ちっぽけな90年代

ステ母の農場にやってきてからちょうど一週間。この一週間にやったことといえば、
1. ストリングトリマーで畑の雑草をばっさばっさとなぎ倒す。
2. 耕作機で土を柔らかくする。
3. 室内であらかじめ萌芽させておいた野菜類の苗を植える、植える、植える。
4. 肩こりからくる頭痛でダウン。
こんな感じです。
現在畑には、さやえんどう、きぬさや、ブロッコリー、なす、ガーデンサルサ(チリペッパー)、ディル、コリアンダー、枝豆、レタス、ほうれん草、いも各種、トマト、きゅうり、コーン、ガーリック、玉葱各種が植わっています。
結構働いている気分。
今週は、来学期の授業のアウトラインを作って、あと学会用のネタを2本ほどまとめる予定。

ところで私とステチーは共に、sdf.lonestar.orgというオタク系ホスティングサイトを使っているのだけれど、ステチーが最近ここのアップグレード会員(年会費がかかる)になったことでステッカーとか会員証とかが送られてきた。それと一緒にメンバーの一人がやっているとかいうバンドのシングルCDも送られてきたのだけれど、聴いてみたらまるっきりMy Bloody Valentine(っぽいギターのエンドレス逆ループノイズ)でなんだか懐かしかった。
この辺のギターポップやパワーポップ、Si-Fi系の初期エレクトロニカというのは90年代に大学生をやった人たちにとってはやっぱり特別な思い入れを感じる領域なのではないかと思う。こじんまりとまとまった、内へ内へと向かっていく音のループ、延々とつづくダラダラ低温ノイズ、単調で終わりのない構成、何をいっているのか分からない、意味すらもないつぶやきボイス。時折、思い出したかのようにがんばって声を張り上げたりしてみるも、それすらすでに脱力モード。あぁ、90年代って感じだ。
でもこういう感じの音って今でもカレッジポップの王道だったりもするみたいだから、特に90年代的ってわけでもないのかな。どっちにしろ、一生聴くわけではないけれど、一生の内一度は通る道だったりするのかもしれない。今ではこういう音楽にこれっぽっちもシンパシーを感じないしこういう音楽を語ることにも興味はないけれど、でもやっぱり懐かしい。こういう音やこういう音について語ることを必要としていた時というのがあったよなー、っていう、そういう懐かしさ。
なんというか、この辺の音楽が持っていた音楽史的な重要性というのは意味のそぎ落としにあるのかもしれない。歌詞の内容が大文字の世界というかそれまでロックが作り上げてきた「物語」みたいなものから切り離されてどんどん他愛もない個人的な方向へと進み、メッセージ性を持ったものから単なる日常の描写へと移っていったのは90年代になってからだと思う。もちろんそれまでだってメジャーに対するアンチとしてそういう傾向の音楽をやっていた人たちはいるけれど、それが単にアンチではなくメジャーになったのは80年代の終わりから90年代にかけてのことだろう。
やがて歌詞の意味なんてものも意味を持たなくなり、ボーカルはメッセージを伝えるというよりは単にギターやベースと同じ音を生む装置という役割を担っていくようになる。キャッチーなメロディラインは曖昧ではっきりしないギターのザクザクしたノイズに取って代わられ(そこからメロディ路線に立ち返ったのが西海岸系のパワーポップやネオアコ、90年代ブリットポップになる)、何かを表現したり何かを伝えたりすることから、少なくともそういう分かりやすさからは距離を取ろうとする。じゃあ、何が音をかき鳴らすことの目的になるかというと、それは例えば今頭上を見上げた瞬間に目に入ってくる雲の流れに近付くこと、あるいは日常の他愛もない一瞬にぶわっとわき上がってくる個人的でノスタルジックな瞬間に近付くことになる。繰り返しになるけれど、他愛のないものの表現だって表現なのだろうし、こういうタイプの表現がそれまでなかったわけではないけれど、こういうちっぽけな表現というのがある意味広く受け入れられるようになったのはやっぱりこの頃からなんだと思う。ローファイだとかの流れもそうだけれど、その辺の人が部屋で8トラックとかをいじくりながら今日食べたものとかについて歌う中にこそ一種のアクチュアリティが宿るのだと認識されてくるあの感じ。付け加えるならば、80年代のガレージから90年代の自分の部屋への移動っていうのは音の制作環境だけでなく音を作る心構えとかバンドの構成とか音の構成とかにも大きな影響を与えたと思う。
大きな物語や世界観から離れてひたすら小さな単位の個へと向かっていくこの感じは音楽だけじゃなく、広く当時の文化一般についていえることでもある。そして当時の文化が根本的に抱える暗さというのも、多分そういう大きな流れの変化と無縁ではないような気がする。
もちろんこういうちっぽけさの問題というか失敗はすでに証明されているわけだけれど。でも当時の文化的な風潮から受けた影響はやっぱり私の中ですごく大きなものとして残っている気がする。

まぁ、そんなわけで、ひょんなことからノスタルジックな90年代の想い出と直面させられた私は、ステ実家の物置きに置きっぱなしにしてあった昔のCDを引っ張り出してきて、生産性とは対極に位置づけられるようなぼんやりとしたノイズ漬けの一日を送ったのでした

世代と異文化許容能力

ところでNYC滞在の理由は友人母子と観光するためだったのだけれど、今回年の離れたゲストを迎えてみて改めて若い人の異文化適応能力に気付かされた。二人とも今回が初めてのアメリカ旅行、というか非アジア圏への旅行だったのだけれど、お母さんの方が、どちらかというとある程度スタンダードな、というか悪く言うとステレオティピカルなアメリカ像、アメリカ人像みたいなものを強く持っていて、それを通していろいろなことを判断する傾向がある一方、友人(私より5歳くらい年下)の方は英語も話せないのに、それなりに何でも起こることを「まー、こんなもんかなー」とか「おもしろい」といった感じで臨機応変に受け入れ、反応していくような所があって、すごいなぁと思った。

ちょっと前にB大図書館においてある文藝春秋(本当にこれが私の唯一の娯楽になりつつあるよ...)で新たしい年に向けての豊富というか展望を各界の著名人に聞くみたいな特集があったのだけど、そこで中島義道が言っていたことを思い出したりした。この文藝春秋というのは、いっちゃ悪いけどあまりレベルが高いとは思えない。基本的にしょうもない政治ゴシップとかコラムばかりだし、たまに載る文芸批評もどうしようもない(だいたいどうして「親からもらった身体に傷をつけるというのはどーのこーの」なんていう文章が『蛇とピアス』の批評として掲載されるんだ。他にも「痛そうで最後まで読めなかった」とか「見かけのわりにちゃんとした文章だと思った」とか、本気で紙の無駄だと思うような文章の羅列で読んでいて怒りが湧いてきた)。でも読んでいると一人ぐらいはまともなことを書いている人がいて、「新しい日本はこうなる!」特集の時の中島義道がその一人だった。
その特集に寄せられた回答の多くは、政治・経済の改革万歳みたいな現政権よりの話題と、最近の若いものに対する年よりじみた批判で構成されていたのだけれど、その中で中島義道だけが唯一、いや、最近の若い人って結構いいじゃん、という話をしていた。彼の主張を支えているのは以下の3点。
1. 最近の若者は無知だとかいうけど、昔のろくに教育も受けられなかった世代の若者はもっと無知だった。
2. 最近の若者はやさしい。そのやさしさはキャリアだとか経済的な豊かさを獲得するためにやっきになっている/た親世代に対する反省的な所がある。
3. 最近の若者は異文化に対する許容度が圧倒的に高い。西欧に対する劣等感や歪んだ対抗心もないし、外国でも物怖じしない。外国人を見ても驚かないし、基本的人権に対する理解や差別に対する問題意識もひと昔前の世代に比べれば格段に上がっている。
もちろん、こういう見方に当てはまらない人も多いだろうし、すべては相対的な基準でしかなかったりもするわけだけれど、中村氏の観察はあながち的外れとも思えない。特に3については本当にその通りだと思うことの方が多い。
例えば今時の若者で「黒人=犯罪者」といった見方をする人ってどれくらいいるのだろう。もちろんそういう見方がまるで残っていないとは言わないし、やっぱり時と場合によっては黒人の集団を前にして白人の集団に対しては感じないような恐さを感じることがある、という風に言う人はいるけれど、少なくとも最近の若い人というのはそういう見方が差別的であるという意識は持っている気がする。少なくとも「黒人だわ。恐いわねー」といった発言を無意識にするような人はいない(一般的に見てね)。でもそういうことを平気で言う人がちょっと上の世代になると出てきたりして、もう、何というか、これは怒るというよりは単純にあきれてしまう。でも一方で、その世代の人たちがアクセスし得た文化というのは、そういう凝り固まった、あるいは差別的な人種観によってのみ構成されていたわけで、そう考えると無知であることはつくづく暴力的だとも思う。
それに比べて、最近の若い人はといえば、ズボンを腰まで下げてバスケのユニフォームとか着て、一日かけてブレードしてヒップホップ大好き!とか黒人かっこいい!とか言っちゃうわけで、これってやっぱりすごい変化だと思うんだけど。だからといってそういう若者たちが無知の暴力性と無縁かといえばそうではなくて、やっぱりそこにはステレオティピカルな黒人観だとか表面的で過剰な憧れとかいうものがあって、それはそれで無知と等しく暴力的なものだとは思うのだけれど、でも、それでも最近の若者(というかこういう言い方しかできない自分がとてもイヤなのだけれど...)の穏やかさというか、ちょっと引いた感じだとか、あれがいい、これが好き、と言ったかたちでいろんな文化をある意味節操なく受けていく感じというのは、嫌いではない。どちらかというと私なんかの世代はそっちに近いのだろうな、とも思うし。

うん、まぁ、とにかく、黒人に対する見方というだけでなく、本当にいろいろな場面で世代間の異文化許容能力の差を目の当たりにすることになった今回の観光旅行でしたが、友人母子やS氏のアメリカ観というものがどういう所から来ているのかを考えるという点では非常におもしろかった。あとおいしいものもたらふく食べた。

heavy duty S氏のパフォーマンス

ここ一週間ほど、これって厄週間?と思うほどいろいろなトラブルが続いている。一番大きいのはアーティスト・イン・レジデンスでNYCに滞在していたS氏がパスポート、航空券一式の盗難にあったこと。直接トラブルが私に降り掛かったわけではないけれど、一緒に警察に行ったりしたせいか何となく精神的に落ち着かない所があったり。他には地下鉄乗り間違えてヘリコプター観光に遅れたり、ホテル側が無料と言っているエキストラベッド代を日本の旅行代理店側からふっかけられたり、まぁ、小さいトラブルがいくつか。昨日も受けるはずのフラ語の試験の問題が無くなったり、そのせいで試験時間が短くなったり。今日はこれまでコンピュータ三台起動しながらマイクロウェーブでポップコーン使っても落ちたことなどなかった電気のブレーカーが落ちたり(しかもこっちのものってただスイッチを戻せばいいという感じの作りではないのでやっかい)。毎日何らかのトラブルが... そういえば我が家の本棚も最上部に本を積み上げ過ぎているせいで、重みで支えに使っている箱の形が崩れて来ていて微妙に前のめりな感じに。本棚崩壊の時は近いかと(しかし直す気はなし)。

ちなみにS氏のパフォーマンスは盗難事件のせいで一回はキャンセルになったものの帰国直前の水曜日になんとかすることができた。ギャラリーのあるクイーンズからタクシーを拾ってタイムズ・スクエアに出た後、ブツを背負ってタイムズ・スクエア周辺を闊歩。32nd streetぐらいまで歩いて、エンパイヤ・ステイト・ビルディングをバックに写真を撮り、チェルシーのギャラリーでちょっと遊んだり。ちなみにS氏、パスポートの再発行の件でお世話になった旅行会社の人から「テレビで見たことあります!」(大分前に『たけしの誰でもピカソ』に出たことあり)と握手を求められたらしい。
そんなS氏のパフォーマンスというのは、タイヤのチューブを使って作った黒くて巨大な彫刻を背負いつつ、団塊の世代のビジネスマンにとっての記憶とか憧れとか痛みみたいなものを掘り下げていく...と、まぁ、かっこよくいえばそういう感じなのだけれど、実際は見た目もよれよれでスーツもよれよれで、パフォーマンスと言ってもだらだら歩いているだけで、まぁ、全然スペクタクルな感じではない。もちろんそこが重要なのだけれど。
ちなみに今回、こういう人がくるんだヨ、とS氏とS氏のプロジェクトのことを友人に説明するため、私は"unresolved past"というタームをよく使った。中年のビジネスマン・アーティストが来て、黒い彫刻を背負って歩くんだけど、と言う時に真っ先に来る質問は「何でそんなことしてるの?」というもので、そうだ、S氏はなんでこんなことをしているんだろう、と思った時に、多分一番しっくりくるであろう説明が「彼の中の解決されていない過去を見つめるため」というものだった。ただ、その後もいろいろ考えた結果、S氏の彫刻の中に入っているのは"unresolved past"というよりは"unresolvable past"とに近くて、S氏自身も彫刻を背負うことで解決されえなかったものを何とか昇華したいなんてことは多分、考えていない。彼の彫刻に込められているのは、団塊の世代が経済的成長だとか標準的中産階級の価値観だとかいったものに乗っかって行く過程において見ないふりをしてきたもの(学生運動の渦中において経験したことや体制的なものの暴力や会社中心主義の歪みや紋切り型の家庭像の裏側などなど)なわけだけれど、団塊の世代が抱え込んでいるこうしたもろもろの歪みだとかしっくりいかない思いというのは、何かそれを見つめ考えることで解決しうるような何かではなくて、ただ、どうにも取り除きようのない痼りみたいなものとして、ごろりとそこに転がっている。S氏がやっていることは、強いて言えば、その痼りの存在を、ごまかしきれないものとして人々の面前にさらし出すということなのだと思う。それをいかにも団塊の世代の良さも悪さも全部持ち合わせているような(勢いとか勢いだけの無責任さとか、微妙な倦怠感とか)S氏がやるものだからおもしろい...というよりは心に響く。哀愁がある。
でも本当に、50代のアーティストはいっぱいいるけれど、自分で会社をやっていて、それなりに安定した生活があって、普段はスーツしか着たことないようなタイプの人が突然思い立ってチューブを膨らましはじめ、それを担いで韓国だ、沖縄だ、アメリカだって出かけて行く、そのパワーというか衝動というのはどこから来るのだろう、といつも考えてしまう。S氏の飄々とした立ち振る舞いからはアートをする強い衝動みたいなものは今ひとつ見えにくかったりするのだけれど、でも、だからこそ興味をそそられるものがある。とにかくこの世代のアーティストとして、私は個人的に一番共感を感じているし、体力の続く限りチューブを膨らまし続けてほしいと思っていたりする。

ちなみに今回彫刻を二つもって来ていたので、私も一つ背負って一緒に歩いたのだけれど、これがすごい重い。空気しか入っていないはずなのにすごい重い。しかもバランスが悪いのでつい前のめりになってしまう。S氏が背負っている彫刻に至ってはその二倍の重量があるのだから、その重さは想像を絶するものがある。S氏もこれを背負うためだけにジム通いしているらしいし...って、ホント、そんな生活どこか間違っているYO!という気がしないでもないけど。
おもしろいのはパフォーマンス中、話しかけてくるのが中年の男性が多いことだ。やっぱり同年代の人が何かやっていると気になるものなのだろうか。そしておもしろいのは「これはなんだ」という質問に、S氏が「お前だって見えないだけでいろいろ背負っているだろ」とS氏が答えると、はたと考え込んだあと、しばらくしてみんな一様に「そうだな」とうなずくことだった。「家族とか会社とか子供とかな」と言うと、またうんうんとうなずいたりして、なんだかすごく親近感のこもった眼でS氏を見たりするのだ。いやぁ、結婚もせず子供を産むつもりもなくしかも無職の私が一緒にこれを背負わせてもらったりして良いものか、と、強い絆で結ばれつつある中年男性群の横でちょっと真剣に考え込みました(嘘)。
あと思ったのは、S氏が「ここに行きたい」「ここで写真を撮りたい」と言って選ぶ場所が私たちの世代が観光で訪れる場所と微妙にずれているということ。今時ナスダックの前で記念写真撮る人なんているのか? しかもエンパイヤ・ステイト・ビルディングだし。でも団塊の世代の日本人ビジネスマンにとってナスダックの電光掲示板を流れる現在の株価表示っていうのはやっぱり特別な意味があるのだろうなぁ...... エンパイヤ・ステイト・ビルディングも、「やった、俺はとうとうここまできたぞ」的な思いの象徴なのだろうなぁ...... まぁ、S氏の場合は戦略的にそういう所を訪れているわけだけれど。やっぱり哀愁......

BBQ

この春初めてのBBQはM宅で。
Mのドイツ行きとKの就職とステチーの出稼ぎ終了を祝って。
K&Lが先日結婚したことは日記に書いたけれど、今日パーティに顔を出したP&Rも先週結婚したらしい。「お祝い事だらけだね」なんて笑ったり。
私は基本的に人と打ち解けるのにすごい時間がかかるのだけれど、3年近くたって、やっと最近こっちで知り合った友人たちとの関係に心地よさを感じてきた気がする。みんななんだかんだ言って似た者同士な所があるせいかもしれない。
それにしてもLにしてもRにしても、私の周りの女子はシンプルで、よく言えばナチュラル、悪く言えば女子度の低い人たちばかりだ。類は友を呼ぶのか。あんまりみんな忙しそうじゃないという所も似ているかもしれない。実際は子供が生まれる直前だったり、卒業間近だったり、論文を書いていたりして、決して暇ではないんだけど、あんまり切羽詰まっているようには見えない。ある意味安定感がある。まぁ、どうにかなるだろう、みたいな、適度な投げやり感によって支えられた安定。
それにしてもLとRが旦那のお母さんの文句を言い合っている姿がなんだかほほえましかった。「腕の毛を剃らないときたないって言われるのヨ!」とか(それはあなたの女子度が低いからでは...)。「結婚したら次は子供とマイホームっていうプレッシャーが...」とか。万国共通、姑との確執? 二人とも旦那の家族が割とアッパー寄りで学歴やキャリアを重視するタイプで息子の教育にお金を注ぎ込んでいる感じなので、それに見合った嫁(学歴や身なりにおいて)になれ、というプレッシャーを感じるみたい。大変だなー。

ちなみにLもRも結婚することにしたのは子供のためだという。Lは現在妊娠中だしRは今年中に子供を作る予定だとか。結婚するのってやっぱりそれなりに手続きとかあるし、お互いの両親との関係とかも考えたりしないといけないし、やっぱりそれなりの理由がないとねー、ということらしい。私とステチーも、結婚をまるで考えていないわけではないのだけれど、今の所最後の一歩を踏み出す理由に欠けるので、結局、まぁ、必要になったらすれば良いよね、という曖昧な所で落ち着いてしまう。子供を作るつもりのない共働き(=保険とかもちゃんとある)のカップルが結婚する理由って何なのだろう。

そして明日はNYCに滞在中の某チューブ・アーティストに会いに行くつもり。ずーっと昔の日記で触れたことのあるS氏。最近、黒くて邪悪なチューブ彫刻を背負っていろんな所を訪れるというプロジェクトをしているのだけれど、今回念願かなってNYCで彫刻背負ってうろうろできる運びになったというわけ。あぁ、でも、どこからみても怪しい。すごい怪しい。どうかパフォーマンスの途中で警察に撃たれたりしませんように。
その後、月曜日には友人と友人母がやってくる。NYC観光名所を制覇する予定。おいしいものもいっぱい食べる予定。

 
May 2004
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