロリダに引っ越すために、家財の処分をしている所らしい。食器類の他にもいろんなアンティーク雑貨があって見ているだけでもおもしろかった。「誰がこんなに溜め込んだの?」と聞くと娘さんらしき人がすっごい嫌そうな顔で「おかーさん」というのも可愛らしかった。きっとこれまでにさんざん「おかーさん、こんなもの買ってきてどうするのヨ!」とかいうやりとりをしてきたんだろう...
結局段ボール4箱分ものコレクタブル食器を買ってしまった。だって私が買わなかったらそのままゴミ箱行きになったかもしれないし...と、言い訳してみたり。こうやって先の中国人のおかーさん2号ができあがっていくわけですね。

学校という場所

最近暖かいせいか、どこからともなく人がわらわらとわいてきています。
春だなぁと思う。

ところでステチーは典型的なドロップアウト野郎で、義務教育をあまりよく知らない(それを典型的というのかどうかは分からないケド)独学の人なのだけれど、そのせいか教科書っぽいものに訳の分からない憧れを抱いていたりして、最近も、"Let's Review: Sequential Mathematics"なんていう本を買ってきては一心不乱に問題を解いたりしている。知識を得ている感じが気持ちいいらしい。
別に義務教育を受けていなくても、その後大学には行ったんだし、大学では普通に授業受けていたんだから、それで義務教育についての憧れも満たされそうなものなのに、中・高教育を知らないせいで自分には何かが欠けているというような引け目をいくつになっても完全には払拭することができないでいるらしい。私は行かないですむなら行きたくなんてなかったけど、学校に行かずに家にいるのは辛すぎる(そして他に行く場所などないほどの田舎)というだけの理由で毎日学校に通っていただけなので、義務教育+αに対する良い想い出などほとんどなく、だからステチーが持っている教育に対する素直な憧れを逆にうらやましいと思ったりもしてしまう。それにステチーの学ぶことに対する積極性は、やっぱりどちらかといえば義務教育をドロップアウトしたからこそ身についたものだという気もする。

それにしても年をとると昔のことを懐かしく思ったり、小さかった頃に戻りたいと思ったりするという話を聞くけれど、私はどんなに論文が書けなかったり授業で失敗したりお金がなかったり辛かったりしても、小・中・高校生の頃に戻りたいという気持ちにだけはならない。大人から見れば子供の悩みなど取るに足らないことのように思われるのかもしれないけれど、私には子供の抱えているものの方がずっと深刻で重たくて真剣なもののように思えてしょうがない。子供であるというだけで降り掛かってくる不条理な命令であるとか時間に縛られた生活とか必要以上に知ることに対する抑圧とか。一見些細なことに見えるかもしれない出来事が子供に取っては世界を根底から覆されるような大事件だったり、自分の短い一生をかけた大問題だったりすることだってよくあることだ。今だったらちょっとぐらい大変なことがあっても、まぁいいや、とか、どうにかなるだろう、とか言いながら割と楽観的に構えたり、嫌なことは見ないふりしたり、優先順位をつけて切羽詰まっていないものはとりあえず保留にしたりすることができる。小さい頃はそんな器用なことはできないから、すべてが同じくらい重くて切羽詰まっていて辛かった。いろんなことが全部辛かった。別にそれが悪いことではないけれど、子供時代のことで単純に楽しかった想い出などまるでない。大変だったなぁという思いだけが残っている。くり返しになるけれど、それが悪いわけでは決してない。自分の子供時代を嘆くつもりもさらさらない。義務教育からドロップアウトした方が幸せだっただろうとも思わない。ただ、もしも今もう一度あの時代を、どこからでもいいからやり直せと言われたら多分すごく困ってしまうというだけだ。 

風邪とか

さっきまた階段室でエクササイズ亡霊を見た。今日は女の人だけで、なんだか心持ちやつれて寂しそうに見えた。

そして週末は極悪な風邪にやられてバタンキュー。
「え?え?それってやっぱり僕のせい?」と10日以上も続いた極悪風邪から完全復活したばかりのステチーが可愛らしくすり寄ってくるも、「お願いだから今度風邪ひいた時はビール飲んだりコーヒー飲んだり朝の5時まで仕事したりしてないで、大人しくひたすら寝て他人に風邪をうつす前に直すようにしてよね」と冷たく突き放してみる。そうしたらステチーは寂しそうに部屋を出ていって......と思ったら10分後ぐらいに薬各種を持って戻ってきた。お湯をわかして溶かして飲むタイプの薬とかを作ってくれてそれはそれは嬉しかったんだけど、でも「何か食べた方がいいよー」といいながら作ってくれる夕食は相変わらずピザとかだったり。喉がイガイガの時にピザはやめてー。
オフィスをシェアしているTAもここ一週間ぐらいの間にバタバタ風邪で倒れていて、みんなきつそう。
そういう時期なのだろうか。

金曜日のフランス語の試験は......微妙。
お題はル・モンドの記事だったんだけど、新聞記事訳すのって普通の論文訳すのとはちょっと違う技術が必要とされるんだよなぁ......というか、新聞記事が出るなんて聞いてないヨ! 一応毎日の訓練としてル・モンドのトップ記事ぐらいは読むようにしているのだけれど、試験前は哲学系の論文に的を絞って勉強していたのでちょっとがっくり。ま、次の機会にかけよう......

ダラダラした日々に過ぎていく時間

大学の学部時代のことを振り返る時、あまりに自分が何もしていないことに驚く。
私は基本的に働き者ではないし、何もしないでいて良いと言われれば、いくらでもただぼーっとしていられるタイプではあるのだけれど、それにしても大学の最初の三年間の空白ぶりはすごい。
今でこそアメリカに住んでいたり、それなりにあちこち旅行したりするようになったのだけれど、当時の私は長期の休みだからといって積極的に働くでもなく、旅行に行くでもなく、一週間に二日程度のアルバイトをする以外は、本当にただ、家でぼーっとしていた。家にいるとはいっても、凝った料理をするでもなく掃除洗濯に励むわけでもなく、極力何もしないで、時々本を読むくらいで、ひたすらダラダラしていた。あの頃のダラダラぶりは結構すごい。
基本的に、一人でどこでも出かけていくし、引っ越しとかもよくするので、周りからは積極的に行動するタイプと見られたりすることもあるのだけれど、自分では、私は同じ場所にずーっといるのが合っているんじゃないか、と思うことの方が多い。というよりは両極端なのだ。

両親の実家が遠方にあったこともあって、小さい頃から長距離の移動をすることや、住んでいる家を長期間空けたりすることはよくあったのだけれど、そういう時にはいつも、わくわくするというよりは不安で不安でしょうがなくなったものだ。自分がそこ(普段住んでいる場所)にいない間に、何かが変わってしまったらどうしよう、という思いがすごく強かった。夏休みが終わって戻ってくる時には、すべてが変わってしまったような気分で、そんな自分をコントロールするのが結構大変だった。その場所で起こることのすべてを、目で見て覚えておきたいという気持ちがあったのかもしれない。あるいは、自分の記憶にあるその場所と戻ってきた後の実際の場所とのギャップに過度に反応してしまうだけかもしれない。とにかく、自分がいない内にいろいろなものが変わっていくことがすごく辛かった。

学部自体の空白も、もしかしたらそんな思いを反映しているのかもしれない、と最近思う。
狭いアパートでぼーっとしながら、部屋に入り込む光の具合や、外を通り過ぎる車の音や、その他もろもろの変化をひとつも見逃したくない、という隠れた衝動があったのかもしれない。なんて、しょせん怠け者の言い訳ですが。
ただ、困ったことに、こういう傾向が極端になると、学校に行ったり仕事に行ったりすることすら苦痛に感じるようになる。どんなに短い時間であっても、その場所を離れることができなくなる。厄介だし、ちょっと病的かもしれない。
すべてを把握することや記憶することはできない。過ぎ行くものはどうしようもない。といったことを自分の中でちゃんと理解できた、というか、ふんぎりがついたのはここ五年ぐらいのことだと思う。ずっと閉ざされた場所で生きていくことは多分できないし、すべていつか手の届かない所に行ってしまう。それはすごく切ないことだけれど、でも、だからこそ今が特別なものとして立ち現れてくるのだろうし、未来に思いを馳せたりすることもできるのかもしれない。

正直いってどちらが良いのか、自分でまだよく分からない所があるし、もし一か所で目の前の変化だけを見つめながら生きていけるのであれば、その方が幸せなような気もするのだけれど、でも、まぁ、いろいろな意味でそれは無理だということは分かっているし、切なさの内で見える幸せというのもあるのだろうとは思う。というか、そうでなければやっていけない、ホント。

大人の世界

ここ一週間ほどの暖かさで舗道の雪はほぼ全部なくなってしまった。
この時期にしてはめずらしい。

最近は功利主義とかをがんがん読む一方で、気分転換にフーコーの"Dits et ecrits"(ecritsのeの上にはアクサン)などを眺める日々。いや、フーコーいいなぁ、やっぱり。
どうにかしてフーコー的な主体概念を環境倫理における議論に結び付けたいのだけれど...できそうでできない。やはり分析哲学と大陸哲学は水と油なのか。

昨日は図書館で過去数号分の環境倫理学関係の学会誌のコピーを。
たいがいのものは揃っているのだけれど、なぜか環境系の大御所、Environmental Valueだけはいつになっても購入してもらえない...なぜ?
そして大学のAsian and Asian American Studiesが大口のグラントを獲得した二年前にダメもとでお願いしてみた『現代思想』と『情況』は、買ってくれるという連絡が半年以上前にきたきり、一向に入荷されるそぶりがない。私が卒業するまでに入荷してくれるのだろうか。というか、私は卒業できるのだろうか。

ちなみにB大図書館にある日本語雑誌で唯一の娯楽系、文藝春秋に芥川賞を取った二作品が出ていたので読んでみた。おもしろかった。
金原ひとみはこれが処女作なのでなんとも評価のしようがない所があるけれど、そして村上龍っぽいとか言われる部分もなんとなく分かったけれど、でもテンポがよくて、ところどころ引き付けられるものもあってよかったと思う。
綿矢りさは、なんというか、ありふれた出来事をさらりと書いているようで、実はすっごい粘着系っていう所が魅力なのだと思うけれど、『蹴りたい背中』でもその粘着質な部分がちらちらと見えて、ニヤニヤしてしまった。よい意味で。

ただ二人とも、こういう言い方は嫌だけど、やっぱり若いせいか、自分が書けないものについてすごく紋切り型な表現をしたり、そういうものを意識的に避けていこうとしているような所があるのが気になった。ちなみにここで彼女たちが書けていないのは社会とか大人の領域みたいなもので、例えば綿矢はそういうものをできるだけ排除した、そこにたどり着く以前の、ある意味抑圧された高校生の世界みたいな部分に閉じこもろうとするし、金原は、そういうものがあるとは意識しつつも、あえてそれに背を向けるような形で、これまた限られた領域に閉じこもろうとする。
問題は閉ざされた世界に固執する点にあるのではなく、そのことによって、その外にある領域やそこで生きている人々のことをひどくずさんに扱ってしまう態度にある。彼女たちの小説には、いわゆる「大人」や「社会」を表象するものたちがそれなりに登場はするのだけれど(金原の場合は子供を連れた女性とか警察、綿矢の場合は母親や先生)、それらの描かれ方は極めて表面的で、それぞれの人物に与えられる役割も極めて限られている。だけど、本当はそういう「大人」たちにも、彼女たちの小説のメインキャラクターが感じているようなきめ細かな感情の起伏や、多面的な要素や、世界に対する漠然とした疑問といったものがあるはずなのであって、そういうものを見ないふりして描かれた世界というのは、深味にかける上にどこかいいとこ取りな気がしてしまう。

一見何の特徴もない、世俗的な人間を描く時にこそ、ステレオタイプに走らないよう最新の注意を払うべきなのに。そしてそういう人間の姿を詳細に描いていくことの内から、思いもかけないような世界の広がりみたいなものが見えてきたりするものなのに。
なんてことを考えてしまうのも、私自身がすでに、どちらかといえば「社会」の側にいて、彼女たちの描く世界から離れてしまっているせいなのかもしれないけれど...
でもほんと、いろんな意味で今後が楽しみな人たちだと思う。

 
March 2004
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