ダラダラした日々に過ぎていく時間

大学の学部時代のことを振り返る時、あまりに自分が何もしていないことに驚く。
私は基本的に働き者ではないし、何もしないでいて良いと言われれば、いくらでもただぼーっとしていられるタイプではあるのだけれど、それにしても大学の最初の三年間の空白ぶりはすごい。
今でこそアメリカに住んでいたり、それなりにあちこち旅行したりするようになったのだけれど、当時の私は長期の休みだからといって積極的に働くでもなく、旅行に行くでもなく、一週間に二日程度のアルバイトをする以外は、本当にただ、家でぼーっとしていた。家にいるとはいっても、凝った料理をするでもなく掃除洗濯に励むわけでもなく、極力何もしないで、時々本を読むくらいで、ひたすらダラダラしていた。あの頃のダラダラぶりは結構すごい。
基本的に、一人でどこでも出かけていくし、引っ越しとかもよくするので、周りからは積極的に行動するタイプと見られたりすることもあるのだけれど、自分では、私は同じ場所にずーっといるのが合っているんじゃないか、と思うことの方が多い。というよりは両極端なのだ。

両親の実家が遠方にあったこともあって、小さい頃から長距離の移動をすることや、住んでいる家を長期間空けたりすることはよくあったのだけれど、そういう時にはいつも、わくわくするというよりは不安で不安でしょうがなくなったものだ。自分がそこ(普段住んでいる場所)にいない間に、何かが変わってしまったらどうしよう、という思いがすごく強かった。夏休みが終わって戻ってくる時には、すべてが変わってしまったような気分で、そんな自分をコントロールするのが結構大変だった。その場所で起こることのすべてを、目で見て覚えておきたいという気持ちがあったのかもしれない。あるいは、自分の記憶にあるその場所と戻ってきた後の実際の場所とのギャップに過度に反応してしまうだけかもしれない。とにかく、自分がいない内にいろいろなものが変わっていくことがすごく辛かった。

学部自体の空白も、もしかしたらそんな思いを反映しているのかもしれない、と最近思う。
狭いアパートでぼーっとしながら、部屋に入り込む光の具合や、外を通り過ぎる車の音や、その他もろもろの変化をひとつも見逃したくない、という隠れた衝動があったのかもしれない。なんて、しょせん怠け者の言い訳ですが。
ただ、困ったことに、こういう傾向が極端になると、学校に行ったり仕事に行ったりすることすら苦痛に感じるようになる。どんなに短い時間であっても、その場所を離れることができなくなる。厄介だし、ちょっと病的かもしれない。
すべてを把握することや記憶することはできない。過ぎ行くものはどうしようもない。といったことを自分の中でちゃんと理解できた、というか、ふんぎりがついたのはここ五年ぐらいのことだと思う。ずっと閉ざされた場所で生きていくことは多分できないし、すべていつか手の届かない所に行ってしまう。それはすごく切ないことだけれど、でも、だからこそ今が特別なものとして立ち現れてくるのだろうし、未来に思いを馳せたりすることもできるのかもしれない。

正直いってどちらが良いのか、自分でまだよく分からない所があるし、もし一か所で目の前の変化だけを見つめながら生きていけるのであれば、その方が幸せなような気もするのだけれど、でも、まぁ、いろいろな意味でそれは無理だということは分かっているし、切なさの内で見える幸せというのもあるのだろうとは思う。というか、そうでなければやっていけない、ホント。

posted by f at 2004/03/09 22:34
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