ストリップ in Dallas

「地元のおばちゃんとかがやる気なく脱いでいるような安っぽい感じのストリップが見たい」
という私の希望が尊重され,ダラスの外れにあるストリップバー地帯に車を向ける.
チャージが5ドルの小さなバーへ決定.
中に入るとまん中に大きなステージがあって,周りにテーブルが置いてある.
バーの中には,あの映画でよく見るような棒が2本立っていてブランコも1つある.
週末なせいかストリッパーの数は多い.年齢は思ったよりみんな若い.しかしやる気はなさそう(笑).
男の人たちもこんなやる気の無さそうな女の子を前にしてよくがんばれるよな.
客はカウボーイハットをかぶった男の人とか,小金持ちっぽいおじちゃんとか,中年カップルもいた.
このカップルはテーブルに座ったきり会話もなく楽しそうでもなく,ただステージを眺めていた.
シュールだ.

女の子達はステージ→棒→棒→ブランコへと曲が変わるごとに移動していく.
踊っていない時は座って常連さんっぽい人たちとお酒を飲んだりしている.
私達は棒の立っているミニステージの近くに場所を確保してビールとか飲んでいた.
で,ちょっとドキドキしたけど$1札を手に踊っている女の子の前に立ってみる.
そしたらでかい胸で顔とかを包み込んでくれたりしてなんか幸せな気持ちになる.
しばらくして$1札をパンツのひもの所にはさんで終了.
でも誰でもサービスしてくれるわけじゃなくて,基本的にそっけない.
なんとなく目の前で腰とかふってくれる感じ.目が遠くに行っちゃってる人もいるし.
私の場合はテキサスのバーにアジア人の女の子ってことで結構みんなおもしろがってサービスしてくれました.
特にハワイアンの女の人は,胸でも顔を上から下までにょもにょしてくれた上に,超スイートなチュウまでしてくれた.おいしい...
一緒に行った友達(男)曰く「いいなあ...やっぱ女の子って役得...」
いやいやすねるなって.

「私も外国の裏文化事情って興味あるんだ〜」
とかって話し掛けてくる女の子もいたりしてなかなか楽しかった.
一人,「胸触っていい?」っていったら「いやそれは違法だから」って断られたりして.
いやいや無知って怖いわ...
だから男の人たちみんな手を後ろで組んで近づいていくのね.
帰る前に衣装室の中にある女の子トイレを使わせてもらったんだけど,そこはまあなんていうかやっぱり殺伐としていました.
狭くてロッカーだけが並んでいて,で,おばちゃんが一人座ってたばことか吸っていて...
トイレは電気つかなくて暗いし...
そんな感じのテキサス,ストリップバー体験でした.

albuquerque, new mexico

ニューメキシコのアルバカーキで会ったロバートは不思議な人だった.
私の中にはかなりステレオタイプなムスリム感というのがあるのですが(いかんな,そんなこといっちゃ...),彼はそれとは反する‘いい’ムスリム(笑)で...っていうかアメリカ人なんだけどね.
そもそもは中東出身らしく16の時に半分家出みたいな形で片道切符を持って中東に渡り,半年間放浪していたらしい.
その後アメリカ合衆国(以下アメリカ)に戻ってきてアラスカで大学に入り,10年ぐらい学生していて,あと一つレポートを出せば卒業といっていました.

アルバカーキでは私が泊まっていた安宿で働きながらレポートを書いていました.アジア史が専門らしく(アメリカではアジアとアフリカ現代史専門の人たちと会う機会がすごく多かった.なんでみんなその辺の地域に興味持つんだろう...),台湾にも結構長く住んでいて中国語はペラペラなんだそうです.
んでもって,彼とアメリカにおけるアラスカの位置みたいな話をしていて...というのも私はなぜかアラスカに対してすごく漠然とした憧れがあるからなんですが...彼もアラスカで大学いった理由の一つはアメリカであってアメリカではないっていうイメージのあるアラスカに対して憧れを持っていたからなんだそうです.
私はアラスカ人(と自分のことを呼ぶ人)には直接会ったことはないんだけど,アラスカに住んでいる人たちってやっぱりある意味特殊なんだそうです.
そもそも彼/女らは自分達の事をアメリカ人とはいわないし,沖縄の人が沖縄以外の日本のことを本土と呼ぶように彼等もアラスカ以外の地域のことを"the lower"と呼ぶし."the lower"っていう呼び方は,もともとは単に地理的な所からきたのでしょうけど,今ではアラスカを他から区別するポジティブな意味で使われることが多いようです.
住んでいる人ももともとそこに住んでいたネイティブの人たちと他の州から移住してきた人たちなわけですが,ネイティブの人たちはもちろん迫害されてきているわけだし,今だってアメリカ国内のネイティブ・アメリカンの置かれた境遇と比較してもかなり最低限の生活環境に置かれているわけですから自らをアメリカ人と単純には同一視はしない(できない)わけだし,移住してくる人たちにしてもその理由として最も多いのは,いわゆるアメリカというものに嫌気がさして,もしくは同化できなくて(でも同化しろという強制力みたいなものを感じたりして苦しくなって)そこから逃れたいっていうことらしいです.
で,アメリカに入れなかった人たちによって構成されているわけだからアラスカはアメリカの一州でありながらアメリカではない独特の雰囲気を持っているわけです.
それにここでは完全に他人とか地域社会とか消費社会とかから切断された環境で生きることが可能な部分があって,そういう所に身を置く人たちとか身を置いてみてそのまま狂ちゃった人たちとかが森深い所に生息しているわけです.そういう人たちのことを「森の人々」と呼ぶらしい.ある意味宮崎はやおの世界のようですね.
っちゅうわけで,結局この夏アラスカには行けなかったんだけど,ますます行ってみたくなりました.
アラスカ...
実はアラスカの大学に行ってみようと思って探していたんだけど(授業料安いしアメリカから補助とかでるし),哲学で博士過程のある所がなかったんですね.でももっと探してみようかな.

flagstaff, arizona

アメリカに来て一つ不思議なことは,みんな単に"where are you from?"だけじゃなくて"where are you originally from?"って聞くんだよね.
んでそれぞれ,アイルランドとかドイツとかって答えて,もし同じ国出身だったりすると妙にシンパシーとか感じるみたいで...
ドイツ出身とかいったってそんなんどうせひーひーひー...おばあちゃん・おじいちゃん世代でしょとかって私なんかは思うわけですが,彼/女等も別にその国にいったことあるとか思い入れがあるとかではないみたいですが,でもオリジナリーにどこから来たかってことは彼/女等のアイデンティティ形成の過程においては結構重要なことらしい.

人によっては自分のオリジナリーな出身地の旗とか持ってるしね.家庭でも割とそういう話は聞くらしい.
でもそういうことが大事になるっていうのも分かる気がして...というのも,やっぱりアメリカみたいに大部分が移民によって占められている場合,あともしかしたらアメリカ国内におけるネイティブの人たちの問題とも関係しているのかもしれないけど,やっぱり自分達はあくまでも後からやってきた支配者であって,そういう意識を持つとやっぱり
それじゃ自分はいったいどこから来たの?どこに根ざしているの?
っていうことを考えちゃうのではないかと.

個人のアイデンティティなんてものが,実際は現に自分のいる場所とか生活とかから切断された断片によって構成されているか...なんてことを感じちゃったりします.
いやもちろんそれは同時に自分のあり方に影響を与えてくるわけなんだけど,それはあくまでも形式としてであってそれと実在物としての自分の存在みたいなものは絶対に一致するものではないわけです.
んで,私なんかは"where are you from?"って問いに対しても"where are you originally from?"って問いに対しても答えは同じなわけで,でも何か何の疑いもなく"Japan"って答えられるかというと,それは案外そうでもなく,いったい自分がどこから来て(=どこに属して)っていう問題はそんなに簡単に断言できるようなものではないとか思ったりもして...
そういえばテキサスではね,"where are you from?"っていわれて,こっちが"Japan"って言ってるのに全然通じなくて,なんでかと思ったら私にそれを聞いた彼女はJapanっていうのはテキサスのどこかの地名だと思っていたらしく(テキサスに住むテキサス人は世界=テキサスと思っているからね:笑)一生懸命どこだか考えていたってことがありました.その時に思ったのは,みかけも発音もアジア(日本)人な私でさえ,周りの環境によっては自分の属する場というものが曖昧というか,自分が答えたものと相手の想像するものとが一致しない状況に陥ると.
それがなんかすごくおもしろいな...っていうか快感でした(笑). 

hopi indian reservation, arizona

INDIAN RESERVATIONの中にあるHOPIの集落を訪れる.
毎週土曜日になるとHOPIの人たちが集まってダンスをするので,それを見に行ったのです.
HOPIは合衆国のネイティブ・アメリカン部族の中でも最も幸せな人たちというふうにいわれていて,
その理由は未だに伝統的な文化と共に生きることができているからということらしい.土曜日のダンスというのも観光用ではなく,あくまでも離れて住むHOPIの人たちが集まる機会であって,加えて彼等の集落付近においては写真・ビデオ撮影等,一切禁止されている.
それが観光等に利用されて,興味本位の観光客が巨大なバスで集落に横付けするようになること,またそれに伴いHOPIの人たちが観光客相手の商売で生計をたてるようになって自らの文化を切り売りするような自体に陥ることを恐れた酋長がそういう禁止事項を定めたのだそうです.
このやり方は一般に非常に肯定的に受け取られているし,また成功しているともいえる.集落には観光客はほとんどいない.
観光客相手の露天もなく,集落で2,3件,クーラーボックスに入れたジュースや水を売っている家がある程度.
それも特に観光用という感じではない.
HOPIの人たちはとてもフレンドリーで,集落にも寂れた雰囲気やアルコール・ドラッグまみれの人たちといった,映画で見るようなINDIAN RISERVATIONの感じはなく,みんながHOPIを幸せな部族と呼ぶのもなんとなく分かりました.
ところでダンスを見に行ったHOPIの集落はSECOND VALLEYと呼ばれる高台のてっぺんにあって,急な坂道を車で登って行きます.
集落の規模はそれほど大きくなく(私が思った程には...),正確には分かりませんが50家族ぐらい住んでいるのではないでしょうか.中心に100平方メートルぐらいの長方形の広場があって周りを人家がとりかこんでいます.
広場の一角に半地下になった部屋があって,その中でダンスの前の儀式が行われます.
儀式が終わるとダンスをする人たちははしごを登ってその建物の屋上部へ出て来てそこから広場へ降りてきます.
ダンスの形式等詳しいことは全く分かりませんが,衣装やメイクなどは一回一回異なるそうです.一つが10〜15分ぐらいで,休憩を挟んで一日中異なるグループが踊ります.年令の高いグループから始まって最後は子供達になるのだそうです.
楽器は太鼓の人が必ず一人いて,あと衣装に鈴のようなものがついています.ダンスをしている人たちの周りをほかのHOPIの人たちが取り囲んで一緒に歌います.歌の意味は分かりませんが,これも毎回異なります.
私がみたダンスは男女それぞれ6人ぐらいが向かい合って槍のようなものを使って踊るもので,後でHOPI出身の人に聞いた所,雨乞いのダンスなのだそうです.
しかもそのダンスの最中,少しだけど本当に雨が降ってきました.びっくり...

Texas St in Pusan

釜山には"texas street"と呼ばれる通りがある.釜山駅のすぐ近くで,長さにして200mくらいのストリートだ.その昔外国人観光客向けに作られたショッピングモールらしいけど,最近では釜山に短期滞在する船舶関係者を相手にしたバーとかカラオケが主流になっている.ラブホテルがいっぱい建っているエリアでもある.ちなみに未成年立ち入り禁止地帯(笑).
ちょっと前までは働いているのは韓国人が多かったらしいけど,最近ではほとんどがでかせぎロシア人女性で,店の看板もロシア語のものが多い.ここで小さなバー(入り口の幅1mぐらいで,店の外にテーブルといすを5コぐらいならべてある,ほとんど屋台みたいなバー)を経営する韓国人女性と仲良くなって何度か一緒に飲んだりした.彼女は韓国なまりのない英語を早口で喋る人で,客の国籍に応じてロシア語とかインドネシア語とか...とにかくいろんな国の言葉をあやつる人だった.それにしても韓国に観光にいっているくせに,ついこういうストリートを探してばっかりな自分にはちょっとあきれる(笑).でもこういうストリートとかそこに集まる人たちには妙な味わいがあったりして,すごく落ち着いたりする.いやいや落ち着くなって...
ここで会ったロシア人のセルゲイは給料で買ったという分厚いコートを着ていて,二股かけちゃった女の子達からひっぱりだこになっていた.インドネシアの船乗りの中には日本で働いていたという人も多くローカルなネタでもりあがったりした.多くは一年ぐらい海にいて,その後2〜3ヶ月陸に上がるという生活をしているみたいだ.バーで働いていたロシア人の女性は,恋人がアメリカにいて,もうすぐ会いに行くんだといっていた.ほとんどがサハリン出身だった.
こういう通りには,こういう通りにしかたむろできない人たちが集まって来る.それは外国人だからとかいうわけじゃなくて,実際釜山にくる外国人の多くは,もっと現代的なショッピングセンターとか映画館が立ち並ぶソンミョンのバーとかディスコに行くんだと思う.「クリスマスにテキサス・ストリートに来るなんてものずきだね」ってよくいわれた.でも人がいてもいなくてもこの通りのちっぽけなバーは24時間あいていて,さまよい込んできた人をぶっきらぼうに迎えてくれる.そんな雰囲気がとても心地よかったりする. 

Taegu, South Korea

最近体調が悪い.って最近そればっかりな気もするけど.
家にいるとわりと安定しているんだけど,大学にくるとその夜から頭が猛烈に熱くなって次の日起きられなくなる.これは登校拒否症状か(笑).でも拒否症状出る理由も思い当たらないんだけどね.
ところで韓国で第三の都市Taegu(テグ)に行った.韓国の人だったらきっと「そんな所なにしに行ったんだ」って言うような,どちらかというとスモーキーな感じの工業都市だ.ここではもう10年ぐらい前になるのかもしれないけど,ある都市開発計画っていうのがあったらしい.それはこのスモーキーな町を"sex town"として観光化しようって案だったらしい(すべて「らしい」...)
でも結局,規模が全然大きくなっていない所をみると,この案はぽしゃっちゃったんだろうなあ...
韓国には三大赤線地帯っていうのがあって,釜山とソウルに一つづつ,最後の一つがこのテグにあるんだけど,個人的には韓国に限らず,これまでの人生で見た赤線地帯のなかでこのテグのものが一番シュールで強烈でした.
話だけは聞いていたものの,ガイドブックにはどこにあるのかまで出ていないし,タクシーに乗って行き先を告げても「女の子はダメだ」って感じでひたすら断られるし,バーで韓国人バーテンの人に聞いてもイヤな顔するばっかりで教えて貰えないし...もう見つからないかも...と思って諦めかけたんだけど,思いきってもう一度タクシーに乗ってチャレンジしてみる...すると今度はあっさりOK.そのまま10分ぐらい夜の街を走り抜け町外れっぽい軒の低い商店が並ぶ通りに着く.あたりは真っ暗で人通りも多くない.いわれた方向に歩いていくと,路地よりちょっと広いかなってぐらいの道があって,その両側に売春宿が立ち並んでいる.
どう説明したらいいのかよくわからないけど,これは本当にシュールな世界だ.まず目に入ってくるのはピンク紫の光り.それに照らされた道路を男の人たちが数人うろうろしている.おばさん達がそんな男達に声をかける.それぞれの売春宿の構造は,というと...正面から見える部分は4畳半ぐらいのガラス張りの部屋になっている.その脇に細い通路というか階段室というか,がついている.ガラス張りの部屋の中では女の子達がチマチョゴリを肩までずらして床にぺたっと座っておしゃべりしたりお化粧直ししたりしている.ライトはピンク紫.これは韓国の肉屋のショーケースのライトと同じ色だ.肉を美味しく見せるらしい...
つまりこのガラス張りの部屋が,そのまま女の子達を陳列するショーケースになっていて,女の子達はそれぞれ内側から外の男達に向かってセクシーポーズできめるってわけだ.男達はそれをみながら「じゃああの娘を」とかって選んでいくことになる.お店によって多少系統が違うようで,茶ぱつ系が多い所,純朴系,ちょっと年上系って感じで分かれている(ような気がする).時々チョゴリをはおった女の子が男の人の手を引いてどっかへ走り去っていったりする.さすがに私達に声をかけてくるおばちゃんはいない.
でも追い払われもしなかったから,まあよかったのかな.
通りは奥行き約100メートルぐらい.表通りから入ってこれるのは一本だけだけど,表から見えない所にももう一本売春宿通りがある.でも規模は大きくない.それぞれのお店に,多少ばらつきはあるけど女の子は約10人前後といった感じだ.通りの周りには警察官がうろうろしている.
韓国の人は一般に家族をとても大切にする.もちろん徐々に変わりつつはあるんだろうけど,とにかく家族とか知り合いとかのつながりを本当に大切にしている...という気がする.特に親が子供に対して注ぐ愛情はすさまじいものがある.とにかくどんなことをしてもできるかぎりのチャンスを子供の人生に与えてやろうって感じだ.だけどそういう状況がある一方で,国際的な養子縁組機関を通して海外に養子に出される子供の内訳をみると,韓国人の,特に女の子の数は圧倒的に多いし,女性が一人で子供を養育することに対する偏見も今だ強いといわれる.不法に行われる中絶手術は後をたたないし,妊娠前診断をすることによって,障碍を持つ子供や女の子を生むことを避けようとする動きも依然大きい.一度は"sex town"として大々的に性を観光化しようとしたテグの野望は果たされず,売春の世界は暗い路地に隠され,自己の身体によって金を得る女性は軽蔑のまなざしで見られることになる.マクドナルドにたむろする女子高生達も,年末,道ばたのホームレスに小銭や食べ物をふるまう人々も,寂れたアーミー・バーのバーテンも,みんな彼女達とは違うんだっていう顔をする.
今まで売春宿にたむろする女性達を見て,こんなに複雑な気持ちになったことはなかった.アムステルダムの赤線地帯はもっとあっけらかんとした雰囲気があった.けばけばしさはあるけれども,女の子達の表情にはどこか明るさもあった.もちろんすべては人によるのかもしれないし,アムステルダムにだって薄暗い路地裏にたむろするやつれた人々の日常があるのかもしれない.日本にしたってそうだ.でもそこにまだ自分の力で,あるいは思いで,どうにでもなれるという可能性があるような気がする.路地裏にいっちゃう人もいるしそうでない人もいるし.ここにやって来る人もいるしそうでない人もいるし...って感じで...
テグのショーケースに並んだ女性達の表情には,そういうものが見えないんだ.無表情か,あるいは完全に作られたような艶かしい笑いかたをするんだ.そしてこうした光景が,多分ここでは永遠に変わらず続いていくんじゃないかっていう,絶望にも近い思いにかられてしまう...もちろんどんな所にも幸せな瞬間や心が動く瞬間っていうのがあるだろう.でももはや自分がそこからどこへも行けず,もう何も変わらないんだっていう感覚を受け入れた瞬間,そして日常の歯車の中に完全に自分を埋め込み,ささやかな喜びも哀しみもすべてその歯車の中の出来事へと解消されてしまう時,人は完全に作られた自己を演じることができるようになっちゃうんじゃないかと思う.
支離滅裂だけど...やっぱりうまく言えない.

Manali, India

康診断に行く.
顔色がよほど悪かったのか血を抜かれる時一本ごとに「大丈夫ですか?気分悪くないですか?吐き気
とかありませんか??」としつこく聞かれる.血圧も低いらしく何度も測られる.それって何度もやれば良くなるものなの?って気もするのですが
多少上がりました.そんなこんなで2時間半ぐらい拘束されてみました.
帰りのバスの中で,どこかにマフラーを忘れてきたことに気付き超ブルーになったりもしました.

久しぶりにインドを旅行していた時のガイドブックを見てみる.
デリーについた後,北に行こうと思ったのはこのガイドブックでインド北部の村々に残る土着的宗教建築の文章を読んだからだった.
その時丁度怪し気なインド人から「マナリ(北の街)では新年に大きなフェスティバルがあるよ」と言われ,その頃にはもう何があってもどうでもいいや,騙されてもなんでもまあいいや,って感じでかなりインドでの生活に慣れてきて(笑)いたので,勢いでバスに乗ってみることにした.
バスは目的地には一応ついたけどフェスティバルが行われているような気配はなくシーンと静まりかえっていた.
後で知った所によると,お祭りはあるにはあるけど年末らしい.まあいいんだけどね.
マナリは知る人ぞ知る良質のマリファナ生産地なんですよ.
なんとなく街全体がいい臭いに包まれて...いるような気がするのは多分私の気のせいでしょうが...

バスを降りたのが町外れであまりにも周りに何もなかったので,とりあえず最初に目に止まった(というか声をかけられた)インド人のおじちゃんにつれられてエライ豪勢なホテルに泊まる.
インドにいた1ヶ月間で一番豪勢なホテルでした.ホテルはからっぽで,そこのハネムーンルームっていうのをおじちゃんが一個ずつ説明してくれる.
真っ赤な部屋とか金キラな部屋とかね.悪趣味だわ.
まあそんなこんなで部屋を決めて,今夜は豪勢だなあ...なんて思いながら窓をあけると目の前は山の斜面で,しかもありとあらゆるゴミが散乱している.生理用ナプキン捨てんなよ!
気を取り直して久しぶりにちゃんと一定温度以上のお湯がでそうなシャワーをひねるが反応はなし.
消毒済みのラベルがはってあるトイレをあけるとウンコが浮いている...
おかげでコップも何も使う気がしなくなる.
でもまあそんなもんさってことで,下に降りていって門番のおじちゃんがイモを焼いている炉端でしばらくおしゃべりをしたりして...そうやって私の1997年1月1日はすぎていったのでした. 

karlovac, croatia

クロアチアのカルコヴァックという街に行った時のことをふと思い出した.もう2年ぐらい前の秋だ.
ミュンヘンからバスに乗ってザグレブへ行き,そこから電車でカルコヴァックに向かった.
なぜそこに行ったかというと,カルコヴァックは内戦時ボスニア側に占領されていた地域に属する最北の街で,当時(今でも)私はユーゴ圏の文化とか政治とかに興味を持っていたからだ.
念のため言っておきますと,街はすっかり平和で,砲弾とかは別に飛んできません.じいちゃんたちがのんびり茶色い川辺でおしゃべりしていたり,子供達が怒濤のように学校から流れてきたりしているごくごく普通の小さな街.すくなくともみかけ上は平和そのもの.

だけど一見平和であるがゆえに戦争の傷跡はよけいに生生しく目に映る.
街の中心部は完全に破壊され,役場は外壁だけしか残っておらず,
屋根にはぽっかりと穴が空いている.
かつて床であった部分からは緑色の植物がにょきにょき生えてきている.
住宅地にはところどころ完全に崩落した家々や,2階部分の床が完全に落ちている家,窓ガラスが全部ない家,無理矢理壁の穴にドアをはめ込んで家としての見かけをかろうじて保っている家等等があたり前のように点在している.
そしてそこでごくあたり前のように人々の日常が営まれている.
いったいこの家に住んでいた人はどこにいってしまったのだろう...とか,死んでしまったのだろうか...
なんて思いがいろいろ頭に浮かんでくるんだけど,それを誰かにたずねでもしたら,そのとたん一見あたり前に見える日常が目の前で崩壊していってしまいそうで,そんなこと聞けなくなる.
カルロヴァックには日常とその崩壊が同時に存在している.
人々や町の記憶みたいなものが,確かにあるんだけれどもそれに触れることはできず,ただむき出しの状態でそこここに散乱しているという感じだ.
それをどう表現することができるのか未だによく分からない.
ただ衝撃...としかいいようのない何かがあの街にはある. 

 
trip
categories
recent entries
recent comments
search
サイト内検索

archives