昨日から筋肉痛。
限り無く消費エネルギーの少ない生活をしているっていうのに。
今夜は餃子を作ったのだけれど。
いつものとは違う餃子の皮を買ってきたみたいで。
黄色っぽくて、すごく薄い皮。
延びが良くて感激。
それに、皮が薄いせいか、胃にもたれずにパクパクパクと、
気がついたら10個ぐらい食べていた。
どうやら世の中には、死にたいという気持ちがない人もいるみたいです。
死にたいな、と思っても、いろんなことを考えて、それを思いとどまる。
つまり、死なないようにしようと思う、その気持ちとはまた別らしいのです。
大変なことがあっても、辛いことがあっても、不思議と死ぬという気持ちにならないのだそうです。死ぬなんてバカらしい、とかいう、そういうのもとも違うらしいのです。
かくいう私は、もう本当に小さい頃から、社会とか、自分の外の世界がどんな所なのかも分からないまま、そういうものに対して、漠然とした絶望感みたいなものばかりを強く感じている、そういう可愛げのない子供で、曖昧ながらも常に死に向かう気持ちを抱えながら成長してきたので、死にたいと思わない、というその状態がどんなものなのだか、さっぱり想像できないのです。
長寿のおじいちゃん、おばあちゃんとかは、もしかしたらそういう人たちなのかもしれない。死に引きずられない人たち。
死にたいという気持ちがない人が、死にたいして鈍感だとか、人生に対して楽観的だ、とかいうわけじゃないと思うのです。生きていれば、否応なく人の死に直面させられるわけで、すっごい哀しいこととか、すっごい辛いこととか、きっとたくさんあると思うのです。
でも、そこで、私なんかは、どんどんネガティブな方向に引きずり込まれていっちゃうんだけど。人の死に引きずられて、もう何も食べられなくなってしまったり、廃人のように何週間も部屋に閉じこもってしまったり、毎日毎日泣いてばかりだったり、あげくに倒れて人の世話になったり。一旦そういう状態になると、もう生のポジティブな側面とかいうのが見えなくなっちゃう。生きている意味なんてない、とか思ってしまう。
でも多分、死に向かう気持ちがない人というのは、いくつもの人の死と向かい合い、日々、困難と直面しながらも、さりげない生の喜び、みたいなものを感じ取る能力に長けているのだと思うのです。
おいしいものを食べる瞬間とか、
さりげない日々の会話とか、
綺麗に晴れた日の空とか、
朝方、遅刻しそうになりながら慌てて駆けていく子供の姿だとか、
そういうものから最大限のパワーを受け取って、
自分の生を楽しむことができるんじゃないかと。
そういうのって、すごいなぁ、と。
といっても、私は私なりに、この生に対するネガティブな性格と一緒にここまで生きてきたのであって、死に向かう衝動がない人を、とりたててうらやましいとかは思わないんですけど。それでもやっぱり、ちょっといいな、なんて、ないものねだり的な憧れを抱いたりはするわけです
昨日から筋肉痛。
限り無く消費エネルギーの少ない生活をしているっていうのに。
今夜は餃子を作ったのだけれど。
いつものとは違う餃子の皮を買ってきたみたいで。
黄色っぽくて、すごく薄い皮。
延びが良くて感激。
それに、皮が薄いせいか、胃にもたれずにパクパクパクと、
気がついたら10個ぐらい食べていた。
どうやら世の中には、死にたいという気持ちがない人もいるみたいです。
死にたいな、と思っても、いろんなことを考えて、それを思いとどまる。
つまり、死なないようにしようと思う、その気持ちとはまた別らしいのです。
大変なことがあっても、辛いことがあっても、不思議と死ぬという気持ちにならないのだそうです。死ぬなんてバカらしい、とかいう、そういうのもとも違うらしいのです。
かくいう私は、もう本当に小さい頃から、社会とか、自分の外の世界がどんな所なのかも分からないまま、そういうものに対して、漠然とした絶望感みたいなものばかりを強く感じている、そういう可愛げのない子供で、曖昧ながらも常に死に向かう気持ちを抱えながら成長してきたので、死にたいと思わない、というその状態がどんなものなのだか、さっぱり想像できないのです。
長寿のおじいちゃん、おばあちゃんとかは、もしかしたらそういう人たちなのかもしれない。死に引きずられない人たち。
死にたいという気持ちがない人が、死にたいして鈍感だとか、人生に対して楽観的だ、とかいうわけじゃないと思うのです。生きていれば、否応なく人の死に直面させられるわけで、すっごい哀しいこととか、すっごい辛いこととか、きっとたくさんあると思うのです。
でも、そこで、私なんかは、どんどんネガティブな方向に引きずり込まれていっちゃうんだけど。人の死に引きずられて、もう何も食べられなくなってしまったり、廃人のように何週間も部屋に閉じこもってしまったり、毎日毎日泣いてばかりだったり、あげくに倒れて人の世話になったり。一旦そういう状態になると、もう生のポジティブな側面とかいうのが見えなくなっちゃう。生きている意味なんてない、とか思ってしまう。
でも多分、死に向かう気持ちがない人というのは、いくつもの人の死と向かい合い、日々、困難と直面しながらも、さりげない生の喜び、みたいなものを感じ取る能力に長けているのだと思うのです。
おいしいものを食べる瞬間とか、
さりげない日々の会話とか、
綺麗に晴れた日の空とか、
朝方、遅刻しそうになりながら慌てて駆けていく子供の姿だとか、
そういうものから最大限のパワーを受け取って、
自分の生を楽しむことができるんじゃないかと。
そういうのって、すごいなぁ、と。
といっても、私は私なりに、この生に対するネガティブな性格と一緒にここまで生きてきたのであって、死に向かう衝動がない人を、とりたててうらやましいとかは思わないんですけど。それでもやっぱり、ちょっといいな、なんて、ないものねだり的な憧れを抱いたりはするわけです