ミルクティーには濃い目のアッサムを

友だちは少ない方だと思います。
しかも最近、どんどんどんどん社交性がなくなってきているような気もします。

ちなみにうちの恋人は、結構誰とでも仲良くなれるというか、
なんか好かれるタイプなんですが。
いい奴って感じで。
嘘だよ!ダマされてるよ!本当は無茶苦茶人間不信野郎だよ!!
と、私なんかは思うわけですが、
ま、彼は好かれます。
誰からも受け入れられやすいタイプ。
親とかに紹介するにはいいかと。
爽やかナイスガイって感じで。
昔はイジメラレっ子だったくせに。

あぁ、いや、でも、そう。
私、ダメで。
もう、自分から見知らぬ人に話し掛けるとか全然ダメで。
何かですね、刹那的な、その時だけの関係だったらまだいいんだと思うんです。
それか、なんかこう、半分否応なく、今後も関係が続いていくであろう人とか。

でも、なんていうか、その中間ぐらいの、
なんかこう、タイミングとか、お互いの努力とかで今後の関係が決まりますっていうような、そういうのダメ。
そういう時は大概何もせずに、そのまんま、
微妙な距離感を保った人間関係が構築される、と。
すごい居心地悪い。でも、改善する気もなし...みたいな。
どっちかがね、積極的になればいいんだと思うんですよ。
ちょっと積極的に、昨日なにした?とか、
好きな音楽は?とか、
そうやって会話を続ける努力をする。
そうすると、その内何か共通点みたいなのも見つかって急接近、なんてこともあるかもしれない。

というか多分私は、人が自分の大切に想うものについて語っているのを聞くのが好きなんだと思います。
音楽でも映画でもアートでも、
あるいはもっと些細な自分自身の経験でも、
それを大切にしている感じがヒシヒシと伝わってくる、
彼/女がそれを語る中に、ある種の切実さが内在している、
そういうのが好きだし、そういうものを持っている人と、そういうことを話し合えるような関係になりたいと思ってしまう。

多分重要になるのは、「ある種の切実さ」っていう部分なのかもしれない。
それが、単に自分の趣向を他人に押し付けようとする人の不快な饒舌さや、
深みのない冗長な会話のけだるさとは異なる、
ある種の喜びや充実を生み出す要素となる。

もちろん会話に先立って私が彼/女の「ある種の切実さ」を理解している必要は全くなくて、むしろ、そういうのは彼/女が口にする言葉の内に、あるいは彼/女がその言葉を口にする時のその表情や語り口にすでに存在しているようなものなのだと思う。

そういう人との会話は、本当に心地よくて、いつまでもこの人とこうやって一緒に時間を過ごしたい、という気持ちになる。ただ、お互いのコトを何もしらない状態から、ごく自然にそういう会話ができる状態へと移行できる場合とそうでない場合というのもあって...

私が「この人と話していてもどうも時間の無駄な気がする...」なんて思う人が、じゃぁ「ある種の切実さ」を持って生活していない人なのかというと決してそうではないのだけれど、ただ、どうなんだろう、切実さを感じる対象が違いすぎたりするのかな...

相手の切実な欲求というのが、例えばお金を稼ぐこととかノーベル賞取ることとかにあるとして、その欲求がありとあらゆる言葉の内に、ギラギラと見えかくれするなんていう場合、
私はある意味ひどく無感情になって、
目の前にいるその人をブラウン管に閉じ込め、ミュートボタンを押してしまう。
彼/女の言葉の内にあるのは切実さではなく単に切実な「欲求」なんであって、そのことが二人の違いなのだと言ってしまえばそれまでなのだけど。 

posted by f at 2002/11/25 15:35
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