増村保造特集

増村保造特集

増村の映画とかを見ていてしみじみと感じるのは「生への執着」いや,もっと単純に「しぶとさ」ってことかもしれない.
増村映画に出てくる人々は,みんなとにかく「しぶとい」.ひたすら「しぶとい」.これでもかってぐらいに「しぶとい」.
簡単に死んだりしない.っていうか殺そうとしても死なないんじゃないかと思うぐらいにしぶとい.

「好色一代男」なんかはすごく典型的な例になる気もするけど,例えばこの主人公のボンボン息子っていうのは,本当に根っからの女好きで,女の尻ばっかりおっかけているような奴.でも,その精神っていうのは徹底していて,その為に貧乏になろうが,殺されかけようが全然平気なんだよね.で,女=生みたいな感じ.
おもしろいのは,この男と一緒になる女っていうのは,これまたしぶといのはしぶといんだけど結構簡単に死んじゃったり殺されちゃったりするわけです.すると男はすっごい怒ったり哀しんだりするわけですが,次の瞬間にはもう開き直ってる.っていうか次の女に走る.そりゃあもうすごいパワー.逞しい.そう,そこに限り無い生への執着みたいなものを垣間見てしまうわけです.

他の増村映画に出てくる女達も,まさに生のパワーに満ちあふれているしね.
逆境,差別,偏見,自分達を押さえ付けてくる大きな枠組み.そんなものはあってあたりまえなわけです.
もうみんなそんな中で翻弄しまくられるわけです.
でも死なない.生き続ける.もう哀愁をそそる逞しさです.
アイロニカルな「生への執着」,生きのびようとする力.それがとても...いい.

さらば愛しき大地

田村正毅特集(さらば愛しき大地/1982.04.09/日本/130分/カラー/柳町光男)

最近,図書館でやっていた田村正毅特集を見に通っていて,昨日は"Helpless"と中上健次が生前撮っていた16mmを編集した"路地へ"を見てきました.
でも,徹夜あけだったので途中で記憶が...とんだりしてたんですけどね...
で,その前に"さらば愛しき大地"というのを見て,これがすごくよかった...その後,本当に死にたくなるくらい鬱な精神に響いてくる映画でした...現在鬱症状のある方は決してみないで下さい(笑)...

内容は,過疎の村に住む家族の長男が,農業だけじゃやっていけないからダンプの運転手に転職するわけです.
弟は華の都東京に出ていき,自分は家族と子供と,年老いた両親とともに,家を守るべく毎日ダンプに乗っている.時折沸き上がってくるどうしようもない空虚感.
それを紛らわせてくれる唯一の希望であった子供は,雨の日に池で溺れて死んでしまう.
逃げ場のない日常.
同じく村に(抑圧的な愛情でもって迫ってくる母親に)閉じ込められている(と同時にそれにすがっている)娘(しかもこの人は弟の学生時代の恋人)と関係を持ち,やがて二つの家を行き来するようになる男.
しかし心を満たしてくれるように思われた若い女との関係も,新しく生まれた子供も,彼の巨大な虚無感を埋めることはできず,男は覚醒剤に手をだすようになる.
薬ももちろん彼の心を満たしてはくれない.むしろその虚無感はより堪え難いものになっていくばかりだ.
その理由を理解しようと思っても,それを克服しようと努力してもそれは無理だ.
それは彼の劣等感みたいなものに直接的に根ざした問題ではないからだ.
そこには義務としての伝統的慣習や,発展の一途を辿る当時の経済的状況,生産構造の転換,中央と周辺...
そういった彼自身がわけも分からぬうちにすでにその内部へと取り込まれている,より大きな何かがあるのであって,彼の虚無感・空虚感・世界との断絶といった問題は,実はこうした彼が取り込まれている様々な状況の内から降って湧いてくるような...そういうものなのだ.
その時,青々とした田んぼの稲穂が,どこまでも続いていく緑の大地が,広く青い空が...どうしようもなく抑圧的なものとなって眼前に迫ってくる.
そして自分はもうどこへも行けないのだ.新しい「世界」なんてものは,この大地の内にも外にも,決して存在してはいないのだ...という思いだけが確かなものとして浮き上がってくる.

男は,自分にとっての最後の最後の最後の砦だった女を,結局は刺してしまい,もうすべてが終わったような顔をして娘と二人,ダンプによっかかりながら,目の前に広がる田んぼを見つめる.
最後,田んぼの真ん中で警察に取り長えられるシーンは,短いけれどもなんとも言えない哀しみをさそう.
そして家では,日常が続いていく.
映画の中における農村の風景と鹿島の工業地帯の風景との対比も興味深いものである.

赫い髪の女

赫い髪の女/1979.02.17/日本/73min./カラー/神代辰巳 

神代辰巳の「赫い髪の女」を見る.
寂れた田舎町の土木作業場を転々としている男達.どこからかあるいは何かから逃げてきた女.寂れた安アパート.雨・雨・雨...
そしてふと気付く.これは中上健次の世界だ...
閉ざされた世界.閉ざされた人々.そして雨...雨の音は常に止まず,もうどこにも,ここから一歩も動けないんだ...というある種の絶望感を誘う.雨の日は工事が進まないから,女と男は部屋でひたすら躰と躰を合わせ続ける.ものも食べずにただひたすら激情をぶつけあう.だからといってもちろん結婚して家庭を持とうとか子供を作ろうとか,そんな話には絶対にならない.なぜならそうすることで得られるかもしれないあたり前の幸せや未来なんてものはないっていうことは男にも女にもあまりに明白に思われてしまうからだ.
多分女は,家を夫を子供を捨てて街を飛び出した時点ですべてを失ったのだ.自分がこうであったかもしれないいろんなものが全部なくなった時,そこには自分を愛する男との身体的接触を通じてしか自分の存在を確かめられなくなっている自分が残ったのだ.だから二人はただ一緒にいることだけを目的とし,そして躰を離せば死んでしまうのだという強迫観念にあえて身を任せ,閉ざされた世界にじっと身を潜める.
男の若い同僚はレイプした若い女と共に幸せを求めて大都会へと去っていく.そして赤い髪の女は暗い部屋の中でいう.「若い人はええなあ,ええなあ,ええなあ...」それは最後には絶叫へと変わっていく.
下の階からは果てしなく続く女の叫び声.
しかしだからなんだというのだ.可能性なんて結局始めからなかったんだ.夢なんていう実在しないものを追い掛けて傷付いてボロボロになってなってどうしようもなくなってしまったからといって,この小さなアパートで男と二人インスタントラーメンをすする生活は何もない空っぽの暗闇だなんてどうして言えるだろう.結局ここなんだ.辿り着くのも,また始まるのもここなんだ...そういうほとんどしたたかさにも近い強さを神代映画に出てくる人々は持っている.そしてそれが彼の映像に凄みを与えるのだ. 

ビデオの可能性について

先日,九大で上映会をやったときにE君が見せてくれたETV特集(確か私的ビデオの可能性とかそういう話し)に出ていたフィリピンの映像作家タヒミックの姿が忘れられない.この人はすごい人です.
いや,久々にすっごい感激しました.昨年最も印象に残ったのが今岡信治とすれば今年はタヒミックです(笑).
彼がね,言うんですよ「これまで虐げられてきた(というか語る権利を持たされずにきた)人々がビデオをいう機械(機会でもある)を通じて自らの言葉で語りはじめるんだ」って.彼はフィリピンの少数民族の村にカメラを配って,その使い方を住民に教えていくっていうようなことをずっと行っている人なんですね.彼自身ももちろん撮るわけですが.そうやってこれまで語る手段を持たなかったような人々がビデオを手に私的な言葉で自らの生を語りはじめるところに可能性を見い出そうってわけです.それ自体はすごく意味のあることなんだけど,やっぱりこういうやり方っていうのは常にある種の問題を孕んでいるんじゃないかという気もします.
例えばそういう人々の言葉や記憶っていうのを,国家的な大きな歴史とか記憶の創造みたいな問題と同レベルで語ってはいけないのだと思うのです.少数民族でもいいし,同性愛者でもいい,監獄の囚人でもいいんだけど,とくかくこうした社会的マイノリティの人々に語らせよう!っていう動きの背後には,そこに真実の歴史が,物語りがあるんだ.国家というのは,あるいはこういうマージナルな領域に支えられた近代的社会というものは,その全体的かつ大きな枠組みを維持するために,こういうマイノリティの声(それこそがまさに真理を映し出しているようなもの)を排除し続けてきたのだっていう見方があるんじゃないかと思う.でもそういうマイノリティの言語の内に真理が宿るみたいな見方は,国家がその全体的な国民の記憶を形成するために行ってきたやり方と実は同じなんじゃないだろうか.あらゆる物語化,ある言説を真理として語るやり方は,すべてある種全体主義的なものへと行き着くことになるだろう.
だから多分重要なのは,始めからある意味負けを認めつつ次のように主張することなんだと思う.
私達が自らの手にビデオを持ち,自らの言語で自らの生を映しはじめたからといって,それは全体的なものとは関係ないのだ,と.とりあえずそこにはある大きな枠組みというものがあって,私達の生の形式みたいなものを上からガツンと規定してくるような力を持っている.で,自分があるいは社会的周辺に置かれた人々がビデオを手に自らを世界を映しはじめるということは,そこから新たな,本来のリアルな世界...というものを形成することにはならないのだと.でも,この何ら全体的かつ客観的な真実を生み出しえない,というかそういうものを肯定しないという点こそがビデオの重要な機能なんだといいたいわけですね.そうやって人々は,ビデオ片手に日常の断片を切り取り,継ぎはぎし続けるわけです.そこからは何ら全体的なものは形成しない.対抗社会みたいなもののビジョンをあたかも唯一無二の真理みたいな形では示さないわけです.でもその行為の内に,
というかその行為そのものが現状に対する辛らつな批判となると同時に,そういう枠組みの中で生きる自己の存在を指し示す,そして行為を通じて自己を変化させ続けるきっかけとして機能するようになる...かもしれないわけで,そういう時にこそビデオで撮るという行為が,そしてそこで切り取られた光景の断片が「大きな歴史,一つの世界,唯一の真理といった見せ掛けにして巨大な壁に楔を打ち立てる契機となる」のだと思うわけです.
相変わらず,なんかあまりクリアでない文章ですね...まあつぶやき
ですから...許して下さい. 

 
February 2001
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