アメリカ、アメリカ

雑用続きの日々。
天気が良いのだけが救い。
昨日はインディペンデント・メディア系の活動で有名なAmy Goodmanの講演会へ。
NPR(National Public Radio)の"Democracy Now!"の人と言えば、アメリカ在住の人だったらピンとくるのではないだろうか。
それにしても、こういう政治的な講演会が1000人以上収容できるホールで、無料で、セキュリティチェックもなく行われ、しかも満員になるっていうのがすごいよなー、と、こういうタイプの講演会に行く度に思う。先日のTaqui Aliも立ち見がでたし。5万人ぐらいの規模の街で、アクティビスト系の講演会にこれだけの人が集まるっていうのは、日本ではありえないと思う。
どっちがどうというわけではないのだけれど、こういう場所に行くと日本とアメリカの違いを感じる。

Goodmanはすごく話好きな、いかにもアクティビストといった感じの人だった。
言葉の使い方や話の持って行き方に多少気になる部分もあったけれど、質問者への応答とか、細かい部分に、彼女の人の良さみたいなのが出ていて、なんというか、彼女が一般の人たちからこれだけ支持されているのも分かるような気がした。話の内容はもっともなことが多く、アメリカにおけるジャーナリストの迫害、コーポレート・メディアの戦争描写の虚偽性、アメリカ国内における自由な討論の場の喪失といったことが繰り返し指摘され、すべては良心的な市民の行為にかかっているといった話で終わる。自分達の自由を守ろうといったアメリカ的な主張がされる一方で、ここでも歴史の重要性が強調されていたのが印象的だった。多くのグラスルーツ・ジャーナリストが持っているような、強くて何か、形にはならないけれどそこに存在するような何か、に対する使命感みたいなものを彼女も共有していて、それが彼女の魅力なのだな、と思った。
それにしても、こうやって平日の夜、3時間ぐらいかけてNYCからB街までやってきて、時間を大幅に超過してホールから閉め出されるまで話し続けて、そしてまた3時間かけてNYCに戻り、朝の8時には普段通り"Democracy Now!"の収録をするなんて...タフだよなぁ...


そして、数カ月前からもめていたのだけれど、数日前、とうとう今のアパートが別の人に売却されて、新しいオーナーが私たちの隣の部屋に引っ越して来た。すごく若いカップル。
さんざん悪い噂が飛び交っていたのに、実際会ってみたらすごく気さくな感じの人たちだった。
窓からマクドナルドやウェンディーズといったファストフードチェーンのネオンが見えると安心すると言っていた。アメリカンだー。

再び言葉の力について

ディスカッション・セクションに超キュートな男の子がいるのだけれど、彼が"フミヲ!you are the best TA ever!"って言ってくれた。こういうモチベーションアップに役立つ褒め言葉はきちんと記録しておこう。ぐりぐり。

昨日はイギリスの左派アクティビスト(?)、Tariq Aliの講演を聞きに。
それなりにおもしろかったのだけれど、別に目新しい話はなかった。まぁ、普通にブッシュのイラク政策の違法性やアメリカのメインストリーム・メディアのダメっぷりをくり返した感じ。ただ、おもしろかったのは、ブッシュ・アドミニストレーションのことをこてんぱんに批判する一方で、君たち良心的な市民が最後の砦だっていう感じで、人々を煽動(という言い方はよくないかもしれないけれど)するような雰囲気に持っていくこと。これぞ運動家の講演!といった感じだった。
どういうやり方を取るかといえば、アメリカは最後の帝国で、これに拮抗するような勢力がない以上、アメリカ市民が主体的に帝国の動きというものを決定していかなくてはならない、というような... いや、実際はもっと極端で、ヨーロッパも中国も日本もアメリカ上層部を止める力なんてない。君たちだけが最後の希望だ!みたいな感じ。
市民の意識を高めるというのは確かに大切なことなのだろうけれど、こういう形で訴えかけることはアメリカ市民の間に、根拠のない選民意識を広めることになったり、強いアメリカに対する誇りや、なんでも正義に訴える単純な思考を歪んだ形で助長することになるんじゃないんだろうか、という気もしたり。

あと、一つ気になったのは、中東問題やイスラエル/パレスチナ問題の講演会に必ず出てきて、「お前らみんなグルだ!なんだかんだ言ったってパレスチナのことを全然考えていないじゃないか!」っていうような発言をくり返す、多分パレスチナ人の男性がいるのだけれど、今回も講演の後で、後ろの方から「それで、お前の祖父がしたことについてはどう思っているんだ!」と叫んでいる彼のことを、Aliが「僕が祖父のやったことの責任を取る必要はない」と一言で切り捨てたこと。
いや、確かにこのパレスチナ男性の発言はいつもすごい極端な上に、講演者の話と全くかみ合っていないようなことが多いのだけれど、その直前、話の締めとして、Aliが歴史の重要性について主張した直後の「過去に対する責任はない」発言だったので、少なからずがっくりきた。なんだよ、祖父のやったことやその結果について何らかの責任を取ろうとする態度こそが歴史の重要性を確認するということじゃないのかよー、なんて。
もちろんAliのレベルになれば、講演会を妨害されたり、いわれのない言いがかりを付けられたりすることもよくあるのだろうけれど、だからといってそういう人たちを邪険な態度で扱う講演者の姿を、初めて彼の講演を聞く聴衆はどう思うのだろう。少なくとも私は良い印象は持たなかった。

ちなみに、講演会の後、家に戻ってからステチーが図書館から借りてきたMichael Moorの"Bowling for Columbine"を見たのだけれど、なんというかブッシュ・アドミニストレーションに対する批判とかイラク戦争に対する立場においては似た部分持多い二人なのに、その主張の仕方にすごく大きな違いがあるような気がして興味深かった。

MoorもAliも、基本的には、上はダメだから市民ががんばろうっていう運動路線なのだけれど、Aliが、ある意味洗練された言葉と理論を用いた、煽動的とも言えるような手法に訴えかけるのに対し、Moorのそれはどうしようもなく混沌としている。彼は政治的で、メリハリの効いた、それこそ一種の煽動のようにも取られかねないようなパワフルなドキュメンタリーを撮るけれど、その内容は実に混沌としている。そこには矛盾するいくつもの主張や主義や生き方というものがあって、カメラが映し出すのは、現実の複雑さやどうしようもなさばかりだ。しかもMoorという人は、映画の編集能力はとんでもなく高い人だと思うのだけれど、普段、カメラを意識しないような状況で話す場合の編集能力は皆無に等しくて、すごく冗長で同じ所をグルグルと回るような、分からないことを分からないと言い続けるような、ダラダラした話し方をすることがある。気持ちに訴えかけてくる力はあるけれど決して話のプロではない。

でも、AliとMoorを比べながら思ったのは、その冗長さや、まだはっきりとは見えないようなものをなんとか言葉にしよう、という態度こそが大事なのではないかということだ。分かりやすくて盛り上がれる言葉より、支離滅裂で、ストレートじゃなくて、うまくまとまらないままにもがいている状態の言葉の内に、より大切なものが隠れていたりするのではないだろうか。 

言葉の力

2月はBlack History Monthでいろいろな催しが行われている。
昨日はその中の一つである詩の朗読会に行ってきた。
ただ何となく出かけて行っただけだったのだけれど、とても良い感じだった。
詩の朗読会というよりはオープン・マイクに近くて、喫茶店を借り切って、ステージを組んで、ゲストがその上でパフォーマンスをするといった感じ。普段白人客しかいないような、どちらかというとコジャレ系のカフェが黒人学生で埋め尽くされているというだけで、なんというか、かなり圧倒的なものがある。パフォーマンスはB大の学生と卒業生が中心で、どれも詩というよりはヒップホップに近い感じ。まぁ、英語における両者の違いなどあってないようなものなのでしょうが。
ゲストで呼ばれてきた人たちは、本当にプロフェッショナルで、政治的なものとエンターテイメント系のものをうまく混ぜ合わせた、力のあるパフォーマンスに会場も総立ち状態。本場の、ルーツ系というかストリート系のヒップホップを見たのって実は初めてだったのだけど、なんというか、言葉の力というものを強く感じた。言葉が場を繋ぎ、人々の感情を揺らし、意味を伴って迫ってくる感じに少なからず興奮した。


最近よく考えるのだけれど、例えばAさんとBさんがいて、それぞれにお互いのことを思っているとして、AさんはBさんの気持ちに気付いているけれどBさんはAさんの気持ちに気付いていない場合、AさんからBさんへ向かう気持ちというのはどこにいってしまうのだろう。
言い換えるならば、AさんはBさんのことをすごく好きで好きだということをAさんなりに行為で示しているつもりなのだけれど、それをBさんが全く気付かないとしたらAさんの気持ちだとか行為だとか行為が孕む意味だとかいったものはないのと同じなのだろうか。あるいは、Bさんがすごく鈍い人で、言葉になったものしか受け止められない人だとしたら、言葉にならないちょっとした仕草や、会話のもつ微妙なニュアンスなんかは、受け手を持たなくなるわけで、ということは、そういうものは存在しないということと同じことなのだろうか。
多分違うとは思う。
特定の相手に向かって投げかけられたものが、投げ手の意図通り相手に受け止められることなんてまずないし、どんなにお互いを分かり合っている者同士にも、受け止めきれないものというのはある。でも、だからといって、相手に受け止めてもらえなかった言葉や思いや行為の意図といったものは消えてなくなるのではなくて、やっぱりどこかに何らかの形で残っているはずなのだ。でもどこに?どうやって?受け手のないままさまよっているような思いや言葉に意味はあるのか、ないのか。
言葉の力というのは、投げ手の意図がまっすぐに受け手に届いた時に生まれるのか。それともそれは純粋に受け手の中で起こっていることであって投げ手の意図とは関係がないのか。あるいは言葉の力は、誰にも受け取ってもらえないままにその辺を漂っているものの内にこそ宿っているようなものなのか......

ひとりもの

津野海太郎の『歩くひとりもの』に「手紙ぎらい」というエッセーがある。ひとりものの生活というのは気楽であるように見えて、実は様々な条件の上にかろうじて成り立っているような所があって、その生活を維持していくには、ひとりでの生活のテンポを乱しかねない要素を生活(少なくとも家の中での生活)の内から注意深く排除していかなければいけない所があって、手紙というのもその一つなのかもしれない、という内容なのだけれど、読んでいて共感する所が多い。

かくいう私も手紙の返事を書くのにとんでもなく時間がかかったり、あるいは全く返事を書けなかったりすることの多い人間なのだけれど、おもしろいのは、そういう傾向が現れだしたのが一人暮らしをはじめて以降である、ということだ。
両親や弟と一緒に暮らしていたころの私は、どちらかというと手紙魔で、理由を付けてはなんだかんだと手紙を書いた。相手がいない時にはペンパルを探して毎日のようにせっせと手紙を書いた。交換日記みたいなものをする時には一日も間をおかずにきっちり次の人へノートを廻したし、日記仲間のうちの一人が何日もノートを止めてしまうようなことがあると、やたらとやきもきしながら自分が書く番が回ってくるのを待った。

そういう傾向はひとり暮らしを始めてからぱったりと止まってしまった。
両親と生活していた頃に手紙が果たしていた機能というのを、ひとりになった私は必要としなくなったのか、あるいは生活の基本的なことに追われて手紙を書く余裕を失ってしまったのか。

ちなみに津野氏曰く、手紙嫌いというのは「受信嫌い」と「送信嫌い」とに分かれるらしい(もちろん両方持ち合わせている人もいるわけだけれど)。筆無精という言葉は主に「送信嫌い」の人を指し、手紙嫌いの中でも割とメジャーなタイプなのではないかと思う。私も長く、自分はこちらのタイプだと思っていた。

手紙を貰うと嬉しくて、いろいろ考えて返事を書きはじめる。
勢いがある内に返事を書ききってしまえる場合にはすぐに返信できるのだが、多くの場合は何となく言いたいことが言葉にならず、中途半端な状態のまま筆を置いてしまう。そうなるともうダメで、何日かおきに書き直してみたりするのだけれど、まず完成することはない。時間が経つにつれ、「ここまで遅くなったのだかがもうちょっと気の効いたことを書こう...」なんていう気持ちになり、そうしている内ににっちもさっちもいかなくなってとうとう手紙そのものを放り出してしまう。だいたいいつもこの繰り返しだ。
そうやって書きかけのまま返信されなかった手紙だけが後に残る。
返事を書くことを初めから試みない人も多いのだろうけれど、書かなくては書かなくては、という思いが積もり積もってますます返事を書けなくなるというのは、まさに「送信嫌い」の典型的なパターンらしい。

ただ、津野氏のエッセーを読んでいてドキッとしたのは、これまで単に筆無精(送信嫌い)なだけと思っていた自分の中に、実は「受信嫌い」の徴候までもが出始めていて、そういう意味でかなり末期的な「手紙嫌い」になりつつあるのではないか、なんてことを思ったからだ。
例えばおととしの夏から秋にかけて、私は三ヶ月近くメールの受信をやめた。正確に言うとインターネットにアクセスできなくなった。それが誰からのものであったとしても未読メールのサインを見るのも嫌になっていた時期があった。外からの情報なり言葉なりを全く受け付けなくなっている自分に気付いた。「元気?」といった言葉ですら私の生活の境界を侵犯してくる脅威のように感じていた。
そういう風に、外からの語りかけに敏感に反応してしまったり、それに対して自分の生活なり精神状態なりをかたくなに守ろうとする態度は、私の中のひとりもの的な部分から来ていたのかもしれない。考えてみれば、それ以前から電話に全く出られないなど、受信嫌いの傾向はあったのだ。

ここまで書いて、結局の所何が言いたいかというと、メール出さないでごめんなさい&返信が遅くてごめんなさい、ということです。なんとなくそれっぽい説明を延々して、自分を正当化しようとするのは哲学とかをやっている人間の悪い癖だということもよく分かっています...... ちなみに今ではメールを未読のまま何ヶ月も放置しておくということはしなくなりました。もうちょっと筆まめになろうと日々リハビリ中です。

反戦とか教えることとか

日曜日はプラネタリウムでステチーのライブ。
プラネタリウムは美術館の一角にあるのだけれど、昨日は丁度美術館のオープニングと重なっていたので観客の数も普段より多かった。ただ、美術館側とプラネタリウム側のやり取りがうまくいっていなくて、プラネタリウム側から演奏してくれと頼まれたはずのステチーが美術館側からひどい対応をうけたりも。
展覧会はB街ではめずらしく現代美術作家の新作を集めたもので、9.11に対するリスポンスというテーマ。作品はほとんどがペインティング。ドローイングやスカラプチャーも数点。
どういう基準でアーティストを集めたのかは分からないけれど、個人的にはあまり良い展覧会だとは思わなかった。まず、どういう基準でアーティストを集めたのかが全く分からないという時点でキュレイター失格だし、キュレイターの個々の作品についての説明が作家のそれとかみ合っていなかったり、とってつけた感じだったりするのもなんだかなぁ、という感じ。集められた作品そのものの質もあまりよくなかったし、それよりなにより、作家のステイトメントのほとんどが、もうどうしようもなくダメだった。
「僕がやっているようなことの正当性はきっと近い将来認められるに違いない」とか。
「コンピュータが現在のアンチ・ヒューマニスティックな動きを助長している」とか。
やっぱりコンセプトがしっかりしていないものは弱い。なぜ描くのかとか、どうしてこのやり方を取るのかとか、時代性とか、そういうものをきちんと考えている人のものには、どこか人を惹き付ける力がある。何かを作るという仕事には、できあがったものの背後に、できあがったものの内には必ずしも現れてこないような膨大な時間と思考の蓄積があるのであって、その部分を、見えないからといってないがしろにしては、良いものは絶対に生まれない。


話は変わって...
アメリカの教育システムにも良い点と悪い点、両方あるのだけれど、少なくともこちらに来て良かったな、と思うのは、自分で授業を持つ機会を与えられたり、教えるための技術を周りの教授から学んでいる時だ。こちらに来て以来、日本の大学では出会ったことのなかったような、本当にすばらしい学部向けの授業をする人たちと知り合って、いろんなことを学んだ。ちなみに大学院教育という点では日本もアメリカもそんなに変わりはないと思う。ただ、大学教育の一番大事な部分である(と、思う)学部向けの授業の質...というか、学部向けの授業に対する態度という点ではこちらの方が上ではないかな、と思う。もちろんどうしようもない先生もいることはいるんだけど、すごい先生は本当にすごい。目の覚めるような授業をする。あと学生に対する態度という点でも学ぶことは多い。
なんてことを考えたりするのは、実は、今TAしているクラスの雰囲気がどうもあまりよくないせい。短期契約で派遣されてきた教授はいつも学生に対して文句ばかり言っているし(学生の目の前ではさすがに言わないけれど)、TAも、それにつられて学生のネガティブな側面ばかり取り上げようとする。確かに学部の必修クラスだと、学生のモチベーションも低いし不真面目な学生も多い。でも、私にしてみれば、B大の学生は、さすがにパブリック・アイビーと言われるだけあって、すごくレベルが高いし、真面目な学生もできる学生も少なからずいると思う。学生のモチベーションを上げて引っ張っていくのも教える側の役目だとも思うし、少なくとも授業で見られる学生の限られた側面だけをもってして、その学生の能力を判断することはできない。
それに、クラスの大小に関わらず、できる学生っていうのは全体の10%未満、というのは、まぁ、ほとんど定説みたいなものだと思う。200人のクラスだったら20人。50人のクラスなら5人。真面目に授業を受けて、きちんと学んで、それなりの成果をあげられるのはそれくらいの人数しかいないのであって、残り90%にこの10%の人たちと同じことを求めても無理だし、そもそも残り90%の人たち全員ができる10%のうちに入りたいと思っているわけでもないのだ。教える側としてはつい学生全体にトップ10%の人たちと同じだけの努力や勤勉さや成績を求めがちだけれど、そういう授業のしかたは結局の所、クラスの大半の生徒を無視したものになりかねない、ということも分かっておいた方が良いのではないかと思う。
あと、これまでの経験でなんとなく思うのは、たとえ理由なんかなくても、こちらが学生のことを尊重して、そのポテンシャルを認めているということを示すことで、学生の教える側に対する態度も大きく変化するということ。教える側が「あなたたちには何も期待していない」という態度を示せば、学生はそれを敏感に感じ取ってネガティブな反応を返してくる。なんというか、こういうやり取り自体子供じみているように見えたりもするのだろうけれど、でも、教える側と学生とをつなぐ接点が少ない(「必修科目だから」といった)場合には、こういう所でお互いの信頼を作っていくしかないのだと思う。それに一旦、気持ちの上での信頼関係を作ることができれば、学生は何も言わなくてもついてきたりするわけで、そうするとクラス全体の雰囲気も良くなっておもしろい議論が飛び出してきたりするわけで......
と、いったことを書いている途中でオフィスをシェアしているTAの一人がやってきて「今、教授にも相談して来たんだけど、学部生のライティングが全然ダメなのよ。どうやって評価しろっていうのかしら」と言いながら去っていった...... でも、そういう時、それぞれのライティングに適切なコメントを返しながら、必要な場合には書き直しさせたりして、学部生の為に努力するのがTAの仕事であって、たった一度のアサインメントで学生の能力に見切りをつけるなんてとんでもない、と、私なんかはつい思ってしまう(そして自分の仕事を増やしてしまう)のだけれど、彼女にとっては一つ一つのアサインメントを完璧にできない学生は単に面倒でお荷物なだけなのかもしれない。 余りそう思わないように努力していたのだけれど、彼女の話を聞いていると、どうしても彼女よりも彼女の学生に同情してしまう...... 

ホラー三昧

雪のせいか、今日は一段と人が少なくて、哲学科のフロアにいるのは私と秘書の人たちだけだ。

おとといの夜、ステチーが借りてきたサイコ・スリラー系のDVDを見た。
"What Ever Happened to Baby Jane?"というクラシック・スリラーと"The Blair Witch Project"。
ホラーとかスリラーって、内容が、というよりはドキドキ感だとか気味悪さだとかがいつまでも頭に残るのが嫌で、めったに見ることがないのだけれど、なんとなく魔が差したというかなんというか...
案の定、"What Ever Happened to Baby Jane?"を見た後、やけに目は冴えてくるし、ドキドキ感は止まらないしで、えーい、こうなったら行く所まで行ってしまえ、と結局"The Blair Witch Project"まで見てしまった。(大間違いだった)
そして目はさらに冴え、ドキドキはさらに高まり、悪夢にうなされることになったのでした。
内容的には、両方とも心理的な恐怖をそそる感じでおもしろかったんだけど、やっぱり、あの、叫び声とか怒鳴り声とか...切羽詰まった人間同士の醜さというか狂気というかは見ていて疲れる...それもまた人間が本質的に抱えている一面ではあるのだろうけれど。

最近ネーゲルを読んでいる。
アメリカで哲学をやる以上、D論はきっちり分析哲学を押さえつつ、その批判まで含めることができれば...という風になりつつあるのだけれど、オーソドックスな分析哲学よりの環境倫理とその批判とをつなぐ部分にネーゲルの価値多元主義をおくつもりでいるのだ。分析哲学をやることに対して割り切れない気持ちとかもいろいろあって、バランスを取るのが自分の中でも難しかったのだけれど、多分、これでいくと思う。
ネーゲル、日本ではそんなに翻訳本とかも出ていないし、なんか「こうもりの人」(ネーゲルの本として日本で多分一番有名な哲学入門書みたいなのがあって、そこで、Philosophy of Mindにおける基本的な問題を論じる時にこうもりの例が出てくる)のみたいな感じでしか受け入れられていないような気がするんだけど、結構、既存の分析哲学(主にPhil of Mindですが)に対する批判という点ではおもしろいこともいろいろ書いている。オプティミスティックなアメリカ人知識人の中で、強くペシミスト路線を貫いているというだけで、なんとなく親近感を覚えてたりも。でも、アイデンティティ論にしても志向性論にしても、やっぱり分析的な理論展開って抵抗を感じてしまうのだけれど...
 
それにしても環境倫理をやっていて思うのは、帰結主義の呪縛は果てしなく強く深いということだ。環境倫理といった応用倫理学は、政策に応用可能なプラクティカルな側面を求められるのだけど、この実践性というのが絡んでくると、帰結主義的な縛りは、もう、逃れようがなくなる。政策というのは良い結果を導くために作られるものであって、そういう意味で、優先されるべき価値の設定とその価値の最大化という帰結主義的な枠組みと切っても切り離せないようなものだからだ。何の価値もなくて、何のためにもならなくて、しかも最大化される必要もないようなものを守ったり生み出したりするための政策は存在しない。一見、全体的な幸福あるいは善の増大とは相反するような政策(世界最大量の石油が埋蔵されているとされている地域をあえて開発せずに自然公園として保護する等)も、結局は、その場所の自然価値は石油によってもたらされるものの価値(経済的な豊かさとか)よりも上で、であるがゆえに最大化されるべきである、という帰結主義的な論理に貫かれている。功利(utility)というタームに変わってvirtue(徳)だとかdeontological constraint(道徳的義務)だとかを持ち出してみても、例えば特定の道徳的制約を守る理由は何か、徳を重視する理由は何かと言われたら、それはやっぱりそれを行うことが最終的に良い結果につながるからだとか、あるいは特定の道徳的制約なり徳なりに価値があって、それは最大化されるべきだから、ということになってしまう。ハードコアな義務論や徳理論では必ずしもそういう話にはならないのだけれど、それらをどう実際の政策に応用していくのか、ということになれば、どうしても帰結主義的な話になってしまう。そして帰結主義である以上、政策の内に含まれているマイナスの要素はプラスの要素の内に還元されてしまうことになる。単一の価値評価軸に添う形で。
帰結主義の呪縛については先学期ビジネス・エシックスのTAをしていた時にも出てきたし、メディカル・エシックスでも延々議論されていることだったりもする。やっぱりこれは応用倫理学が、その構造上、絶対に逃れえないものなのでしょうかね...なんていう話を教授としてみたり。 

sushiイロイロ

突然吹雪。

サイトのデザインを変えたくてしょうがない。
そんなことしている場合じゃないんだけど。
tokyo bbs(cgiスクリプト)を使ったデザインにしたいのだけれど、まだ自分で使いやすいレベルまでスクリプトを操作しきれていない感じ。なんだかんだいってakiary(今日記で使っているやつ)はすごく使いやすい。特に初心者には。

この前ステチーと最近出来たばかりのChinese&Japaneseレストラン、Lにお寿司食べにいった。
こっちだとやっぱりロール(巻寿司)が主なのだけれど、どのレストランもそれぞれに趣向を凝らした感じのロールを揃えていて結構楽しめる。ちなみにこのLオリジナルのロールとして"fried sushi rice with spicy tuna, takuwan, and caviar"(揚げたすし飯にスパイシーなまぐろとたくわん、キャビアをトッピング)というものがあって、「揚げたすし飯」見たさにオーダーしてみた。チャーハンを海苔で巻いてあるのかなーと思っていたのだけれど、出てきたものをみてびっくり。なんとすし飯を海苔で巻いたものにてんぷら粉をつけて丸ごと油で揚げてあった。豪快...っていうか、これは日本人には考え付かない寿司のアレンジ方法だな...なんて思ったり。寿司とてんぷら一緒にしちゃえっていう所からきたのかな、やっぱり。
最終的にはこの揚げた太巻きをいくつかに切り、断面の部分にスパイシーツナとたくわんとキャビアを混ぜたものをどかっと乗っけるんだけれど、でかいしご飯ぎゅうぎゅうだし、油っぽいしということで、全盛期を過ぎた胃にはちょっときつかった... あと、春巻きとか他の中華の材料を挙げる油ですし飯を揚げているので衣にいろんなものの味が混じっちゃっていてそれもちょっとという感じ。変わり寿司としてはおもしろいし、胃もたれとかとは無縁でとにかくいっぱい食べたい若者には嬉しい一品かもしれないけれど。

ちなみに私とステチーのお気に入りは大学の近くにある中国人経営のF。
他にも日系人経営の老舗、Kというレストランがあるのだけれど、こちらはなんというかオーセンティックな日本食を目指す感じで値段も少し高め。それに比べてFはもうちょっと庶民的な感じ。雰囲気やメニューの内容が。寿司メニューもKがニギリとロール半々なのに対し、Fはロール中心。具沢山で大きいのですぐお腹いっぱいになる。お茶を頼むとでっかい湯飲みに入った緑茶が出てくるのもうれしいし(Lではお茶といったらジャスミンティだった)、なんといってもつきだしがついてくるのがすごい。なんだかんだいって一番日本っぽいかもしれない。やり方が。 

 
February 2004
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