トーキョーエロティック

アップリンク・ファクトリーで「由美香」を見た。
劇場版「わくわく不倫旅行」のメイキング版で、ほとんど手持ちのビデオカメラで撮影された2時間半近い映画、というよりはドキュメンタリーだ。AV歴7年目(当時)のベテラン女優、林由美香と監督の平野勝之が、自転車で日本の最北(トド島)をだらだらと目指し、その道中だらだらとセックスする、そんな映画だ。平野は既婚者で、由美香とは不倫の関係。どうしても彼女で一本撮りたくて、半分無理矢理今回の企画を通した。

旅の途中、いろいろな人たちが登場する。3年間もひたすら日本をぐるぐる回っている人、徒歩で日本一周を目指す人、爽やかな女性ライダー、夏休みを利用してやってきた中学生や高校生、アウトドア派のカップル。「竹馬で日本一周なんて人もいますよ」。世俗的なものかしらどこか遠い所にあるような、あるいは少なくとも世俗的なものを脱ぎ捨てようとしているかのように見える北の放浪者たちの中にあって、このAV不倫ライダーカップルは明かに異様だ。

由美香は日焼けをさけるために、暑い日差しの下、完全装備で自転車を漕ぐ。どんなに暑くなろうと、どんなに汗まみれになろうと、長そでシャツを脱ぐことはないし、手袋、サングラスにつばの長い帽子を取ることはない。日焼け止めも欠かさない。夜にはテントで熱心に毛抜きをし、お肌のお手入れをかかさない。もちろん日の光の下、北海道の自然を楽しむなんてこともない。普段と変わらず、一日一回はラーメンを食べるし、夜は夜で酒をかっくらって寝るばかり。平野は日焼けこそ気にしないものの、ほとんど片時もビデオを離さず、ネタを求めてビデオをまわし続ける。美しい景色を前に考えることといえば、どのようにして由美香にうんこを食べさせるかということばかりだ(それとひきかえに「由美香」の名前をタイトルに映画を撮ることを許可されたのだ)。同時に、うんこを食べることを強要することによって由美香に振られることにでもなったらどうしようという、こちらも極めて世俗的かつなさけない悩みなんかもあったりする。

いろんなものをかなぐり捨てて、自由になっていく(かに見える)放浪者仲間と違って、この二人は、その行動も話の内容も思考回路も、すべてがどうしようもなく世俗的なのだ。セックスも正常位ばかりだし、画質は悪いし、カメラのアングルも極めて単調だ(もちろんAV用に作られた部分はちゃんと撮っているけど)。その辺を歩いているカップルのプライベート・ビデオを見てしまったような居心地の悪さを感じたりもする。

でも一方で、二人の間にある、退屈で凡庸であっけらかんとした笑いに、救われたような気持ちになったりするから不思議だ。
下らない歌ばっかり歌ってる平野氏。
熱心に陰毛を抜く由美香ちゃん。
初めて見る蛍や満天の星空。屋外での食事や、キャンピングカーでの夜、夕張メロンの朝食... ちょっとしたことで幸せになっちゃう二人。
キャンプ場で見かけるおもしろおかしな人の話に二人でクスクス盛り上がる。
普段と変わらない日常のようでありながら、実際にはその時、その場所にしか存在しえないような一瞬のきらめき。その刹那さは切ない哀愁を誘うけれど、多分、幸せというものがあるとしたら、そういう形でしか存在しえないのではないかと思うような、そんなさりげない美しさを持っている。そこに二人の関係の核があって、あぁ、だからこの二人は一緒にいなくてはいけないのだ、という気になる。平凡なセックスをくり返し、他愛もない会話を共有し、ちょっとしたことで仲たがいする、そんな日常を生きていく意味は、こういう一瞬にあるのかもしれない、と思う。

生きることは諦めることに近い。
選択肢の数と実際に選択できるものの数が異なっている以上、それはどうしようもないことだ。結婚した人は結婚しないで生きるという可能性を諦めることになるし、結婚しなかった人は、結婚生活を諦めなくてはならない。別にどちらがいいというわけでもないし、諦めることが悪いというわけでもない。ただ、生きるということはそういうものだというだけだ。別に自らが選んだ人生に満足していないわけではないけれど、それでも時に、失われてしまった別の可能性を思って感傷的になってみたりする、そういうものだ。

そして人生はある程度まで、平凡な日常に慣れ親しんでいく過程でもある。どんなに苦労して手に入れたものであっても、その時の感動やエネルギーが永遠に継続するわけではない。大恋愛の末に一緒になったパートナーとの生活も、毎日続けばやがて新鮮さは失われてしまう。それでも日常は続く。そんな日常を支えるのは、多分、一瞬のきらめきなのだと思う。代わり映えのしない日常にスッと切れ目が入って、そこから光が差し込んでくるような、そんな感じ。その光によって当たり前の光景が、一瞬キラリと輝く。大切なのは、光り輝くその瞬間よりも、むしろ日常に切れ込みを入れるその契機の側にある。日常に宿る細部の微妙な関係性の連鎖が一瞬の光を生むのだとすれば、その一瞬の結合へ向けて自らと他者、あるいは日常の細部との関係性を修練していくことが要請される。別にその為に何か特別なことをする必要はないと思う。ただ、ある種の繊細さ、みたいなものは必要かもしれない。ささいなものや他者とのつながりに対する繊細な感受性。
そういうものを求める気持ちが、じわりと滲み出る映像だった。

posted by f at 2003/07/10 1:08
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