夏の終わり

08312004.jpgこの更新頻度の低さ...

最近割と規則正しい生活を送っている。夜2時過ぎぐらいに寝て朝8時に起きるというスケジュール。以前は何時に寝ても朝10時前に起きるというのが苦痛で、だから就寝時間を遅くすることで睡眠量の調節をしていたのだけれど、最近6時でも7時でも割と平気。
朝ちゃんと起きられるようになったきっかけは考えることをやめたせいだと思う。「なんで起きないといけないんだ」とか「起きたからといってなんなんだ」とか、起きてからやるべきことがらについて考えることをいっさいやめて、ただ、目覚ましの音が鳴ったと同時に自動的に体が反応するよう訓練すると起きることが苦痛でなくなる。

疲れている時というか苦しい状況に追いやられたときほど人というのは妙に哲学的になって根源的な問いについて延々考えてしまったりするものだと思うのだけれど、そういう意味では朝方の私の哲学度数はかなり高いと思う。生きるとは何か、とかね。かなり真剣に考えてるもの。ベッドの中で。いや、起きるくらいでそんなに悩まなくても、と自分でも思うけれど、でも朝が弱い人間にとってはベッドから出るということはそれくらい辛い問題なのだ。って言い切ってよいものなのか。
とはいってももちろん学校にはちゃんと行くし、基本的にワーカホリックなので、締め切りにおわれているときとか忙しい時には根源的な問いなどほっておいてちゃんと起きる。睡眠時間1時間だろうとすっきり起きる。でも、それができるのはつまり、頭の中も身体もその時々の雑事や限定的な問題に支配されていて、何の役にも立たないようなことを漠然と考える隙がないからなのだろうな、と思う。根源的なことを考えるのにはエネルギーがいるのだ。
考えること自体が仕事のくせに、ちゃんと仕事をするには考えることをやめないといけないなんて、とても矛盾しているようだけれど、でも、仕事の能率に影響を与える問いと与えない問いというのはやはりあるわけで、そのへんはやっぱりバランスが必要なのだろうか。
まぁ、でも、こういうことを考えたりするのもやっぱり起き損なった朝にだったりするわけで、昼も過ぎる頃には「何をあんなに悩んでいたんだ」と思ったりするわけなのだけれど。

授業の方は未だ学生との探り合いという感じ。やっぱり女性、若い(周りの教授と比べてというだけだけど)、服装がカジュアル、変なアクセントの英語、と揃っているので、それはそれなりに努力しないと学生からの信頼など得られない。これはもうどうしようもないことだと思う。でも最初の段階での学生の評価や期待が低いということは、一旦「こいつ、思ったよりできる」と思わせることができれば一発逆転のチャンスがある。あとはもう、とことん誠実にやるしかない。といってもメールをきちんと返す、時間を守る、間違いはすぐに認めて訂正するといったようなことだけれど。
普段の私を知っている人にとって教師としての私は、多分随分と感じが違うと思う。でももともと欠けた所だらけの人間なので、すべての人に対してまめに、そして誠実に接するということがなかなかできないんだよなぁ... 持っている誠実さの99%は学生との関係で使い果たしている気がする。ステチーが私の生徒になりたいというのもよく分かる(もしくはペットでもいいや、とも言っている...苦笑)
駄目だよなぁ...ほんと。
まぁ、でもダメ学生だった過去も物事を理解するのに時間がかかったりする性格や、これまでいっぱい回り道や失敗をしてきたことは、学生との関係という上ではプラスに働いているのかな、という気もしないでもない。哲学が誰にとっても必要な学問ではないように、教師というのを誰もが必要としているわけではなくて、教師なしでもできる人はできる。でも生きる上でどうしても哲学的な助けが必要な人がいるのと同じように、教師、というよりはある種のタイプの人との関係を必要としている人もいるわけで、そういう人の手助けができればいいな、というようなことは思ったりする。それができているとは思わないけれど。必要だったら使ってね、ぐらいのメッセージは伝えられているとよいな、と思ったり。

近況&覚え書き

09022004.jpgえぇと、やる気にムラがありまくりなのをどうにか直せないものだろうか...

最近はもっぱら自分のクラスの準備でてんてこまい。週3時間教えて月給が10万にもならないというのはどうなんだろうという気もするけれど、まぁ、poverty lineギリギリとはいってもやっぱり私たちは特権化された貧困層なので文句はいえない。というか、まぁ、教えるの好きだし。
教えるクラス、最初は「開発と文化」というタイトルだったのだけれど、シラバスをいろいろひねくり回しているうちに、少しづつ内容が変わってきて、最終的に「技術倫理:近代技術の構造とその批判」というタイトルになってしまった。えぇと、中身はそこまでかわっていなくて、理論とケーススタディーズが半々くらい。で、理論については、うちで開講されている他の応用倫理系のクラスは全部分析哲学よりなのでこれは大陸よりに。読むのはハイデガーの「技術論」、ハバーマスの「『イデオロギー』としての技術と科学」、マルクスの「疎外論」、フーコーの「主体と権力」など。あと、後半にハバーマスの「技術の進歩と社会的生活世界」を入れて、あと、民主主義的な枠組みを改良することで技術官僚制に陥らないような、人間の側から技術をコントロールしていくような可能性を探る論文を2本ほど(Ellulが"The Technological Society"の後に書いたものを含)。まぁ、大陸系技術論の授業としては王道な選択だと思う。アドルノ(技術批判)とかアレント(技術官僚制批判)も入れたかったのだけれど、テキストとして使いやすく、かつ他の文献とのつながりが分かりやすいものを見つけられなかったのでこれは今後の課題とする。次回はもうちょっと理論に中心をおいて、Feenbergあたりがまとめたやつを一冊基本テキストとして使うかもしれない。

というか、こうやっていろいろ試行錯誤しているうちに、日本でK教授が環境倫理の授業でやろうとしていたのはこういうことだったのか、ということを、なんというか、しみじみと実感した。分かっていたつもりではいたのだけれど、こう、自分で試行錯誤しつつ、こういう風に話をつなげるにはここでこの文献を読ませて...なんてことをやってできた結果がK教授から習った環境倫理の授業の枠組みと非常に似通ったものになっているということに驚いたというか何というか。単にK教授の影響を受け過ぎ、という風にも言えるかもしれないけれど、でも、今回の授業の内容というのはかなり自分がやりたいことに近いとは思う。

ちなみにこっちで授業をする時一番大変なのは文献の選び方だと思う。日本ではイントロの場合、特に指定文献のないまま、教授が毎回ハンドアウトを配って講義をしたりすることもあるけれど、こっちではほぼ毎回リーディングアサインメントがでて、それにそった形で授業が進む。しかもそのアサインメントはその分野のおおまかな概要をまとめた単一の文献を読むのではなく、部分的ではあっても大本の文献を読むという仕方で進むことが多い。環境倫理で言えば、動物の権利運動とは云々という説明的な文章を読むのではなく、シンガーを読み、リーガンを読み、ファインバーグを読み、という形で進む。だからそれぞれの分野の主要文献の抽出部分をあつめたものがテキストとしていくつもでている。
ただ技術論というのは環境倫理と同じ位か、大陸哲学の分野ではそれ以上の歴史があるのに、アメリカの大学で教えるためのテキストとして使えるものは見たことがない。というか見つけられなかった。大陸よりということも関係しているのだろうけれど。
というわけで一から文献選びをしたわけなのだけれど、一時間の授業が週に3回あって、それが13週分。間に休日やディスカッションのみの日が入るとしても全部で25-6文献揃えなければならない。これって、まじできついですよ。なにがきついって文献コピーしてコピーライト表記とかしてリザーブデスクに持っていくのがつらい。あとそれなりにつじつまあわせながら26文献そろえるのも辛い。
ちなみに技術倫理で検索してみたところ、ほぼ同じ文献で授業をしている人がいて、誰だろうと思ったら先のFeenbergだった。しかもそれは大学院向けの授業だった。やっぱりイントロでは無理があるかもしれないなぁ...とも思うけれど、まぁ、できるかぎりやってみる予定。まぁ、そもそもハイデガーやハバーマスを2日で読んで1時間で理解できるとも思えないし。もちろん理論的な部分にもっと時間を割いてもよかったのだけれど、ケーススタディーズを中心に理論を補足的に使うというプランをたてていたこと、授業をとっている学生の多くが自然科学専攻なこともあって、理論は全体の1/2を超えないようにしたいと思っていて、それでますますスケジュールがタイトに。

そして昨日、先学期のTA評価が戻ってきた。一人の学生からDをつけられたのと、あと一人から英語のことを指摘された以外はおおむね良い評価。まぁ、専門が環境倫理なのに「内容が分かっていない」とか言われたらおしまいだけれど。そして、言語については毎学期一人は必ず指摘されるなぁ...もちろん指摘されてもっともなのだけれど、いつまで指摘され続けるのだろう、という気もしたり。
あと個人的には「○○についての説明が分かりにくかった」とか「あの例題はとてもよかった」とか、授業についての具体的な感想が欲しいんだけど、やっぱりそういうのは出てこないなぁ、というか、まぁ、それはevaluation sheetそのものの構成に問題があるからだとは思うのだけれど。結局、やさしいとか学生思いだとか(そうなのですよ。私は自分の学生はかなり本気で愛しているのですよ。)、それはそれで言われればうれしいけれど、教える技術の向上にはあまり結びつかなかったりもするわけで、まぁ、難しいところだなぁ、と思う。あ、全体像を図化したのが良かったというコメントはあった。なんでも簡略図化する、時としてマイナスに作用しがちなこの性格も分析哲学を教える上では役に立つよう。

 
September 2004
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