言葉の力

2月はBlack History Monthでいろいろな催しが行われている。
昨日はその中の一つである詩の朗読会に行ってきた。
ただ何となく出かけて行っただけだったのだけれど、とても良い感じだった。
詩の朗読会というよりはオープン・マイクに近くて、喫茶店を借り切って、ステージを組んで、ゲストがその上でパフォーマンスをするといった感じ。普段白人客しかいないような、どちらかというとコジャレ系のカフェが黒人学生で埋め尽くされているというだけで、なんというか、かなり圧倒的なものがある。パフォーマンスはB大の学生と卒業生が中心で、どれも詩というよりはヒップホップに近い感じ。まぁ、英語における両者の違いなどあってないようなものなのでしょうが。
ゲストで呼ばれてきた人たちは、本当にプロフェッショナルで、政治的なものとエンターテイメント系のものをうまく混ぜ合わせた、力のあるパフォーマンスに会場も総立ち状態。本場の、ルーツ系というかストリート系のヒップホップを見たのって実は初めてだったのだけど、なんというか、言葉の力というものを強く感じた。言葉が場を繋ぎ、人々の感情を揺らし、意味を伴って迫ってくる感じに少なからず興奮した。


最近よく考えるのだけれど、例えばAさんとBさんがいて、それぞれにお互いのことを思っているとして、AさんはBさんの気持ちに気付いているけれどBさんはAさんの気持ちに気付いていない場合、AさんからBさんへ向かう気持ちというのはどこにいってしまうのだろう。
言い換えるならば、AさんはBさんのことをすごく好きで好きだということをAさんなりに行為で示しているつもりなのだけれど、それをBさんが全く気付かないとしたらAさんの気持ちだとか行為だとか行為が孕む意味だとかいったものはないのと同じなのだろうか。あるいは、Bさんがすごく鈍い人で、言葉になったものしか受け止められない人だとしたら、言葉にならないちょっとした仕草や、会話のもつ微妙なニュアンスなんかは、受け手を持たなくなるわけで、ということは、そういうものは存在しないということと同じことなのだろうか。
多分違うとは思う。
特定の相手に向かって投げかけられたものが、投げ手の意図通り相手に受け止められることなんてまずないし、どんなにお互いを分かり合っている者同士にも、受け止めきれないものというのはある。でも、だからといって、相手に受け止めてもらえなかった言葉や思いや行為の意図といったものは消えてなくなるのではなくて、やっぱりどこかに何らかの形で残っているはずなのだ。でもどこに?どうやって?受け手のないままさまよっているような思いや言葉に意味はあるのか、ないのか。
言葉の力というのは、投げ手の意図がまっすぐに受け手に届いた時に生まれるのか。それともそれは純粋に受け手の中で起こっていることであって投げ手の意図とは関係がないのか。あるいは言葉の力は、誰にも受け取ってもらえないままにその辺を漂っているものの内にこそ宿っているようなものなのか......

posted by f at 2004/02/16 0:01
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