heavy duty S氏のパフォーマンス

ここ一週間ほど、これって厄週間?と思うほどいろいろなトラブルが続いている。一番大きいのはアーティスト・イン・レジデンスでNYCに滞在していたS氏がパスポート、航空券一式の盗難にあったこと。直接トラブルが私に降り掛かったわけではないけれど、一緒に警察に行ったりしたせいか何となく精神的に落ち着かない所があったり。他には地下鉄乗り間違えてヘリコプター観光に遅れたり、ホテル側が無料と言っているエキストラベッド代を日本の旅行代理店側からふっかけられたり、まぁ、小さいトラブルがいくつか。昨日も受けるはずのフラ語の試験の問題が無くなったり、そのせいで試験時間が短くなったり。今日はこれまでコンピュータ三台起動しながらマイクロウェーブでポップコーン使っても落ちたことなどなかった電気のブレーカーが落ちたり(しかもこっちのものってただスイッチを戻せばいいという感じの作りではないのでやっかい)。毎日何らかのトラブルが... そういえば我が家の本棚も最上部に本を積み上げ過ぎているせいで、重みで支えに使っている箱の形が崩れて来ていて微妙に前のめりな感じに。本棚崩壊の時は近いかと(しかし直す気はなし)。

ちなみにS氏のパフォーマンスは盗難事件のせいで一回はキャンセルになったものの帰国直前の水曜日になんとかすることができた。ギャラリーのあるクイーンズからタクシーを拾ってタイムズ・スクエアに出た後、ブツを背負ってタイムズ・スクエア周辺を闊歩。32nd streetぐらいまで歩いて、エンパイヤ・ステイト・ビルディングをバックに写真を撮り、チェルシーのギャラリーでちょっと遊んだり。ちなみにS氏、パスポートの再発行の件でお世話になった旅行会社の人から「テレビで見たことあります!」(大分前に『たけしの誰でもピカソ』に出たことあり)と握手を求められたらしい。
そんなS氏のパフォーマンスというのは、タイヤのチューブを使って作った黒くて巨大な彫刻を背負いつつ、団塊の世代のビジネスマンにとっての記憶とか憧れとか痛みみたいなものを掘り下げていく...と、まぁ、かっこよくいえばそういう感じなのだけれど、実際は見た目もよれよれでスーツもよれよれで、パフォーマンスと言ってもだらだら歩いているだけで、まぁ、全然スペクタクルな感じではない。もちろんそこが重要なのだけれど。
ちなみに今回、こういう人がくるんだヨ、とS氏とS氏のプロジェクトのことを友人に説明するため、私は"unresolved past"というタームをよく使った。中年のビジネスマン・アーティストが来て、黒い彫刻を背負って歩くんだけど、と言う時に真っ先に来る質問は「何でそんなことしてるの?」というもので、そうだ、S氏はなんでこんなことをしているんだろう、と思った時に、多分一番しっくりくるであろう説明が「彼の中の解決されていない過去を見つめるため」というものだった。ただ、その後もいろいろ考えた結果、S氏の彫刻の中に入っているのは"unresolved past"というよりは"unresolvable past"とに近くて、S氏自身も彫刻を背負うことで解決されえなかったものを何とか昇華したいなんてことは多分、考えていない。彼の彫刻に込められているのは、団塊の世代が経済的成長だとか標準的中産階級の価値観だとかいったものに乗っかって行く過程において見ないふりをしてきたもの(学生運動の渦中において経験したことや体制的なものの暴力や会社中心主義の歪みや紋切り型の家庭像の裏側などなど)なわけだけれど、団塊の世代が抱え込んでいるこうしたもろもろの歪みだとかしっくりいかない思いというのは、何かそれを見つめ考えることで解決しうるような何かではなくて、ただ、どうにも取り除きようのない痼りみたいなものとして、ごろりとそこに転がっている。S氏がやっていることは、強いて言えば、その痼りの存在を、ごまかしきれないものとして人々の面前にさらし出すということなのだと思う。それをいかにも団塊の世代の良さも悪さも全部持ち合わせているような(勢いとか勢いだけの無責任さとか、微妙な倦怠感とか)S氏がやるものだからおもしろい...というよりは心に響く。哀愁がある。
でも本当に、50代のアーティストはいっぱいいるけれど、自分で会社をやっていて、それなりに安定した生活があって、普段はスーツしか着たことないようなタイプの人が突然思い立ってチューブを膨らましはじめ、それを担いで韓国だ、沖縄だ、アメリカだって出かけて行く、そのパワーというか衝動というのはどこから来るのだろう、といつも考えてしまう。S氏の飄々とした立ち振る舞いからはアートをする強い衝動みたいなものは今ひとつ見えにくかったりするのだけれど、でも、だからこそ興味をそそられるものがある。とにかくこの世代のアーティストとして、私は個人的に一番共感を感じているし、体力の続く限りチューブを膨らまし続けてほしいと思っていたりする。

ちなみに今回彫刻を二つもって来ていたので、私も一つ背負って一緒に歩いたのだけれど、これがすごい重い。空気しか入っていないはずなのにすごい重い。しかもバランスが悪いのでつい前のめりになってしまう。S氏が背負っている彫刻に至ってはその二倍の重量があるのだから、その重さは想像を絶するものがある。S氏もこれを背負うためだけにジム通いしているらしいし...って、ホント、そんな生活どこか間違っているYO!という気がしないでもないけど。
おもしろいのはパフォーマンス中、話しかけてくるのが中年の男性が多いことだ。やっぱり同年代の人が何かやっていると気になるものなのだろうか。そしておもしろいのは「これはなんだ」という質問に、S氏が「お前だって見えないだけでいろいろ背負っているだろ」とS氏が答えると、はたと考え込んだあと、しばらくしてみんな一様に「そうだな」とうなずくことだった。「家族とか会社とか子供とかな」と言うと、またうんうんとうなずいたりして、なんだかすごく親近感のこもった眼でS氏を見たりするのだ。いやぁ、結婚もせず子供を産むつもりもなくしかも無職の私が一緒にこれを背負わせてもらったりして良いものか、と、強い絆で結ばれつつある中年男性群の横でちょっと真剣に考え込みました(嘘)。
あと思ったのは、S氏が「ここに行きたい」「ここで写真を撮りたい」と言って選ぶ場所が私たちの世代が観光で訪れる場所と微妙にずれているということ。今時ナスダックの前で記念写真撮る人なんているのか? しかもエンパイヤ・ステイト・ビルディングだし。でも団塊の世代の日本人ビジネスマンにとってナスダックの電光掲示板を流れる現在の株価表示っていうのはやっぱり特別な意味があるのだろうなぁ...... エンパイヤ・ステイト・ビルディングも、「やった、俺はとうとうここまできたぞ」的な思いの象徴なのだろうなぁ...... まぁ、S氏の場合は戦略的にそういう所を訪れているわけだけれど。やっぱり哀愁......

不自由な身体

昔、まちづくりとかをやっている先生の授業で、住民参加型のプランニングをする時によくやる、ポストイットを使った授業形式のものがありました。毎回何かお題があって、それぞれポストイットに自分の答えを書き込み、それをもとに先生がいろいろお話するっていうような。なんか、あんまり何かを勉強したという気にはならなかったけど、それなりにおもしろい授業ではありました。

ある時のお題が、
「自分のうちで一番前衛的な部分と後衛的な部分は?」というもので、
私は、
「後衛的:私の身体」「前衛的:私の欲求」と書いたのだけど、
それを見て先生が一言、
「すっげーこと考えているんだろうなー」って。

でも、このときの回答は、自分の心情と結構一致しているところがあって、
だって、欲求っていうのは身体的な境界だとか精神的な限界だとかを越えていく可能性を持っていると思うんだけど、実際にわき上がってくる欲求と、実際に人間が持つ身体的機能というのは全然つりあっていない。まぁ、そういうことをいうと、身体の解放だ、とか、自由になれとか、精神と身体のシンクロだ、とか、なんか怪しげな所から誘われちゃったりするんだけど。

というか、私が個人的にすごく好きな福岡在住の現代美術作家の人がいて。
中小企業の社長さんなんだけど、こう、大学でて、まじめに働いて、結婚して子供育てて、で、やっと子供も成人して、さーこれから夫婦水入らずで静かな第二の人生を、って考えていた矢先に、突然奥さんに逃げられて、あれ?どういうこと?みたいな、そういう状態になって、アートをはじめた人なんですが。あまりに普通にまじめに、家族を養い仕事をきちんとし、みたいなことをあたりまえのこととして生活してきたがために、どこで何がずれてしまったのか、なんで突然一人になったのか、よく分からない。そういう過程を経て、なぜかたどり着いたのがアートだったっていう。あの、そうはいっても、彼はすごいズコーンと抜けた所のあるおもしろい人で、行動力もあるし、でもなんか鬱っぽいし、もう、私は大好きなんですけど。

「いや、普通さ、中年会社人間とかだったらゴルフとかに行くんだろうけど、僕、ゴルフ好きじゃないしさ、お酒とかもそんなに飲まないしさ、食い道楽ってわけでもないし、なんか同年代の人たちがやるような趣味とかがことごとく苦手で、だからアートなんてはじめちゃったんだろうけど」って。
それにしてもやっぱりなんか間違っているというかおもしろいというか。離婚されて現代美術って。で、廃棄タイヤのチューブをひたすら膨らますの。ホント、何を思ってチューブを膨らましたり、膨らましたチューブ背負って旅に出たりするんだろう、って興味津々。

で、その作家さん、時々舞台美術みたいなこともやるんですが、その関係である時、舞踏家の方と知り合われたそうなんですね。この舞踏家の方というのが、舞踏療法と呼ばれる一種の心理療法みたいなこともやっている人で、つまり心理的な問題を抱えた人に舞踏の世界を教え、身体を動かし解放することによって、精神的な問題を乗り越えて行く力添えをする、みたいな。ごめん、私、そういうのってすぐいかがわしい...とか思っちゃうんだけど、結構人気あるみたいですよ、うん。

で、作家さんもね、誘われたらしいんですよ。
「でもさー、僕、『さー!自由に思うままに身体を動かしてみましょう』とかいわれてもさ、なんていうかさ、どうしていいか全然分かんなくてさ、結局ぼーっとステージ上で突っ立ってたりとかさ、そんな感じになっちゃうよ、絶対」って。

なんというか、そういうのって、ある側面から見れば、身体の自由を完全に失っている、ああしろこうしろいわれないとどう動いていいのか分からない(少なくとも身体的な部分においては)、仕事人間の悲しいサガ、みたいに思われそうですけど、でも、私は個人的に、彼の身体の不自由性みたいな方に共感しちゃうわけで。だってね、舞踏心理療法って、そこで解放される身体性だとか、身体と精神の融合だとかってさ、本当にそうなの?本当に解放されているの?融合しているの?そんなんでいいわけ?とか思っちゃう。

ある意味頭でっかちなんだろうけど、そんなことで身体あるいは精神を完全に充足できるなんて思えないわけです。そんな所で得られる解放って、それはちょっと私が求めるものとは違う、とか思ってしまう。そんな簡単に解放されちゃうのって危険な気もするし。もっとこう、いろんな葛藤とか分け分からなさとかとかに翻弄されつつ、でもどこか遠くにあるかもしれないものとして、そういう身体的な解放だとか精神的な自由だとかを求める、そういう方が正しいような気がしちゃう、感覚的にだけど。


ちなみに、まちづくり授業で一緒だった人から、その後食事に誘われて、
それは私の前衛的な欲求に興味があるのですか?とか思ったりもしたのでした。

 
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