『揺らぐジェンダー/セクシュアリティ』

図書館でやっていた『揺らぐジェンダー/セクシュアリティ』という企画を見に行って,最後の日の一番最後のビデオ作品だけなんとか見ることが出来ました.テレクラもので,個人的にはすごく興味があったんです.映像,音響共にコレデモカ!ってぐらいのロー質で,あまりの見にくさ聞き取りにくさに退いちゃった人も多いのでは...と思ったりもするのですが,でも個人的には結構衝撃を受ける所がありました.
話としては33才,亭主子持ちの主人公(監督さん)が,でもなぜか若い男の子(ちなみに25才まで)に対する執着というか憧れと言うか...を捨てることができず,若い男の子を求めてテレクラにのめり込み,どうしても止められないっていう状況になっていく...というかそうなっちゃった人の日常.一応ね脚本とかもあって,作ってはあるみたいなんですね,でもなんかどうしようもなくのらりくらりとした毎日を生きているこの主婦が,偶然知り合った若い男の子を脱がしベッドに連れ込もうとする,その時のその瞬間の力を垣間見てしまうと,もう画質や音質の悪さなんてどうでもよくなる.あの力はいったいなんなんだ...ってことで頭がいっぱいになっちゃう.本当にすごいんですって,その真剣さというか切実さというか...それが自分の生を支える最後の砦...とでも言わんばかりの凄み.そりゃあ男の子もやられちゃいます.なんで亭主がいて子供がいて決まった時間に仕事とかに出かけて学校行事にも参加する主婦が,金銭的にも肉体的にも物理的にはいかなる生死の危険性にも直面していないような人が,こんなに追い詰められてテレクラにおける性という領域においてしか自己の生を認識できない,生きている実感を得られない,生きて行けないっていう状況になるんだろう.でもそれはある意味とてもよく分かったりもするわけで...多分日常のありふれた生活には,そこにおいて「私」の生っていうものが確立されることを妨げるような要素が含まれているんだと思う.そこで私は「○○さんの奥さん」であり「○○ちゃんのお母さん」でしかありえない,と.で,それは私が思う「私」とはどこかずれている.結局私は家庭において,学校において,職場においてさえもある記号(他者がそうであると思う所の私)としてしか存在しえないのだと.で,それに対して,本来の自分であり得るような場所を,自分を縛り付けるあらゆる属性から離れて存在できるような場所を求めてテレクラやそこを通じての見知らぬ新しい他者との出会いを求めるのだと.さらに性的行為というのはより本来的な作り物でない自己になれる瞬間っていうような感覚もそこにはあるのかもしれない.それが本当にそうかどうかは別として.
ついでにいうと,この主人公の置かれた状況の切なさが最も強く表れているのは,この作品に寄せられた監督自身のメッセージ(今回上映された作品にはすべて監督からのコメントがつけられていたのですが,彼女のコメントが個人的には最も好感持てました.)の中においてだと感じました.もし世界が全部テレクラになってしまったら自分は社会とのつながりをすべて失うことになって,多分そこにあるのは死だろう...といった内容のことがそこには書いてあります.そして彼女がこの作品を撮ることによって辿り着いた答えは,今の自分は自分を何らかの形に規定してくるような日常にもはまりきれず,かといってテレクラの世界に完全にはまることもできず,結局日常に縛られたまま,そこから常に逃れようとする自己を認めつつ,そこにしか生き延びる道はないと思ったりしながら死なない程度に生きていくっ...という所だったりするわけです.
いやでも本当にそれしかもうないんだと思う.でも大事なのはそこであきらめてぼんやりと生き続けるんじゃなくて,いかにそれを肯定的に見つめていくかっていう点なんだと思う.そうじゃないと人生はあまりにも切なすぎる...って気がしませんか.

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レスポンス
テレクラへのめり込む時の衝動の内には,現実からの逃避(ここでいう現実とはもちろんそこにおいて生きていく可能性をもはや見い出すことができないような安全で安定していて真っ平らな世界みたいなもの)という願望が含まれているだろう.
しかしここで限り無く重要なのは,そこで最後の脱出口を求めテレクラにはまっていく人々が,この脱出口は虚偽にすぎないということを自覚してしまっている点であろう.

だから例えば主婦がテレクラにのめり込む最も根本的原因は「日常世界において生きていく可能性を彼女が失っている」ということよりもむしろ可能性そのものの虚偽性が彼女に対してどうしようもないほどに明らかになる...といった方がよいのかもしれない.
可能性とは常にあるかもしれない未来やそこにおける自己の形式として垣間見えるようなものであり,そこに辿り着く道は存在しているかもしれないけれども,可能性そのものは常に遠くはかない.
それは手に入れたとたんもはや可能性ではなく自分の生活の一部となって安全で安定した生活の内へと組み込まれ慣れ親しんだものとして消費されてしまうだろう.
結局現状から逃れようとする人々は,必然的に可能性の設定→消滅(消費)→新たな可能性の設定という終わりのないサイクルに取り込まれていく.そしてそこで明らかになるのは可能性などというものは結局のところ虚構にすぎないという絶望にも似た確信であろう.

結局テレクラにはまる主婦も鬱病に押しつぶされていく人々も,可能性の空間がすでに失われているという点においては同じなのである.ホテルで一時的な快楽に溺れる(ふり)をしてみるのも部屋の中で一人不安発作と格闘するのも苦しみの質としては多分同じなのだ.

それでは,虚偽的脱出口でしかないという絶望感を胸に電話に手をのばし続ける人々,あるいは鬱病ですという診断を受けて薬をのみ続ける人々,一度でもそんな状態を体験してしまった人々にとって,再び日常と向かい合って生きていく可能性は開かれているのだろうか?
それともそんなのは所詮無理な話なのだろうか...
私が今の段階で考えうる希望なんてものはほんのちっぽけなものなんだけども,多分次の点にある.つまり例え一時的にしか見い出すことができないとしても,可能性の領域あるいはその虚偽性といったものは,終わりのない現実から一歩抜け出そうとする衝動によってはじめて見えてくるものであるという点である.
そしてそこから闇へと落ち込んでいく人もそりゃあ沢山いるんだけど...でもやっぱりそこからしか始まらないっていうのもあるんだと思う,絶対.
これってK先生の言っていることと同じか.

でもやっぱり...単に現状肯定的に日々を(死んだように)生きるか,もしくは本質的には虚偽としての可能性の領域を設定することで,闇に陥る危険性を常に抱えたまま,なおかつ現実から一歩抜け出そうとするか...この二つの選択しかないんだとすれば人生ってやっぱ辛いものなのかも. 

posted by f at 2000/11/11 2:11
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