青い空とか死ぬことについてとか

すごい良い天気。
今週末はプログラム主催の学会があるのでその準備でバタバタ。
なんというか、音楽とか食器集めとかでもそうなんだけど、いったん火がついた時の私のパワーはすごいものがある。参考資料とかがすっと集めてがすっと知識を詰め込んで、短期間でぶあっと一定量のものを揃えて......やる気のなさにかけては人一倍な私のどこからそんなパワーが出てくるのか自分でも不思議だ。
それにしてもこのパワー、ここの所学問方面に関しては全く発揮されていないのだけれどどうしたものか。

先日亡くなったKのお父さんは60代前半だったらしい。微妙な年代かもしれない。一応社会的な領域から引退した後ではあるけれどまだ老後と言うには早いような。でもK曰く「最初はすごくショックだったけど、うちの父親、最近めっきり老けこんでいたから、時間が経つにつれ、何となく、あぁ、これが彼の人生だったんだな、って納得するような所もあって......」らしい。

同じようなことをたまに思うことがある。
例えば若くして亡くなった人に対し、寿命を全うできなかったとか、これからまだまだやりたいことがあっただろうに、というようなことを言う人がいるけれど、そういう言葉の背後には、平均寿命を基準に人生のステップ(幼年期、少年期、青年期等々)というものが設定されているように思う。若い人の死は、人生のステップを途中で踏み外してしまうことと同義で、その中途半端さゆえに、あるいはまだ見ぬ段階を抱えているがために悲しむべきものとされる。
でも、当たり前のことだけど、すべての人が80年分の人生を持って生まれてくるわけではないわけで、世の中には90歳まで生きられる人もいれば10歳で人生を終える人もいる。もし人生のステップというのが平均寿命を基準にした年齢区分によってのみ設定されうるものだとしたら、人は15、6歳(もっと上?)にならないと青年にはならず、30歳なりなんなりにならない限りは中年にならず、55歳なり60歳なりにならない限りは老年にならないということになる。つまり10年分の人生しかもたずに生まれて来た人は、人生の青年期や熟年期や老年期といったものを絶対に経験できないということになる。
でもそれは本当なのだろうか。
死ぬ直前の人が、突然すごく大人っぽく見えたり、何か悟りを開いたかのような意味深い言葉を口にしたりすることがある。後から思っても、なぜその人がその時に限ってそんな風に見えたのか、あるいはなぜその人の言葉がそんな風に聞こえたのか、うまく説明がつかないような。それは、死んだ人のことをずっとずっと考えているせいで、死んでしまった人のささいな行為や言葉に必要以上の意味を見いだしているだけなのかもしれない。人の死を自分なりに受け入れるための、どちらかといえば自分本位なプロセスに過ぎないのかもしれない。でも、人より長く生きることのできなかった人が、長く生きることのできた人より何か経験として欠いているのかと言われたら、やっぱりそれは違うと思う。10年の人生を持って生まれて来た人は、その10年間のうちで、80歳まで生きた人と同じだけのことを、多分、すごい密度でもって経験しているのかもしれないし、30歳で死んでしまった人は、それ以上年を取り損ねたのではなくて......じゃあ何なんだ、と言われるとうまく説明ができないけど、そしてやっぱり若くして死ぬのは辛いこともまた確かなのだけれど、でも、じゃあ80歳の人が死ぬ時に何も思い残すことがないかといえば、多分そうではないわけで、80歳の人が思い残したことと30歳の人が思い残したこととの間に違いがあるかといえば多分ないわけで......そして思い残したものの数と人生の密度とはまた違うわけで......

全然まとまらなくなってしまったけれど、こんな風に雲一つない青空の日に限ってつい死ぬこととかばかり考えてしまう私はやはり暗いのだろうか。でもこれって悩み多き年頃(もう過ぎた)を南国で過ごしたせいなのかもしれない。青空を見ると反射的に暗い気持ちになったり考え込んでしまったり。弱っていると特に、太陽の明るさについていけない。
というわけで、元気をつけるために今日はジャンク探しに行ってきます(逃避)。

posted by f at 2004/04/15 22:04
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