クリスマスに向けて...

ちなみにDIYショップの植物コーナーでサボテンをいくつか買って来た。
ちょっと珍しめの、アフリカ産のものを中心に。

ステ実家でのクリスマスに向け、ひたすらプレゼント準備の日々。
毎年この時期はとんでもない忙しさで、クリスマスどころではない!って感じなのだけれど、今年は多少時間的にも気もち的にも余裕があるので...
とはいってもお金がないのはいつものことで、しょうがないのでサルベーションアーミー(ジャンク屋)で買ってきたものをいろいろ組み合わせたりしつつクリスマスのオーナメントを作ってみたり。
あとはクッキー等々。手抜きだよなーと思いつつも新聞でラッピングしてリボンをグルグル。
ふと気付くと、死亡通知のページだった... わー。焦ってヤンキース優勝のやつに変えてみたり。


別に不幸な境遇に生まれついたわけではないし、どちらかといえば運は良い方だと思うけれど、生きることは根本的に辛いことだという気持ちがある。せっかく生まれて来たのだから楽しまなくちゃ、と言う人の気持ちは分からないでもないけれど、人生は楽しくなければ意味がないといった考え方には全力でもって抵抗したい。

楽しい人生を送ることは単純に良いことだと思うし、それが、その人の望むことなのであれば言うことはない。でも、だからといって一見全く楽しそうに見えなかったり、お金がないとか健康な身体がないとかいう理由で何らかのリスクを負いながら生きている人たちが不幸だということにはならない。それは不運なことかもしれないけれど、でも不幸なことでは多分ない。それぞれに異なる人生の豊かさだとか幸せだとかを一つの尺度で測ることはできないし、自分が正しいと思う尺度を相手の人生に当てはめることもできない。

ちなみに、人生の価値を測る唯一の尺度がないということは、どんな人生も等しく価値があり意味があるということとはちょっと違う。どんな人生であっても生きることに意味があるといった言い方は、個々人がその個別的な生の営みの内で経験してきた痛みや傷や喜びといったものを、人生という言葉で大雑把に同質化してしまっているのであって、それは単一の尺度によって他者の人生の価値づけをすることと変わりがない。それは結局の所みんな同じ人間なんだから、といった言い方で同意を求めてくる表面的なヒューマニストのやり方に似ている。生物学的に同質であるからといって、全く異なる民族的、文化的、社会的、宗教的背景で育ってきた人々を同じように扱えるなんていう考え方は暴力的だ。どうやっても一括りにできない、分かり合えない、という現実と格闘することを初めから拒否しているように感じる。同じように、個々の人生にはそれを生きている人のみが感じることのできる喜びだとか哀しみだとかがあるはずだ。それは決して他人と共有できるようなものではないのだけれど、共有できないからこそ関係することの可能性が要求されるのだと思う。完全に相手と一致できるのならば、関係は成立しない。というのはつまり、関係というのは本来独立した別々のものを繋ぐ部分のことをいうのであって、完全に一致した状態には繋がりあう空間というものが欠けているからだ。そういう意味で、繋がりを求めることは相手を完全に理解したいとか一緒になりたいとかいうことと本質的に相反するものであるはずだ。

話がズレてきてしまったけれど…
結局の所、ある一つの絶対的な価値基準に基づき、その量によって生きることの価値を決定するような帰結主義的なやり方だと、そこからこぼれ落ちてしまうものがたくさんあると思う。個々の生には決して数量化し得ないような、質的な深みというものがあるわけだし。そしてこの質的な部分にもいろいろな違いがあって、だからこそ、人間であればみんな質的に均しい生を共有しているという風に質の普遍化を測ることもまたできない。
でもそういいつつも実際には、生きることの価値とか意味がすべて個別的なものであってある絶対的な基準だとか他の人の人生に対して相対的に決定されるものではないと言い切ってしまうことの難しさを感じることの方が多かったりするわけだけれど... 

posted by f at 2003/12/23 2:33
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