愛国/嫌国

友人Aは、アメリカ合衆国に来て約9ヶ月ぐらいなのだけど、ことあるごとに彼の出身国であるコロンビアを褒めたたえる。その直後、ちょっとはにかんだような笑みを見せ、「全く、こんなのって国粋主義者のようだよね。自分がこうなるなんて正直思ってもみなかったよ。」と付け加える。彼曰く、在米コロンビア人には二つの傾向があって、一つは自分達の国を懐かしみ、必要以上に褒めたたえる愛国派、もう一つはコロンビアの現状に対してとことん批判的で、あんな国には二度と戻りたくないという嫌国派。

これって在米日本人にもよく見られる二つの傾向だと思う。日本にいる時は(海外に憧れるあまり)さして魅力的とも思わなかったような日本での生活の良さを国外に出て認識し、愛国家になるタイプ。あるいはもともと日本が嫌で、海外で暮らしはじめて以降、ますます強く日本での生活の負の部分を認識し、日本はなんて文化的にも政治的にも未成熟なんだろう、という風に考えるタイプ。

私の周りには、どちらかといえば前者のタイプが多いと思う。もともと海外(というよりはアメリカ)に興味があって出てきたのはいいけれど、来てみればその国の悪い所も見えてくるし、うまくいかないことも多いだろう。どちらかというと愛国的なアメリカ人学生や他国からの留学生によって、自分の日本という国についての知識のなさを思い知らされたり、漠然と持っていた日本に対するネガティブなイメージを覆されたりすることもあるかもしれない。結果、「日本の良さについて客観的に考えられるようになった」、「自分の国についての誇りを持てないなんて寂しい考え方だ」といったことを言い出す人は多い。そういうことを口にすることを一種の誇りというか義務と思っているような人もいたりするのにはちょっと困るけれども。あと愛国心というのは時に物象崇拝的な傾向を見せるもので、日本的な「もの」に対して過度な執着を見せるような人はこれまたちょっと困ってしまう。「桜ってきれだよね」と言うのと「桜は日本の美の表象である」と言うのとでは、桜の持つ意味が大きく変わってしまう。

私はといえば、どちらでもない中間ぐらいなわけで、日本っていいよねとか将来は日本に帰って社会のために貢献したいとかいう精神を持ち合わせていないかわりに、アメリカ(あるいは西洋世界)万歳、海外生活かっこいいなんてこともこれっぽっちも思っていなかったりする。昔から漠然といろんな国を旅したい、という願望は持っていたけれど、他方、今自分がいる場所でないどこかに、よりすばらしい、より生きやすい場所があるなんていうのは単なる幻想に過ぎない、とも思っていた。無知な幻想は時に自分にたいしても他者(その国に住む人)に対しても暴力的だ。

実際の所、この中間に属する人が一番多いのだろうけれど、でも一見そう見える人でもふとした瞬間に愛国的あるいは嫌国的な部分をあらわにしたりすることがある。あるいは時と場所に応じて愛国的な自分を演じなくてはいけないこともあるだろう。日本人としての自分の態度に意識的でありつつ、他方、日本やアメリカといった政治的な線引きに過度に惑わされることなく、ある意味無頓着にふるまうということは簡単なことではないのかもしれない。 

生きる意味とか希望とか

別に自分の娘や息子に対して結婚をけしかける母親が間違っているとか、結婚したら子供を持つのが普通だとかいう見方がおかしいとか、「女なんだから」とか「男なんだから」っていう言い方が差別的だとか言うつもりはない。ただ、ある一定の仕方でしか生き方の価値を示し得ないような社会というのは(そして社会というのは往々にしてそういうものだと思うのだけれど)、そこに当てはまらない人にとって非常に暴力的な装置として機能する、ということだけはいつも思う。

「あるべき学生像」だとか「あるべき父親像」「あるべき女性像」みたいなものにそって進んむことは別に悪いことじゃない。仕事をバリバリして出世して自己実現を目指すのも、結婚して子育てに喜びを見いだすのも、それが自ら望んで手に入れたものであればよいと思うし、そのことによって自らが幸せを獲得できるのであれば問題ない、というかむしろ好ましいことだ(その人にとっては)とすら思う。

ただ、自分がそれまで当たり前のように生きていた日常だとか、それが幸せだと思っていた数々の事柄が、突然引っくり返されたり、自分がこれからもそこで生きていくんだと思っていた場所が突然失われたりすること、あるいは少なくとももうここではやっていけない、と思わされる瞬間というのがあるのもまた確かだと思う。それはすべての人に起こるわけではないと思うけれど、日常の崩壊といやおうなく直面させられる人たちというのは確かに存在する。そういう経験をしてしまった人にとって、ある一定の仕方でもってしか生きる意味とか希望とか未来を提示できない社会というのは、巨大な暴力装置として浮かび上がってくる。

こういう経験について考える時、私が頭の中で思い描いているのは、割と特殊な、いわゆる社会的マイノリティと呼ばれる人たちの存在だったりするのだけれど、実際の所、似たような崩壊の経験っていうのは、日常生活のいろんな部分に潜んでいるんじゃないかと思う。
例えば20歳半ばすぎで結婚して、30代で子供を産んで、それが幸せなんだっていわれてしまえば、それこそ不倫している人とか、ゲイの人とか、子供が産めない人っていうのは、決して幸せにはなれないんだってことになってしまう。でもそんなことはないはずだよね。そこで言われる幸せの形式っていうのは単にヘテロ的な家族観の押しつけであって、実際にはそこに当てはまらないような幸せの形式っていっぱいあると思う。ただ社会っていうのは時に、そういう多様な幸せのあり方っていうのを認めずに(認められずに)、社会的に確立された画一的な幸せの構造から外れてしまった人には、生きる意味も希望もないかのようにふるまう。

そういう現実を前にして、社会的な認証なんてなくていい、それは自分の求めるものではない、と言い切るのは結構難しいことだったりもする。社会的に価値あるものとされるような生の形式から外れて生きるということは、自分の外部(社会)に何ら基盤を持ち得ない自らの生の価値というものを、その都度生み出し、問いかけ、再構築していく無限の営みを要求される。こうなれば幸せ、こうすれば認められる、そういう価値判断の基準が全くない状態で、自らの生の価値を見いだそうとすることは、思う以上に大変なことだと思う。

「やっと結婚します。」
大学時代の友人からメールがきた。
以前、彼女が、いわゆる社会的に「こうあるべき」とされるような生き方と、そこからズレていく自分の生き方との間で葛藤していた時、上のようなことをメールに綴ったことがある。その時の私の結論は、「ダメな自分を肯定しよう」ということだった。自分のことをダメだと思う時、自分が何に対してダメなのか、どういう状態なら自分はダメじゃないのかを考えてみる。自分がこうありたいと思う自分像というのがいったいどのようにして形成されているのかを考えてみる。もしそれが社会的な認証とか賞賛によってのみ完結されるようなものであるとしたら、そしてそれを得るために、自分は自分の最も大切に思うような自己の部分を犠牲にしなくてはいけないとしたら、時には社会的な賞賛に別れを告げてダメな自分を肯定することも必要なのではないか、そんなことを書いたと思う。もちろんそれがどんなに苦しいことかも含めて。

それから2年。
「やっと」という言葉が何を意味しているのかは分からない。でも、単に年齢的なことだけではないような気がする。彼女がこれまで経験した数々の葛藤が、最終的に結婚という選択に行き着いたのであれば、それはとても喜ばしいことだと思う。
きっと繊細な彼女のことだから、これからもことあるごとに社会的な幸せや生のあり方と自分の求めるそれらとの間で揺れ続けていくのだろうけど、そんな彼女だからこそ、本当に、幸せになって欲しいと思うのです。

ゴミの世界

友人Aが「今日はゴミの日だー」と嬉しそうにしていた。ゴミ捨てるのが好きなのか、それとも部屋に悪臭が漂うくらいにまでゴミを溜め込んでいたのか... 不思議に思って聞いてみると、ゴミ出しの日というわけではなくてゴミ・ハンティングに行く日なのだそう。

そういえば、今日は市の南側とダウンタウン方面のゴミの日だ。なぜ知っているかというと私もゴミ・ハンティングが趣味だから。こちらではゴミの分別も大雑把だし、粗大ゴミの有料回収制度も整っていないので、ゴミの日には粗大ゴミも可燃・不燃ゴミも全部まとめて道ばたに放りだされている。アンプやスピーカー、旧型コンピュータ、ソファー、ベッド、タンス等々。そしてその中から掘り出し物を探し出すべく、毎週決まった日になると、ゴミ・ハンター達がどこからともなく現れるというわけ。

私も恋人が遊びにくる日とゴミの日とが重なる場合は、ほぼ確実にゴミ・ハンティング・ドライブ にでかける(そんなデートやってるカップルいるのか?)。
何回かそういうことをやっていると、不思議なもので、なんとなく当たりスポットが分かってくるようになる。あるいは勘が働くようになる、といった方がよいかもしれない。
「今日あたりあのストリートが...くるんじゃない?」
みたいな勘がね。磨かれてくるのです。
といっても捨ててあるゴミのうち、大部分はドメスティック可燃ゴミで、
それ以外の、例えば、
使用可能家電製品、パーツは使える家電製品、よくわからないけど惹かれるゴミ(ピアノの鍵盤部分とか)に出会えることはめったにない。

一番の「当たり」は、引っ越し直後のアパートのゴミ捨て場に、早い段階で偶然出くわした時。
ここで重要なのは、あくまでも早い段階、あるいは「一番に」その当たりスポットに辿り着くということ。
というのも、何度かゴミ拾集デートをしていると分かってくるのですが...
「....誰かにつけられている...」
いや、まぁ...他にもゴミ・デートしているヤツらがいるということです(本当か?)。
何ケ所かゴミスポットを廻っているうちに、同じ車と何度もすれ違ったりすることがあるのです。
そういう時は、ほぼ間違いなく、
ヤツらも漁ってます。
ちょっとの差でライバルに、先にゴミスポットに辿り着かれ、あらかたもっていかれたり...
自分達が向かおうとする先からライバル車が走ってきたりすると...
かなり悔しい...
と、いうわけで... ゴミ拾集の鉄則。
1. 早く行け。

もうイッコ重要なのは...
2. 気になったら貰っとけ。
一周してきてまだあったら持って帰ろうかぁ...
なんて悠長なことではいけません。
無くなります。
いや、本当に。
持っていく人は、本当に全部持っていくからね。
まさかあんなものまで...
ってぐらいとことん。
だから、
気になったら貰っとけ。です。
捨てるのはいつでもできる。

似たようなことは日本でもあって。
今でこそ、粗大ゴミは個人でお金払って引き取りにきてもらうって感じになっているけど、ちょっと前までは月に一度ぐらい、粗大ゴミの日っていうのがありましたよね。
そういう時にね、粗大ゴミスポットでも上玉なのがあるわけです。
で、そういう所をいくつか廻っていると...
なぜか同じ人たちとばっかり遭遇するわけです。で、自然とお話しするようになったりとかね。
だいたい自転車にのったおっちゃん風な人たちが多かったですけど。

ある時、その手の人たちには有名な粗大ゴミスポットで、半壊オルガンを発見して遊んでいると、どこからともなくいつものメンバー集結。ゴミをあさりつつ、みんなで和気あいあいと情報交換が始まります。
「あそこにはもういったか?」
「あそこには○○があったぞ」
「これはきっと△△からだな。最近あそこは備品の総入れ替えをしたらしいから」
「□□あたりは最近狙い目らしいぞ」などなど...

そうしている内に、お話していたおじちゃん軍団の一人が、おもむろに懐から名刺を取り出し、
「困ったことがあったらいつでも相談してきなさい。」

そこには、思いっきり手書きで...
「不動産、修理修繕、結婚斡旋、人生相談...」
って、10個ぐらいの職種と肩書きが書き込まれていました...
要は何でも屋さん...なのかな...
ていうか「結婚斡旋」って何?「人生相談」って何?
怪しすぎる...

ゴミの世界は深いのでした...

一緒にいること共有すること

眼球モミモミ。

友達とご飯。
「ムーアの昔の映画の上映会に行くから保存食を持ってきて。」と、昨日の夜言われて、何のことかと思ったら、ホームレス救済ナントカという企画の一環らしく、タダで映画見られるかわりにカンパとして缶スープとかシーチキンなんかを持ってこいということらしい。やっぱりアメリカだしってことでキャンベルのトマトスープを。キャンベル、最近すごくまずくなった気がするのは気のせい?
しかもキャンベル片手に待ち合わせ先の図書館に行くと、「ゴメン。映画来週だった。」って。しょうがないからそのままキャンベル片手に戻ってきた所。何をしているのやら。

以前彼にご飯を作ってもらったことがあったので、そのお礼に今日は私が料理。残りものパエリア(エビ、チキン、タマネギ、アスパラ)とサラダ。切り口の部分にカビがはえぎみのアボカド。友人にカビの部分が見えないように気を使いながらカット(もちろんカビの部分は捨てました)。

食後うだうだとおしゃべり。手がちっこいよね、と言ったら「デブだから...」って自虐モードに入ってびっくりした。いやそれにしても彼はとても良い人だ。いや、良い人ではないのかもしれないな。でも、ものの見方が似ているので話していてとても楽しい。彼は私の数倍政治的でロマンチストだけれど。

時々思う。一緒にいて楽な人と話が合う人、あるいは趣味が同じ人と趣味は全く違うけど楽な人、どちらと一緒に生活するのが幸せなのだろう。
今一緒にいる恋人とは、共通の趣味を通して知り合った。というのは、まぁ、音楽なわけだけれど。彼のCDを偶然耳にする機会があって、それが割とおもしろかったので私から話しかけたのがきっかけ。彼は根っからのクリエイターというかテクニシャンタイプで、作るのは好きだけど他人の作るものにはあまり興味がなかったりする。逆に私は量を聴く批評家タイプ。割と長く続いているのは、趣味は同じでもタイプ(音の聴き方、音楽との関わり方)が違うからだと思う。今までは同じ批評家タイプの男性か、あるいは逆に音楽なんて興味がない(おしゃれの一環として音を選ぶとかも含)という男性としか一緒にいたことがなかったので、今の恋人との関係はとても貴重だし居心地もよい。

だけど政治的な立場というか、世界観みたいな点でいえば、私と彼は随分と異なっている。ちなみに政治的っていうのは右か左かっていう話ではなくて、なんというか、世界情勢の見方というか、世の中に対する考え方というか、そういう感じ。私の場合、こういうことを考えること自体が仕事だったりもするので、ある意味非常に特殊なものの考え方というか発言の仕方をしているのだろうな、ということは理解しているつもりだし、恋人にそれを分かってほしいとか、同じ仕方で会話してほしいと思っているわけではないのだけれど、すれ違いや話が通じないことが続くとやっぱりちょっと暗い気持ちになる。自動車にまるで興味のない女の子が、整備工の恋人から仕事の話をされるっていうのと似たような感じかしら、なんて思ったり。別に私が今書いている論文だとか熱中していることだとか、そういうものに対して逐一興味をもって対応して欲しいとは思っていない。もちろんそういう細かな部分が、全体としての私自身、あるいは私のものの考え方に影響を与えていることは確かだと思うけれど、個を構成する細部を理解したからといって全体が見えるかといえばそうでもない。

とはいっても人間というのは欲張りなもので、やっぱり好きな人に自分のことを理解してもらいたいと思ったり、自分の問題意識や自分が重要と思うような諸事柄について関心を持って欲しい、というか、少なくとも同じくらいの真剣さでもって考えて欲しいと思ったりもする。そういう要求を満たして欲しいのなら、同じ(仕事の)世界で生きている人をパートナーに選ぶべきなのかもしれないな、とも思う。自分が整備工をしていて、いろいろな整備技術や自動車の細部について話ができる人が欲しいと思えば、同じ整備工の人とつき合うのが最も手っ取り早い...そんな感じだろうか。話が通じることだとか衝突しないことが大事だとは思わないけど、基本的なものの見方が違うのであれば、そしてお互いの立場の違いを認識あるいは埋めるためのツールをどちらかが欠いているとすれば、時間をかけて話をしても、出口のない非生産的な会話に終わってしまう気がするのもまた碓か。いや、でも、二人の関係を考える上で、そういう会話がどれほど重要かといえば、別にそんなに重要ではなかったりもするわけだけれど。まぁ、その辺は個人によるのかな...
それ以前に、仕事をプライベートに持ち込んではいけないのかなぁ、やっぱり。

で、話は友人との夕食に戻るわけなのだけれど。
いやまぁ、早い話どうも口説きモードだよねってことです。いろんな意味で今の恋人とは違うタイプの人なので、こういう人とつき合ったらどうなるのかしら...なんて想像してしまったり。別に今の恋人と別れるつもりはないから抱きしめられようとチューされようとどうでもいいって感じなのだけれど。えーと、いや、チューはお断りしました、一応。恋人の存在も告げてあるのでやましいことはしていない、はず。どこまでがやましくてどこからがやましくないのか教えてほしい、ホント。

音と春の訪れ

久しぶりの恋人宅。彼が住んでいる農場は、NY州でも割と雪が深い所に位置するのだけれど、ここ数日の暖かさで、雪の隙間から茶色い地面が顔を出し始めた。雪解けの季節です。

北国で生活していると、季節というのは本当に移り変わっていくものなんだな、と思う。
空気も地面もピンと凍りつく暗い静かな冬の時期が過ぎて春になる。
春の訪れを告げてくれるのは、地面の合間から顔を出しはじめた緑色の芝ではなく、多少なりとも暖かみを届けてくれるようになった細い太陽の光でもない。
もちろんそういった部分も重要な要素ではあるわけだけれど、それよりなにより感動的なのは音によって生まれる空気の振動みたいなものかもしれない。
いつもと変わらぬ薄暗い朝。突然鳥のさえずりがどこからともなく聞こえてくる。それも一羽、二羽...と徐々にその数を増やしながら...

道を歩いていても何かが違う。
ふと気付くと、先日まで凍っていた小川の水が勢いよく流れはじめている。
人が家の中から出てきて、道ばたで談笑している。
車の数も普段より少し多くなる。
木の枝や芝が風を受けて揺れている。
いろんなものが動き始める。

冬の間、そこに留まっていた重たい空気が、音と一緒に流れて行く。そんな感じだろうか。
人生のほとんどを南国九州で過ごした私にとって、北国の春の美しさは、ひときわ感動的だった。
この美しさは、長い冬を抜けてきた人に対する、ちょっとした贈り物なのかもしれないな、なんて思いながらまだ冷たいクリークの水に手を浸してみた。

日差しとホタテ

初夏を思わせる太陽の光。
私は、南国暮しが長かったにも関わらず太陽アレルギーっぽいところがあって、
毎年、季節の変わり目の、日差しが強くなる時期になると目が充血して顔や手足がパンパンになってしまう。しばらくして身体が日差しに慣れてくるとそれほどでもなくなるのだけれど。

ホタテがおいしそうだったので買ってみた。
バターでソテーしてからニンニクパン粉(ニンニクとパン粉をカリカリに炒めたもの)をのせて、チャイブものせて、「わー、レストランのようだね」と言いながら食す。
そういえばこっちの魚屋さんで、殻付きのホタテって見たことがないねー、という話を恋人とする。
日本ではホタテは貝殻付きで売っていて、しかもすごい高い(はず)。
なんでアメリカのホタテは殻付きじゃないんだろうねー。
きっと殻が大きすぎて嵩張るからだよ。
でもあさりはでかくても殻付きだよ(こっちのあさりは非常に立派)。
んー、でもこの身の大きさからいって(すごい肉厚だったの)、きっとすごい大きなホタテに違いないよー。
あー、あれだね。アメリカのホタテには殻はついていないんだ。きっと試験管で身の部分だけ作るんだよ。だまされちゃダメだよ。このホタテだって偽物なんだよ。そうに決まってる。
そんな話をしながらパクパク食べた。おいしかった。

焦りとバランス

寝る前に明日の天気について考えた。
考えながらふと思った。
明日のことについて考えるなんて久しぶりだなぁ...と。
思えば目の前に山積みになっている仕事を消化するのに精いっぱいで、明日の天気のことを考えたりする余裕がなかった気がする。
異常だなぁ、こんな生活...と、ちょっとだけ思った。
考えてみると、精神的に追いつめられている時というのは、生活の細部が微妙にずれがち、というか、おろそかになりがちだ。
ほんとうにちょっとした、普段なら何も考えずともそれなりにきちんとできているようなことに手が回らなくなる。

例えば、トイレのトイレットペーパーがきれたままだったり、
洗面台に髪の毛が落ちていたり、
食器棚の扉が開けっ放しになっていたり、
ちゃんとしたい気持ちもあるけど、そんな場合じゃない、という根拠のない焦りもあったりして。
いい状態じゃないよね、うん。

私は、割と上り調子な時と下り調子な時の差が激しいと思うのだけれど。そしてそれは日頃の精神状態の管理が行き届いていないせいであることも分かっているのだけれど。でもまぁ、とことん下り調子な時は、時間が許す限り、何もせずにぼーっと、状態が良くなることを待つようにしている。
ちょっとゆっくりお風呂に入ったり、早めに寝たり、小説を読んだり、音楽をかけたり、手の込んだ料理をしたり。
そうやって「その気」になるのを待つ。あせってもあまり良いことはない、というのは分かっているつもりなので。
でももちろん、切羽詰まった状態が避けられないことも多々あるわけで。もう、今回とか本当に、焦りで手の震えが止まらなかったり、何も食べれなかったり、いや、本当に、もうこんなのはヤダーと、心の底から思ったよ。いい状態っていうのは、きっと目に見えないようなたくさんの細部によって構成されていて、であるがゆえに、一旦どこかが狂ってくると、そこから徐々に歪みが広がっていって、ちょっとやそっとじゃ修復不可能になったりもするのだろう。
バランスのとれた生活をするってなかなか難しい。

 
April 2003
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