学校という場所

最近暖かいせいか、どこからともなく人がわらわらとわいてきています。
春だなぁと思う。

ところでステチーは典型的なドロップアウト野郎で、義務教育をあまりよく知らない(それを典型的というのかどうかは分からないケド)独学の人なのだけれど、そのせいか教科書っぽいものに訳の分からない憧れを抱いていたりして、最近も、"Let's Review: Sequential Mathematics"なんていう本を買ってきては一心不乱に問題を解いたりしている。知識を得ている感じが気持ちいいらしい。
別に義務教育を受けていなくても、その後大学には行ったんだし、大学では普通に授業受けていたんだから、それで義務教育についての憧れも満たされそうなものなのに、中・高教育を知らないせいで自分には何かが欠けているというような引け目をいくつになっても完全には払拭することができないでいるらしい。私は行かないですむなら行きたくなんてなかったけど、学校に行かずに家にいるのは辛すぎる(そして他に行く場所などないほどの田舎)というだけの理由で毎日学校に通っていただけなので、義務教育+αに対する良い想い出などほとんどなく、だからステチーが持っている教育に対する素直な憧れを逆にうらやましいと思ったりもしてしまう。それにステチーの学ぶことに対する積極性は、やっぱりどちらかといえば義務教育をドロップアウトしたからこそ身についたものだという気もする。

それにしても年をとると昔のことを懐かしく思ったり、小さかった頃に戻りたいと思ったりするという話を聞くけれど、私はどんなに論文が書けなかったり授業で失敗したりお金がなかったり辛かったりしても、小・中・高校生の頃に戻りたいという気持ちにだけはならない。大人から見れば子供の悩みなど取るに足らないことのように思われるのかもしれないけれど、私には子供の抱えているものの方がずっと深刻で重たくて真剣なもののように思えてしょうがない。子供であるというだけで降り掛かってくる不条理な命令であるとか時間に縛られた生活とか必要以上に知ることに対する抑圧とか。一見些細なことに見えるかもしれない出来事が子供に取っては世界を根底から覆されるような大事件だったり、自分の短い一生をかけた大問題だったりすることだってよくあることだ。今だったらちょっとぐらい大変なことがあっても、まぁいいや、とか、どうにかなるだろう、とか言いながら割と楽観的に構えたり、嫌なことは見ないふりしたり、優先順位をつけて切羽詰まっていないものはとりあえず保留にしたりすることができる。小さい頃はそんな器用なことはできないから、すべてが同じくらい重くて切羽詰まっていて辛かった。いろんなことが全部辛かった。別にそれが悪いことではないけれど、子供時代のことで単純に楽しかった想い出などまるでない。大変だったなぁという思いだけが残っている。くり返しになるけれど、それが悪いわけでは決してない。自分の子供時代を嘆くつもりもさらさらない。義務教育からドロップアウトした方が幸せだっただろうとも思わない。ただ、もしも今もう一度あの時代を、どこからでもいいからやり直せと言われたら多分すごく困ってしまうというだけだ。 

posted by f at 2004/03/27 22:24
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