大人の世界

ここ一週間ほどの暖かさで舗道の雪はほぼ全部なくなってしまった。
この時期にしてはめずらしい。

最近は功利主義とかをがんがん読む一方で、気分転換にフーコーの"Dits et ecrits"(ecritsのeの上にはアクサン)などを眺める日々。いや、フーコーいいなぁ、やっぱり。
どうにかしてフーコー的な主体概念を環境倫理における議論に結び付けたいのだけれど...できそうでできない。やはり分析哲学と大陸哲学は水と油なのか。

昨日は図書館で過去数号分の環境倫理学関係の学会誌のコピーを。
たいがいのものは揃っているのだけれど、なぜか環境系の大御所、Environmental Valueだけはいつになっても購入してもらえない...なぜ?
そして大学のAsian and Asian American Studiesが大口のグラントを獲得した二年前にダメもとでお願いしてみた『現代思想』と『情況』は、買ってくれるという連絡が半年以上前にきたきり、一向に入荷されるそぶりがない。私が卒業するまでに入荷してくれるのだろうか。というか、私は卒業できるのだろうか。

ちなみにB大図書館にある日本語雑誌で唯一の娯楽系、文藝春秋に芥川賞を取った二作品が出ていたので読んでみた。おもしろかった。
金原ひとみはこれが処女作なのでなんとも評価のしようがない所があるけれど、そして村上龍っぽいとか言われる部分もなんとなく分かったけれど、でもテンポがよくて、ところどころ引き付けられるものもあってよかったと思う。
綿矢りさは、なんというか、ありふれた出来事をさらりと書いているようで、実はすっごい粘着系っていう所が魅力なのだと思うけれど、『蹴りたい背中』でもその粘着質な部分がちらちらと見えて、ニヤニヤしてしまった。よい意味で。

ただ二人とも、こういう言い方は嫌だけど、やっぱり若いせいか、自分が書けないものについてすごく紋切り型な表現をしたり、そういうものを意識的に避けていこうとしているような所があるのが気になった。ちなみにここで彼女たちが書けていないのは社会とか大人の領域みたいなもので、例えば綿矢はそういうものをできるだけ排除した、そこにたどり着く以前の、ある意味抑圧された高校生の世界みたいな部分に閉じこもろうとするし、金原は、そういうものがあるとは意識しつつも、あえてそれに背を向けるような形で、これまた限られた領域に閉じこもろうとする。
問題は閉ざされた世界に固執する点にあるのではなく、そのことによって、その外にある領域やそこで生きている人々のことをひどくずさんに扱ってしまう態度にある。彼女たちの小説には、いわゆる「大人」や「社会」を表象するものたちがそれなりに登場はするのだけれど(金原の場合は子供を連れた女性とか警察、綿矢の場合は母親や先生)、それらの描かれ方は極めて表面的で、それぞれの人物に与えられる役割も極めて限られている。だけど、本当はそういう「大人」たちにも、彼女たちの小説のメインキャラクターが感じているようなきめ細かな感情の起伏や、多面的な要素や、世界に対する漠然とした疑問といったものがあるはずなのであって、そういうものを見ないふりして描かれた世界というのは、深味にかける上にどこかいいとこ取りな気がしてしまう。

一見何の特徴もない、世俗的な人間を描く時にこそ、ステレオタイプに走らないよう最新の注意を払うべきなのに。そしてそういう人間の姿を詳細に描いていくことの内から、思いもかけないような世界の広がりみたいなものが見えてきたりするものなのに。
なんてことを考えてしまうのも、私自身がすでに、どちらかといえば「社会」の側にいて、彼女たちの描く世界から離れてしまっているせいなのかもしれないけれど...
でもほんと、いろんな意味で今後が楽しみな人たちだと思う。

posted by f at 2004/03/03 22:07
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