"gummo",directed by harmony collin

 舞台はアメリカ合衆国のとある田舎町(正確にはオハイオ州のジーニア)である. 
 ここはかつて実際に竜巻きの被害にあった町であり,映画はその時の様子を写したホームビデオの映像から始まる.隣のおじさんが屋根のアンテナに刺さっていた...なんていうナレーションが入る.この閉ざされた田舎町に暮らすのは,そこ以外にどこにも行き場がなく,またそこを離れては生きていけないような一見普通のおかしな人々.子供達は常に欲求不満で自分のありあまるパワーを何に向ければよいのか,その対象も見出せないまま悶々とした日々を送っている.もちろん憧れは(ハード・)ロックスターかスポーツ選手.彼らはエアガン片手に町を徘徊し,猫を発見しては撃ちまくってなぶり殺しにし,その肉を町のレストランの裏口で店主に売り渡しては小遣いを稼いでいる.その金で手に入れるのは安くてトべるシンナーとセックス.ある時はシンナー片手にお先真っ暗な自分の未来を呪いながら時間を潰し,またある時はポケットに金を忍ばせて知的障害のある女性の住む家に出かけセックスしたりする.彼らからお金を取って彼女を与えるのは,その彼女の父親である.家に帰れば過去に囚われ,自分達の果たされなかった夢,というよりも自分が否応なく押し込められてしまった今の状況に抑圧的な形で彼らをとどめようとする母親達が待っていて,どこからわいてくるのかも定かではない愛情と呼ばれる一種の感情を彼らに対して見せつける.父親はいない.
 いっつもウサギの耳をつけている男の子はやせっぽっちで言葉を発せず,高速道路の高架からもうスピードで素通りしていく車に向かって力なく唾を垂らし続ける.女の子達はアイドルとの恋物語に憧れながら,形のイイ胸の作り方なんかにとりあえず没頭できるふりをする.
 ここで登場する人々は,みんな今ある状況でない状況を夢見ながらそんなものはしかし決して存在しないこともまた知り尽くしているかのように,行き場のない状況を受け入れそこに留まり続ける.徹底した無気力と深い絶望感,それらは時折衝動的な破壊欲求へと姿を変える.生きることの夢も希望も,その必然性さえも見えない世界である.しかしこうした世界がある作られたリアリティを持って我々の目の前に現れてくるのはなぜなのだろう.それは都会のサクセスストーリーにはない,だが同様に都市を徘徊するストリートチルドレンのドラッグとセックスとガンに象徴されるような退廃感とも決定的に異なる何かなのだ.それを何と呼べばよいのか,それはいったい何なのか...
 少なくともここにあるリアリティとは,単に近代の夢はもう破たんしているといった単純なものではなく,夢も希望もない世代に対するアイロニカルなシンパシーから起こるものでもない.ここにあるのは...ここにあるのはもしかしたら,現在の状況から解放された自己を夢見ることが可能だったかもしれない時がすぎ,今ここにある様々な物事に規定されると同時にそのことによってこそその存在が,破壊された形での自己を把握することができるという,絶望的ながらもある断片的な自己認識の可能性...なのかもしれない. 

posted by f at 2000/11/09 1:36
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