コミューンとアルトマン

ふと思ったんだけど、
普通に生活していたら、でかいサングラスとかかけて、煙草をひっきりなしに吸いながら鉄パイプでテレビを破壊する中年アーティストとか、その辺に生えている雑草然とした植物でご飯作ったりワイン作ったりしちゃうおじさんとか、本当に何もしていない人とか、どこから集めてくるのだかわからないけれど、ゴミが山積みになった部屋に住んでいるカップルとか、アルコールのみで生きているような人とか、下駄履いて無精髭を生やしたエコ信者とか、突然大地に祈りを捧げはじめる原理主義おばさんとか、コードフェチの男性とか、変な音楽やっているニューエイジおばあちゃんとか、きなこと牛乳で生きている浮浪者然としたおじさんとか、家庭がいくつもある人とか、偽装結婚している人とか、頭に銃を突き付けられたことがある人とか、眠気ざましにコカインすり込みながらツアーするバンド野郎とか、飲み会の場で急に逆立ちを始めちゃう人とか、夜逃げで行方知れずになっちゃった人とか、くたびれ果てた亡命者とか、「空を飛ぶくらいなら、まぁ、できるようになるよ」とか言う修行僧とは知り合わないものなのだろうか。

そんなことを思ったりするのは、最近立続けに2人の人からコミューン作ろうよ、と話を持ちかけられたせい。別にそのこと自体が珍しいわけではないんだけど、なんというか、ふと、なんでいつもこういう人たちとばかり友だちになってしまうのだろう…なんて思ってしまったり。
だって一応総合大学に通っていて、周りには経済とかコンピュータ・サイエンスとかバリバリ実用的なことをやっている人たちもいっぱいいて、金持ちになるぜ!とか成功するぜ!とか思っている人もいるはずなのに、なんで私が知り合う人はコミューンなんだ… まぁ、いいんだけど。

こういう人たちとか先に挙げたようなちょっと変わった人たちというのは、多分、これまでに出会った人たちの数を考えれば圧倒的に少数だとは思う。大学時代の同級生を考えても、ちゃんと就職して一定の収入を経て、結婚したり子供を持ったりしている人の方が多かったりする。それにこういうちょっと変わった人たちというのも、表面的にはごく普通(そう見えない人もいるけど…)だったりして、ある程度お近づきにならないと変わった部分というのは見えてこなかったりする。それは言い換えれば、どんな人でも、ある程度仲が良くなれば何かしら変わった部分が見えてくるということでもある。
実際、一般的に普通という枠組みに納まるような生活をしているような人にも変わった趣向や考え方の持ち主は多い。そういう意味では単純に先に挙げたような人たちを「変わっている」というふうに言ってしまうことはできないのかもしれない。「普通」な人と「変わった人」の境界は、多分普通考える以上に曖昧なものなのだろう。

ごく普通の人のちょっと変わった一面をアイロニカルに描きだす映像作家というと真っ先にロバート・アルトマンを思い出す。ちょっとしたことをきっかけに、ありふれた日常を淡々と生きる人々の隠されていた側面が露になる「ショート・カッツ」。日常のうちにあるちょっとしたズレから明らかになる、表面的にはなんのおもしろみもない、ステレイティピカル(アメリカ人としてであったり女性としてであったり)な人々のうちにある意外な深みが切なさを誘う「クッキーズ・フォーチュン」。
おもしろいのは、アルトマンの映画に出てくる普通の人々の中に、100%良い人や100%の悪い人というのが決して登場しないことだ。ある場面ではすごいいい人が別な場面ではどうしようもなくいじわるになってしまったり、あるいはその逆だったり。いろいろな関係性の内で、個々人が持つ多面性が自然に現れてくる。そうした人物設定には、それぞれの登場人物に一定の役割をあたえ、それを壊さないような仕方でストーリーを展開させていく、いわゆるハリウッドタイプの映画に対するアルトマンの批判が含まれている。ハリウッド映画には、あらかじめ設定された人物のイメージが否応なく作り替えられていくような契機はどこにも含まれていない。
もちろんハリウッド映画においても、ドジなヒーローややたらとセリフに真実味のある悪人など、相反する側面を合わせ持ったキャラクターが登場することはある。しかしその場合ドジな側面というのは、ヒーローがあらかじめ持っていたイメージを崩す要素としてではなく、それまでのヒーロー像とは異なるかもしれないけれど、別種の、やはりステレオティピカルなヒーロー像を強化していく要素として機能する。一見相反するように見える要素たちは、互いに互いを強化し合いながら、人物に画一的なイメージをあたえ、それをより確固たるものへと変えていく。
それに対し、アルトマン映画に登場する人々は、誰一人、一定の人物像を持っていない。こういう人なのかなぁ、と思った瞬間に、その人の持つ別な側面が見えてきたりする。どこにでもいそうで、実はそれぞれにユニークな人々。ごくごく普通の人々が、日常のふとした瞬間に、あるいは特定の人々との関係性のうちにおいて、突然、予想もしなかったような部分を露にし、そのことによって人々の中にあった彼や彼女のイメージが否応なく切り崩されていく。それだけじゃなくて、こうしたちょっとした変化が彼や彼女自身をもその都度その都度別なものへと変えていく。そのことによって彼や彼女がそのうちで暮らしていたような他愛もない日常や、彼や彼女を取り巻いていたごく普通の人々の関係性がどんどんどんどん崩され、再構成されていく。
現れては消えていく日常の断片。アルトマン映画における人々の行動やセリフは、時にどうしようもなく不条理に満ちていたり、救いようがなかったり、とことんアイロニカルだったりするわけだけれど、それでもどこか暖かい。それは多分、アルトマンの映像に、人間が持つ多面性に対する信頼みたいなものが感じられるからだと思う。人と関係することって楽なことじゃないけれど、でもこんな瞬間があるから、やっぱり人と出会うことってやめられないよね、っていう、ある意味アメリカ的な爽やかさ。それにしても、いわゆる社会派といわれるタイプの映像作家が、多面性をご都合主義的でネガティブなものとして示しがちだったりしがちな中で、このアルトマンの乾いた爽やかさは貴重だ。ほんとに。

いや、でもやっぱり、どうせ出会うならお金持ちの人と... 日常のささいな瞬間とか関係性とかどうでもいいから、一度ぐらいお金で自己解体されてみたいよなーとか思ったりもする今日この頃(ゲンキン)。 

 
October 2003
archives
categories
recent entries
recent comments
search
サイト内検索