誠実さについて

d_birthday.jpg形ばかりではあるのだけれど一応フランス語の勉強という名目上、ブラウザのホームはLe Monde紙にしている。普段は開いてすぐ別のページへと移動してしまったりすることも多いのだけれど今日はトップ記事に目が釘付けになった。ブレッソンが亡くなったらしい。
それなりの知的好奇心を持ったごく平均的な大学生として私も学部時代はそれなりに本を読んだりアートに触れたりしていたわけで、そうするとやっぱりブレッソンだってかっこいいとか思っていた時期があるわけで、当時はブレッソンが生きているのか死んでいるのかなんて余り考えたこともなかったけれど、死んだといわれると、そうか、ブレッソンも死んだのか、と、それはそれでちょっと感傷的な気分になったりもする。まぁ、95歳らしいから大往生ではあるわけだけれど。それにしてもなんというか、一時期影響を受けたりした人が次々に死んで行く状況というのは、年齢的な順番でいえば当たり前ともいえるわけだけれど、否応ない時間の経過みたいなものを感じてちょっと切なくなったりもする。

それはともかく、最近また鶴見俊輔をまとめて読み直したりしている。
きっかけは父親が送ってくれた『戦争が遺したもの 鶴見俊輔に戦後世代が聞く』と題された対話集(小熊英二と上の千鶴子が鶴見俊輔にいろいろ質問する形ですすんいく)で、これがおもしろくて、鶴見熱が再発した感じだ。
誰にでも、ことあるごとに立ち返る、あるいは何かあった時に「こんな時あの人ならどう考えるだろう」と思ったりする対象が一人ぐらいはいるのかもしれなくて、もし私にとってそういう人がいるとすれば、それは鶴見俊輔だと思う、というくらい私には鶴見びいきな所がある。なぜだかは分からない。半分刷り込みのようなものかもしれない。若い...というよりは幼い頃に入れこんだ思想家への愛着というのはなかなかぬぐい去ることが難しい。

そう、興味がある、とかいうレベルを超えて、私の中には鶴見氏に対する確固たる信頼みたいなものがある気がする。思想家についてそういう気持ちを持つことは、私にはとても難しいことのような気がするし、実際とても難しいことだと思うのだけれど、鶴見氏に限ってだけはそういう気持ちが私の中で成立しうるところがあって、それが自分でもとても不思議だ。
この場合「信頼」というのは彼のある時期の思想にたいするものではもちろんなくて、彼の考えるマナーあるいは表現するマナーのようなものに対するものだと思う。いや、彼のものの見方一般についても常に共感を覚えるわけではないし、彼が立つ場所からは見えないものがあるということももちろん分かってはいるし、それを問題だなぁと思うこともあるわけだけれど、それでも、揺らぎや曖昧さや間違いやためらいなんかを含みつつも、どこかギリギリの部分で誠実さというものを保っている彼の姿勢に信頼を覚える。取り繕ったりちょっと嘘をついたりごまかしたりすることが思いのほか簡単にできてしまう世界にいながらそれをしない、という、それだけといえばそれだけのことなのだけれど... そう、それだけのことなのだけれど。

鶴見氏の大衆についての考え方を見るとよく分かるのだけれど、彼にはとりあえず大衆に全面的な信頼を置くという態度が最初にあって、それは大衆が間違いを犯した(という言い方は適切ではないと思うのだけれど)としても絶対にかわらない。でも彼が大衆に対して持っている全面的な信頼というのは大衆がやることは何でも善といった考えとイコールではもちろんなくて、全面的に信頼をおくからこそ、その行動に自分も等しく責任を追っていくのだという意志や、大衆の思想や行為といったものを真剣に考え反省していこうとする態度へとつながっている。つまり鶴見氏の文章には、対象、あるいは対象がある時期あるコンテクストに置いて持っていた力に対する揺るぎない信頼と、信頼を寄せることで派生する責任の意識とが共存しているのであって、それが彼の文章にある種の誠実さを付加することになるのだと思う。

なんだかファンレターのようになってしまったけれど、先の対話集は鶴見氏の良さも悪さも...というよりは弱い部分もすごい部分も両方バランス良く配置されている感じでよかった。対話の中で小熊氏らが、鶴見さんが評価する人はみんななぜか変な方向へいってしまう、というようなことを言っていて鶴見氏が苦笑する場面もあったりして。うん、でも、やっぱり、そういう割とすぐぼろを出したりつじつまが合わなくなって困ってしまったりする所も含めやっぱり好きだなーと思ってしまうのだから、私の鶴見氏びいきはやっぱり筋金入りなのかもしれない。

そんな感じで過ごしているうちに、30歳の誕生日を迎えました。
30歳になって真っ先に得た知識は、よしもとばななと私の誕生日が2日違い、年齢は10歳違いということでした。

隙間から生まれるものたち

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友人が送ってくれた江國香織の『流しのしたの骨』に流れる空気がなんだかとても好みで、あぁ、この空気、これはなんなんだろうと考えているうちに「主婦的思考の宿る場所」という単語に行き着いた。カテゴライズしたりされたりするのは苦手なくせに、自分が何かについて語ろうとする時にはまずキャッチフレーズになるようなタームから入るという、この適当さ。でも、一年前に割といろいろ思うところあった「中年独り者文学」につぎ、最近はこの「主婦的思考の羅列文学」みたいなものが気になっていたり。

『流しのしたの骨』は淡々とした家族の日常を描いた小説......になるのかな。個別に見ればなんだか妙ちくりんな人同士が、これまた外から見るとよく分からない不思議なルールにのっとって家族という、奇妙でありつつも絶妙なバランスを作り上げている、そのバランスそのものをふんわりと描き出したような感じの小説で、そういう小説のありかたそのものを支えるものとして「主婦的」な時間の流れというか思考というか、とにかくそういうものがあるんじゃないのかな、と思ったのだった。
ここで大切なのは「主婦的」という部分で、これはあくまでも「専業主婦」でなくてはならない。できれば社会経験などほとんどないような、あるいは社会的なものから一歩距離を取っている、あるいはとれるタイプの、そういう「専業主婦」であってほしい。というのは、まぁ、ひどく勝手な専業主婦像のねつ造じゃん、と思われるかもしれないけれど、でも、悪意を持って言っているわけではないので許してほしい。言葉をかえれば、小さい頃からおおらかで割と何不自由なく育てられて、大きな挫折も感じず、与えられた幸せの域を越えるような無茶もせず、そんな人生をそれなりに愛していて、そんな人生にそこそこ満足している、といった、そういう安定感というか心のゆとりを持った人がかもしだす一種のバランス感覚という風にも言えるかもしれない。もちろんそれなりに危機と思われるような出来事も経験し、いろいろな悩みを抱えつつも、どこか崩しようのない安定感を保ってある、そういう存在。

『流しのしたの骨』を支えているのはまさにそういうぼんやりしてはいるけれど、なんだかとっても安定した、そういう存在の何かなのだと思う。そしてこの小説に限っていえば、そういう安定感を生み出している存在は「お母さん」なのである。お父さんの前では常にすっぴんで、毎日の食卓を小枝とか葉っぱとか石とか、そういうもので飾ることをはじめ、生活の細部に関するちょっとしたこだわりをいろいろと持っていて、社会に出ることもなく4人の子供を育て、子供たちが手がかからなくなってからもとにかく何かを世話せずにはいられないような所がある、お母さん。いつでも家にいて、なんでも、まぁ、そんなもんよね、みたいな感じでおおらかに受け止めつつ、そのくせ時にこちらにとっては理不尽とも思えるようなとんでもない要求を投げかけてきたりする、そういうお母さん。
小説の主人公はことちゃんという19歳の暇な女の子なのだけれど、でも、小説全体をまとめあげているのは、このお母さんなんじゃないかと思う。この、ことちゃんにしても、このお母さんなしでことちゃんはない、と思えるような、そういうおおらかさと年齢に不釣り合いにも思える安定感を持っていて、停滞しているようで実はすべての可能性を内包しているような、そういうよく分からないパワーに満ちている。

ちなみに『流しのしたの骨』を、主婦的な空気によってまとめあげられた小説だとすると、主婦的な空気が産まれる場所、あるいは主婦的な思考の流れそのものを戦略的に描きだそうとしているのが保坂和志かもしれない。
保坂和志は『この人の閾』において、主婦のいる場所を「家庭の”構成員”のそれぞれのタイム・スケジュールの隙間のようなところ」(その後「それでは”中心”はどこにあるかといえばたぶんそんなものはない」と続く)なんだろうと言い、彼の小説というのはつまりのところ、『この人の閾』に限らず、そういう「隙間」からしみ出てくるような言葉だとか記憶だとかの羅列のようなものだと思うのだけれど、彼の場合は「隙間」からしみ出るものをつらつらと書き連ねることによって「隙間」そのものを描こうとするような所がある。江國香織の『流しのしたの骨』やその他どちらかといえば女性的かつ主婦的な視点で書かれたものが描き出すのは「隙間」を(必要な条件として)あらかじめそこに含んだ全体の風景であって、それにしたって全体の風景を支える、あるいは生み出す隙間の認識なくしてはできないことだけれど、でも小説の構造において隙間が持つ意味という点で保坂和志のやり方とは区別されるような気がする。

ところで意外に思われるかもしれないけれど、私にとっての主婦作家の代表というのが川上弘美で、私はこの人の、特に短編を読むたびに、どうしようもなく主婦的な何かをそこに見いだしてしまう。一見脈絡のない出来事の羅列というか展開。身近なものが、そうは見えないけれど、でも実はそうであったりするかもしれない何かへと変身していく過程。洗濯物を干していたり、買い物にでかけたり、という所から始まる、あるいは公団住宅の一室で広がっていく物語。他愛もないものが突然思いもかけない仕方でその存在を露にしたり、一般的な価値基準があっけらかんと逆転されてしまったり、そういうことが往々にしておこる状況。んー、普通の主婦はあんなに奇想天外なことは考えないものなのかもしれないけれど、あの思考のきっかけとか展開の仕方が、私にとっては主婦的に思えてしょうがなかったりする。奇想天外なのに妙な安定感があったりするせいかもしれない。この妄想と紙一重の安定によって家庭という微妙なバランスは保たれているのかもしれないと思ったりするのだ。

なんだか互いに脈絡のない作家の羅列になりつつあるけれど、保坂和志の、例えば『この人の閾』とか『カンバセイション・ピース』と江國香織の『流しのしたの骨』が主婦(夫?)的であり得たのは、主人公ならびに主要登場人物の暇さ加減に負うところが大きいかもしれない。とりあえず今は何もしていないといった状態だったり、仕事はしているけれど、のらりくらりと重要なポストを避けていたり、野球ばっかり見にいっていたり。特にめりはりがあるわけではないけれどたんたんとした時間の流れや社会から一歩退いた、でもそこに対する意識は常に持っている感じや、その他もろもろの条件が揃って初めて、こう、どこからともなく浮かび上がってくるような思考の数々。それらが生み出される場所。あるいはそこから生み出されるものによって支えられている世界。
その魅力が何なのか、私はまだ掴みきれていないのだけれど、でも、主婦的な世界が持つ一種の深みみたいなものがなんだかとても気になっている。

大人の世界

ここ一週間ほどの暖かさで舗道の雪はほぼ全部なくなってしまった。
この時期にしてはめずらしい。

最近は功利主義とかをがんがん読む一方で、気分転換にフーコーの"Dits et ecrits"(ecritsのeの上にはアクサン)などを眺める日々。いや、フーコーいいなぁ、やっぱり。
どうにかしてフーコー的な主体概念を環境倫理における議論に結び付けたいのだけれど...できそうでできない。やはり分析哲学と大陸哲学は水と油なのか。

昨日は図書館で過去数号分の環境倫理学関係の学会誌のコピーを。
たいがいのものは揃っているのだけれど、なぜか環境系の大御所、Environmental Valueだけはいつになっても購入してもらえない...なぜ?
そして大学のAsian and Asian American Studiesが大口のグラントを獲得した二年前にダメもとでお願いしてみた『現代思想』と『情況』は、買ってくれるという連絡が半年以上前にきたきり、一向に入荷されるそぶりがない。私が卒業するまでに入荷してくれるのだろうか。というか、私は卒業できるのだろうか。

ちなみにB大図書館にある日本語雑誌で唯一の娯楽系、文藝春秋に芥川賞を取った二作品が出ていたので読んでみた。おもしろかった。
金原ひとみはこれが処女作なのでなんとも評価のしようがない所があるけれど、そして村上龍っぽいとか言われる部分もなんとなく分かったけれど、でもテンポがよくて、ところどころ引き付けられるものもあってよかったと思う。
綿矢りさは、なんというか、ありふれた出来事をさらりと書いているようで、実はすっごい粘着系っていう所が魅力なのだと思うけれど、『蹴りたい背中』でもその粘着質な部分がちらちらと見えて、ニヤニヤしてしまった。よい意味で。

ただ二人とも、こういう言い方は嫌だけど、やっぱり若いせいか、自分が書けないものについてすごく紋切り型な表現をしたり、そういうものを意識的に避けていこうとしているような所があるのが気になった。ちなみにここで彼女たちが書けていないのは社会とか大人の領域みたいなもので、例えば綿矢はそういうものをできるだけ排除した、そこにたどり着く以前の、ある意味抑圧された高校生の世界みたいな部分に閉じこもろうとするし、金原は、そういうものがあるとは意識しつつも、あえてそれに背を向けるような形で、これまた限られた領域に閉じこもろうとする。
問題は閉ざされた世界に固執する点にあるのではなく、そのことによって、その外にある領域やそこで生きている人々のことをひどくずさんに扱ってしまう態度にある。彼女たちの小説には、いわゆる「大人」や「社会」を表象するものたちがそれなりに登場はするのだけれど(金原の場合は子供を連れた女性とか警察、綿矢の場合は母親や先生)、それらの描かれ方は極めて表面的で、それぞれの人物に与えられる役割も極めて限られている。だけど、本当はそういう「大人」たちにも、彼女たちの小説のメインキャラクターが感じているようなきめ細かな感情の起伏や、多面的な要素や、世界に対する漠然とした疑問といったものがあるはずなのであって、そういうものを見ないふりして描かれた世界というのは、深味にかける上にどこかいいとこ取りな気がしてしまう。

一見何の特徴もない、世俗的な人間を描く時にこそ、ステレオタイプに走らないよう最新の注意を払うべきなのに。そしてそういう人間の姿を詳細に描いていくことの内から、思いもかけないような世界の広がりみたいなものが見えてきたりするものなのに。
なんてことを考えてしまうのも、私自身がすでに、どちらかといえば「社会」の側にいて、彼女たちの描く世界から離れてしまっているせいなのかもしれないけれど...
でもほんと、いろんな意味で今後が楽しみな人たちだと思う。

中年独り者作家エッセー

東京に来て以来、一日2〜3冊のペースで小説やらエッセー集やらを読んでいる。
最近はまっているのは中年独り者作家のエッセー。

津野海太郎(独り者ではなくなってしまったけれど)の『歩くひとりもの』(ちくま文庫、1998年)はとても良かった。どうも男性のエッセーというのはなぜか共感できるものが少ないのだけれど、彼のエッセーにはめずらしく共感できるつぼがいっぱい潜んでいた。なんというか、若いつもりでもいろいろガタがきていることを意識せざるを得ない中年独身男性のみじめさ...というと聞こえが悪いけれど、「しょうがねーなー、まったく」っていう風に自分の肉体的な老いと、それをいまいち認識しきれていない精神とを苦笑いしながら傍観している感じの、そんな適度なみじめさがいいのだ。若さだけでつっぱしるような青春小説や、若さゆえのふわふわしたシニシズムが鼻につく創作より、中年的視点できりとられた世界というのが、最近すごくおもしろいと思う。小説にしても映画にしても。

でもって今日は、『歩くひとりもの』でも紹介されていたエリック・ホッファーの自伝(『構想された真実 -エリック・ホッファー自伝』中本義彦訳、作品社、2002年)を読んだのだけれど、これもまたよかった。ホッファーは幼い頃に失明したため、正規教育をいっさいうけることがなかった。15歳で突然視力が回復した後(そういうことってあるらしいね)、西海岸で、季節労働者(後に港湾労働者)として生計をたてながら図書館通いをして幅広い学識を獲得した。ある意味とてもアメリカ的な、プラグマティズムを地でいっている「沖仲士の哲学者」だ。私が個人的に愛してやまない中上健次の生き方の指標になった人でもある。

「人間という種においては、他の生物とは対照的に、弱者が生き残るというだけでなく、時として強者に勝利する。...弱者が演じる特異な役割こそが、人類に独自性を与えているのだ。われわれは、人間ノ運命を形作るうえで弱者が支配的な役割をはたしているという事実を、自然的本能や生命に不可欠な衝動からの逸脱としてではなく、むしろ人間が自然から離れ、それを超えていく出発点、つまり退廃ではなく、創造の新秩序の発生として見なければならないのだ。」(p67)
「...過去が現在を照らすというよりも、現在が過去を照らすのだ」(p144)
「どうも貨幣は弱者が発明したもののように思われる。絶対権力者はつねに金を嫌悪してきた。人びとが高邁な理想によって動機づけられることを期待し、自分の支配を維持するために結局、恐怖に訴える。貨幣が支配的役割を果たさなくなった時、自動的な進歩は終わりを告げる通過の崩壊は文明の崩壊の予兆である。金と利潤の追求は、取るに足りない卑しいことのように思われがちだが、高邁な理想によってのみ人々が行動し奮闘する場所では、日常生活は貧しく困難なものになるだろう。」(p146-7)
「慣れ親しむことは、生の刃先を鈍らせる。おそらくこの世界において永遠のよそ者であること、他の惑星からの訪問者であることが芸術家の証なのであろう。」(p147)
「私のいう仕事とは、生計を立てる為にする労働のことではありません。われわれは、労働が意義あるものであるという考えを捨てなければなりません。この世の中に、万人に対して、充実感を与えられるような意義のある職業は存在していないのです。自分の労働を意義深いものにしてくれと要求することは、人間の見当違いだと、かつてサンタヤナは言いました。産業社会においては、多くの職業が、それだけを仕上げても無意味だとわかっている仕事を伴っているのです。そういうわけで、私は、一日6時間、週5日以上働くべきではないと考えています。本当の生活が始まるのは、その後なのです。」(p166-7)

関川夏央の独り者シリーズ(勝手に命名)もおもしろい。海野氏に比べるとちょっと毒があるというか...なんとなく独り者である自分を受け入れきれていないような所がチラチラと見えるのだけれど、そんな弱さがまたよかったりもする。その俗っぽさゆえに、海老坂武さんのように、独りであることをほとんどある種の生の美学にまで昇華しているような人の文章よりも親しみやすかったりもする。海老坂氏は個人的にはとても好きな物書きというか思想家だけれども、彼の『シングル・ライフ』(中央公論社、1986年)なんかを読むと、まぁ、そんなに凝り固まった文章ではないんだけど、なんとなく、「んー、ここまで覚悟して独りであることを貫かなくてはならないものなのだろうか...」なんて思ったりするのもまた確かだ。でもまぁ、誰かと一緒になってそのまま子育てに翻弄されたり近所付き合いとか親戚付き合いに体力も気力も持っていかれがちな人たちより、独り者の方が、なにかにつけ「独りである自分」について思考することを求められる、というのはあると思う。家庭には哲学はなくて実践とか経験あるのみっていう気がするけれど、独り者は哲学になる。で、あるがゆえに質が悪かったりもするのだけれど。

ちなみに、中年女性が独りで生きることについて思考するエッセー集ってあるだろうか...と考えてみると、これがなかなか思い付かない。きっと存在はするのだと思うのだけれど、男性の独り者エッセーに比べると圧倒的に数が少ないような気がする。それに、あまりストイックでない中年独りもの男性のエッセーには、それなりに女っ気というか、女友達とかがよく出てくるように思うのだけれど、それに対して中年女性の独り者エッセーに男性や男友達が頻繁に出てきたり、その男友達と料理について語り合ったりすることってあるんだろうか。なさそうだ... 

中年独り者女性のエッセーの場合、どっか暗くてジメジメした感じになるか、あるいは姉妹のような女友達同士であっちこっち出かけたり、習い事を楽しんだりするリッチでキャリアもあって活動的な爽やかエッセー(でもイマイチ深みにかける)のどちらかにしかなりえないような気がする... なんてことを思いつつ読んだ上野千鶴子の『ミッドナイト・コール』(朝日文庫、1993年)は秀逸だった。

別に独り者としての自分の生について書こうという意志をもって書かれたエッセーではないのかもしれないけれど、中年独身女性を取り巻く諸々の人間関係、あるいはそのうちに嫌がおうにも取り込まれていってしまうようなある種の社会的環境、自分に向けられる視線、規定化の暴力、そういうものについて、時に強がってみたり、寂しがってみたり、楽しんでみたり、所在なさをもてあそんでみたりしながらたんたんと語る姿勢、それそのものが中年独りもの女性の日常をごく自然に写しだしているように思えてよかった。そして個々のエッセーを通して届けられる、彼女の何かを「伝えようとする意志」みたいなものが、時に甘く、時に切実で、なんだかとても後に残る一冊だった。

和製エスエム

ブックストアで、それぞれの授業に使われる指定図書を見てまわるのがスキです。本を見ると授業の内容だとか、インストラクターの目指していることだとかが見える。とても私好みな本ばかりを揃えている人とは、いつかお話してみたいと思ったり。


寝る前にベッドで本を読むことが多いんですけど、
気分転換になるような、なんというか、授業とは全く関係のない日本語の小説とか雑学事典っぽいものを読むことが多いです。
最近は、大分前にNYCに行った時に買ってきた『日活ロマンポルノ全史』(松島利行、講談社、2000)を読んでいます。
ちなみに、本の最後の「講談社の好評既刊」のページに載っている本のタイトルと内容が、結構おもしろくて笑っちゃった。

『ケイン・コスギのカッコいいBODYになりたい』(ケイン・コスギ)
「簡単に始めたい人から本格的に鍛えたい人まで、ケイン流の実践プログラムでカッコいいボディをゲット!!オール撮り下ろし写真!!」
(身体を鍛えたい人向けなのか、ケインの裸体をなめまわしたい人向けなのか、購買層がイマイチしぼりきれていない感じの宣伝文句)

『ちょっとしたヒトの叡智』(パキラハウス)
「ハイテクは鋭い。しかし、ローテクは温かく心地よい。ヒトの連鎖の中にある888項目のローテク技で、人間を取り戻して下さい」
(知りたい...人間を取り戻す888のローテク技...それにしても「ハイテクは鋭い」って...)

で、『日活ロマンポルノ...』の方なんですが、
本の内容と比べると、『全史』っていうタイトルはちょっと仰々しすぎるような気もするのだけれど、でも、ロマンポルノ初心者としては、なかなか楽しめた一冊です。ロマンポルノへと移行していった背景だとか、その過程における監督さんたちの苦悩、挑戦といった部分は分かりやすく描かれていると思う。なんというか、ロマンポルノの巨匠と言われるような人たちの助監督時代というか、誰の影響を受けて映画を撮っていたのかとか、そのへんの逸話が盛り込まれている辺りが個人的には興味深かったかと。

小沼勝とかね、大好きなんですけど。すごいまじめ社員で職人気質な性格の彼だからこそ、一連のSM映画をとおして、一種の小沼美学とも言えるような世界を表現することができたんだ、とかね。あとは、『花と蛇』を撮った後で、団鬼六から「SMを分かっていない」ってさんざんしかられた、とか。

ちなみに、『官能のプログラム・ピクチュア』からの孫引きで紹介されていた北川れい子の小沼映画批評は、すごく目から鱗!な感じでした。いわゆる本格SM映画の走りとして作られたはずのものが、どこか違う、何か違う...いわば「変格SM映画」になってしまった「一番の要因は、谷ナオミを責める側の、陳腐な描かれたかにある。夫にしろ、青年にしろ、その母親にしろ、いずれも純粋、本質的な倒錯志向者ではなく、夫は妻に対する欲求不満の単なるイヤガラセ、青年はマザコンと不能の自己嫌悪、母親は息子可愛さと、つまりサディズムの原因が、いかにもメロドラマ的なのだ」(p200-1)。

私は、このメロドラマ的な感じが、いかにも日本のSM、あるいはロマンポルノにおけるSMって感じがして好きなのだけれど。SM性というよりはメロドラマ性の方に、かえって強く引き寄せられる観客も多いと思うし。でも、本当に彼女の言う通りで、ロマンポルには「本質的な倒錯志向者」っていうのは登場しない気がする。登場できないのかもしれない。何で日活ロマンポルノに「本質的倒錯志向者」は存在し得ないのか、その辺もっと深く考えてみたい所だったり...

ちなみに、その夜は、寝ている途中で一回起きて、鼻をかんだのだけれど。どうやら寝ぼけていたらしく、ティッシュをゴミ箱に入れる前にまた眠ってしまったらしい。というわけで、朝目が覚めてみると、ベッドの上に『日活ロマンポルノ...』(カバー写真は『 女高生レポート/夕子の白い胸』からのワンシーン)とくしゃくしゃになったティッシュが。

ちょっぴり複雑な気持ちになってみたり。

 
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