コロンビアの痛み

とても好感を持っている友人がいる。何となくものの見方というか、問題意識の持ち方が似ているような気がする。
「どうしていいのか分からないよね。なんかさ、コロンビアでディスコとかって割と大はやりなんだけどさ、でも一方ですごい失業率高かったり政治的に不安定だったりするわけじゃない。そうするとさ、人によってはさ、踊っている若者とか見てさ、現実の問題から目をそらそうとしているとか、政治的な運動にコミットするべきだとか言う人がいるわけなんだけど、そういう人に限って実際には食べるものにも住む場所にも困っていなかったりするんだよ。でもさ、本当に、仕事もなくて食べるものにも困っていて、もう生きるのもいやになるくらい毎日が辛かったり先が見えなかったりする時に、踊って気持ちが紛れるんだったらさ、例えそれが根本的な解決にはならないって分かっていても、僕はいいじゃないかって思っちゃうんだよ。夜どうし踊ってたっていいじゃないかって。そういうのってどうなんだろう、やっぱり間違っているんだろうか?」
思い出したかのように、ぽつりと、心に残るセリフを口にする人です。

自由であること、自由になること、自由を求めること

髪きったー。

20年ぶりぐらいに背中にとどくくらいにまで伸ばしてみたんだけど(というか伸ばしっぱなしだったんだけど)、とうとうがまんできなくなって切ってみました。
夜中の3時に。自分で。
というわけでかなりガタガタ。
今日一日結んでごまかしてみたけど...
背中に届くくらいまで伸ばした状態だと、おちついたフワフワヘアに見えるのだけれど、肩ぐらいまでだと単にピンピンはねまくりな小学生ヘアって感じ。
あーでも頭が軽いー(中身も...)。


引っ越すとまず近所の古本屋めぐりをします。学部生時代割とよく通っていたのは方丈書林という古本屋さんでした。いかにも古書好きといった感じのおじちゃんが独り、奥の方に座っていて、狭い店内にはほんのりとカップラーメンと煙草の香り。ちなみに煙草の銘柄は峰。

本は文庫とまんがが全体の半分ぐらい。あとは小説、哲学書、現代思想、社会学、詩、文学書、画集などなど。なんていうんだろう、澁澤系のものとかが割と多かったり。あとはまぁ、土地柄建築とかデザイン系のものなどもちらほら。エロ本を艶本と呼ぶ所に歴史を感じてみたり。

店内に流れているのはもちろんジャズで、壁にはモンクのLPなんかが。

朝方は二日酔いで無口。夕方ぐらいになると急に元気になってお客さんとコミュニケーションしだしたり。中上健次とか、こっそり取っておいてくれて、会計の時に、「これもあるけど」なんて。ぼそっと、奥の方から。

当時つきあっていた人にタルコフスキーの日記を買ってもらったのもここ。昔のヨーロッパ映画やロシア映画をビデオに録画してもらったりも。「お得意さんは一本300円でいいよ」って。180分テープを5本パックで買うこととか、多分もうない。

そこから自転車で20分か30分走った所には雑葉(ザッパ)という古本屋さんがあって。こっちは古めの漫画や音楽関係のものがいろいろ揃っていたんだけど、本棚の一角に並んでいる現代思想関係の本の選択が方丈書林にすごい似ている。と、思って聞いてみると兄弟だった。ありそうでなかなかない偶然。兄弟そろって古本屋っていうのと、兄弟そろって哲学者っていうのはどっちがいいのかなー、親としては...とか思ったり。

方丈書林のおじちゃんは、二年前のクリスマスに亡くなりました。飲んで帰る途中に事故にあわれて。飲み屋にジャケットを忘れてきていたので、年が明けるまで身元が分からないままだったとか。しばらくは弟さんがお店を引き継いでいたのだけれど、結局は閉店ということに。

というわけで、方丈書林も雑葉も、今ではもう残っていません。いや、正確に言うと雑葉は残っているんですけど。露天として。天神(福岡の商業地区?)辺りの路上(多分コアの前、あの、すて猫とか犬とかの引き取り手を探している怪し気な団体が出没する、あの辺)で本をうっている人がいたら雑葉の店主かもしれません。応援してあげて下さい。

和製エスエム

ブックストアで、それぞれの授業に使われる指定図書を見てまわるのがスキです。本を見ると授業の内容だとか、インストラクターの目指していることだとかが見える。とても私好みな本ばかりを揃えている人とは、いつかお話してみたいと思ったり。


寝る前にベッドで本を読むことが多いんですけど、
気分転換になるような、なんというか、授業とは全く関係のない日本語の小説とか雑学事典っぽいものを読むことが多いです。
最近は、大分前にNYCに行った時に買ってきた『日活ロマンポルノ全史』(松島利行、講談社、2000)を読んでいます。
ちなみに、本の最後の「講談社の好評既刊」のページに載っている本のタイトルと内容が、結構おもしろくて笑っちゃった。

『ケイン・コスギのカッコいいBODYになりたい』(ケイン・コスギ)
「簡単に始めたい人から本格的に鍛えたい人まで、ケイン流の実践プログラムでカッコいいボディをゲット!!オール撮り下ろし写真!!」
(身体を鍛えたい人向けなのか、ケインの裸体をなめまわしたい人向けなのか、購買層がイマイチしぼりきれていない感じの宣伝文句)

『ちょっとしたヒトの叡智』(パキラハウス)
「ハイテクは鋭い。しかし、ローテクは温かく心地よい。ヒトの連鎖の中にある888項目のローテク技で、人間を取り戻して下さい」
(知りたい...人間を取り戻す888のローテク技...それにしても「ハイテクは鋭い」って...)

で、『日活ロマンポルノ...』の方なんですが、
本の内容と比べると、『全史』っていうタイトルはちょっと仰々しすぎるような気もするのだけれど、でも、ロマンポルノ初心者としては、なかなか楽しめた一冊です。ロマンポルノへと移行していった背景だとか、その過程における監督さんたちの苦悩、挑戦といった部分は分かりやすく描かれていると思う。なんというか、ロマンポルノの巨匠と言われるような人たちの助監督時代というか、誰の影響を受けて映画を撮っていたのかとか、そのへんの逸話が盛り込まれている辺りが個人的には興味深かったかと。

小沼勝とかね、大好きなんですけど。すごいまじめ社員で職人気質な性格の彼だからこそ、一連のSM映画をとおして、一種の小沼美学とも言えるような世界を表現することができたんだ、とかね。あとは、『花と蛇』を撮った後で、団鬼六から「SMを分かっていない」ってさんざんしかられた、とか。

ちなみに、『官能のプログラム・ピクチュア』からの孫引きで紹介されていた北川れい子の小沼映画批評は、すごく目から鱗!な感じでした。いわゆる本格SM映画の走りとして作られたはずのものが、どこか違う、何か違う...いわば「変格SM映画」になってしまった「一番の要因は、谷ナオミを責める側の、陳腐な描かれたかにある。夫にしろ、青年にしろ、その母親にしろ、いずれも純粋、本質的な倒錯志向者ではなく、夫は妻に対する欲求不満の単なるイヤガラセ、青年はマザコンと不能の自己嫌悪、母親は息子可愛さと、つまりサディズムの原因が、いかにもメロドラマ的なのだ」(p200-1)。

私は、このメロドラマ的な感じが、いかにも日本のSM、あるいはロマンポルノにおけるSMって感じがして好きなのだけれど。SM性というよりはメロドラマ性の方に、かえって強く引き寄せられる観客も多いと思うし。でも、本当に彼女の言う通りで、ロマンポルには「本質的な倒錯志向者」っていうのは登場しない気がする。登場できないのかもしれない。何で日活ロマンポルノに「本質的倒錯志向者」は存在し得ないのか、その辺もっと深く考えてみたい所だったり...

ちなみに、その夜は、寝ている途中で一回起きて、鼻をかんだのだけれど。どうやら寝ぼけていたらしく、ティッシュをゴミ箱に入れる前にまた眠ってしまったらしい。というわけで、朝目が覚めてみると、ベッドの上に『日活ロマンポルノ...』(カバー写真は『 女高生レポート/夕子の白い胸』からのワンシーン)とくしゃくしゃになったティッシュが。

ちょっぴり複雑な気持ちになってみたり。

 
February 2003
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